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Sweet silence


控えめなノックの音とともに、その人物が姿を見せた時、例えではなく本当に病室の空気は一変した。
柔らかそうな髪は、前回会ったときよりも少し伸びただろうか。
何でとか、どうしてという疑問は、頭に浮かばなかった。
綺麗な青灰色の瞳が俺に向けられたことが、ひどく嬉しかった。

「やあ、
「お久しぶり、幸村」

そう言って、はふわりと微笑んだ。



病院は嫌いだった。
どこまでも白い病室と、ほんのわずかな薬品の匂い。
簡素なパイプベッドと小さなサイドボードしかない室内は、清潔と言えば聞こえはいいが、どこか排他的な感じがして好きになれない。
幼いころ同じような室内で日に日に弱っていく祖母を見ていたせいか、病院という場所は俺にとって療養をする場所というよりは、死を待つ場所のように感じられていた。

そのせいだろうか、それとも自分の体調のせいか、病室にいると息がつまる。
検査の時間以外は病室に居つこうとしない俺のことを、看護士達がどう思っているのかは知らないが、毎日見舞いに訪れてくる彼らがあまりに元気すぎるので病室にいないことを咎められたことはなかった。
確かに、あいつらは病院とは無縁なほど、無駄に騒がしいところがあるし。
それでも彼らが俺の体調を心配してくれるのはわかっているので、見舞いに来てくれることは感謝している。
知らず放課後の時間を楽しみにしてしまうくらいには。

おそらく今日も彼らは来るだろう。
真田はまたケーキを買ってくるのだろうか。
特に甘いものが好きではないことを知っているくせに、手ぶらで見舞いに来ることのできない彼は、来る途中の店で数種類のケーキを買ってくるのが日常になっている。
そしてそのケーキを狙って丸井がやってきて、ジャッカルがそんな丸井をたしなめ、柳生と仁王がどこか呆れた様子でそんなやりとりを眺めて。
赤也はどこかつまらなさそうに、それでも生意気そうな顔に少しだけ不安を覗かせて。
大会前に余計なことに時間を取らせたくなかったけど、どうせ言って聞くような連中じゃないし、俺の入院くらいで駄目になるような彼らじゃない。
だから、彼らが来るのはわかっていた。

それでも、まさかが来るとは思っていなかった。


氷帝学園のテニス部正レギュラーで、おそらくは全国でも屈指の選手。
その実力は未だに未知数で、おそらく本気で戦ったら俺でも勝てるかわからない。
大会や練習試合で何度か顔をあわせたことはあるが、友人と呼べるほど親しいわけではない。
誰もが見惚れるほど綺麗な外見と、誰もが羨むほどのテニスの実力。
さらに清廉潔白を絵に描いたような、どこまでも澄んだ性格の持ち主。
親しくなりたいとは思っていたけど、彼の周囲には常に過保護な保護者がついていたため、挨拶程度しか会話ができなかったというのが実情だ。

そんな彼がどうしてここに?

「元気そうだね」

そう言ってふわりと笑うその顔は、何度も見たことがあるはずなのにやはり綺麗で。
さらに輝きは増したように感じるのは、彼が抱えている見舞い用の花籠のせいだけではないだろう。

「…驚いたな。どうやって知ったの?」

病気が発覚して入院をしたのは、つい先日のことだ。
大会前に部長が倒れたということを他校に知らせたくなかったので、俺の入院は学校内でも公にされていない。
にも関わらず他校生であるが今この場にいることの理由がわからなかった。

「ある人から連絡をもらったんだ」
「ある人?」
「そう。あと、ここの院長は祖父の知り合いなんだ。テニスが好きで、去年の全国大会も応援に来てくれていたから、幸村のこともよく知ってたよ」

窓際に抱えていた花籠を置いて、はそう答える。
光を受けて、無機質な空間に色彩が灯る。
青を基調にしたフラワーアレンジメント。
清楚で清廉で、それでいてどこか甘すぎない華やかさは、まるでのようだ。
開かれた窓から入る風が、の髪をふわりと撫でる。
どこか浮世離れしたその姿。
俺が知っているのは氷帝のジャージに身を包んだだけ。
制服姿は初めて見るけど、品の良いブレザーは彼に似合っている。
ほっそりとした外見からは育ちのよさを感じさせるものの、小柄な体格のわりに脆弱さは感じさせなかった。
それはしゃんと伸ばされた背筋のせいかもしれないし、揺らがない強い視線のせいかもしれなかった。

が来てくれるとは思わなかったな。…驚いたけど、嬉しいよ」

そう言うと、その眼差しがほんの少し揺らいだ。
わずかに眉を寄せ、が歩いてくる。
ベッドサイドで立ち止まり、至近距離で青い瞳が見下ろしてくる。
ふわりと触れてくる指先の感触。

「無理しなくていいんだよ?」

………え?

「辛いときに、無理して笑おうとしなくていいんだ」
「………」

どうして、わかるのだろう。

病名を聞いた時の衝撃。
完治しないかもしれないという事実。
そして、もう二度とテニスができないかもしれないという、恐怖。

大会前の彼らに余計な不安をかけたくなくて、ひっそりと心の奥に閉じ込めたそれら。
我ながら上手く隠していると、そう思っていたのに。
ほとんど会話をしたこともないに、どうして見抜かれたのだろう。

は小さく微笑む。
すべてを許すような、温かい微笑み。
優しく触れる手のぬくもりに、閉じ込めていた気持ちが溢れてくる。

強くなければならなかった。
大会前の彼らに余計な心配をかけないように。
自らの運命に負けないように。

それでも…。

「怖いんだ…」

青い瞳を前に、気持ちを隠しておくことができなかった。

「うん」
「このまま身体が動かなくなったらと思うと…怖くて…」

ラケットを握る手に握力を感じなくなったのは、いつだっただろうか。
自分の身体が日に日に重く、鍛えた身体が細くなっていくのがわかって、このまま動けなくなるんじゃないかと思うと怖くて眠れなかった。

…」

言葉にしたら、身体が震えてきた。
情けないと思うけど、どうしても止まらなくて。

「……死にたくないよ…」
「幸村…」
「死にたくない、死ぬのは怖い…」
「大丈夫だよ大丈夫だから」

ふわりと何かに包まれた。
温かい何か。それがの腕だと気付いたのは一拍おいてから。
かすかに聞こえてくる鼓動に耳を傾けていた。
力強く脈打つ、そのリズム。
それは生きている証。

「幸村はこんなに戦ってるじゃないか。その努力が無駄になるなんてことはないよ」
…」

視線を動かすと、穏やかな眼差しが見つめていた。
慈愛に満ちたそれは、不思議と俺の心をすんなりと宥め、気がつくと身体の震えは治まっていた。

「幸村精市は病気になんか負けない。僕が保証する」

の言葉が、身体全体に染みとおっていく。

どうしてだろう。
誰にも言えなかった、俺の弱味。
にだけは、こんなにも簡単に言葉になる。
誰に言われても信じられなかった…いや信じきれなかったのに。
の言葉は信じられる。
。天使に譬えられる少年。
その理由が、今わかった。
は嘘や気休めを言わない。
彼の言葉には、常に真実と本音がある。
外見そのままの、澄んだ魂の持ち主。
まさに、天使。それも救いの天使だ。


「天使の加護をもらえるかな?」

そう訊ねると、はふわりと笑った。

そっと額に触れる、柔らかなぬくもり。
何故だろう、涙が溢れてくる。
恐怖でも安堵でもない、ただ涙が止まらない。

信じたい。
元に戻れると。
もう一度コートに立てる日が来ることを。

切実に、そう願った。


  • 06.05.08