「」
「はい?」
テニスコートへ向かう途中、監督に呼び止められた。
榊監督は一応氷帝のテニス部顧問だが、部活動にはあまり姿を現さない。
さすがに関東大会以降の試合には姿を見せるけど、通常の練習に出てきたことはほとんどない。
僕が1年のときにも練習中は数えるほどしか見たことがなかった。
景吾が部長になってからは練習内容は景吾に一任しているようで、顔を見せることもなくなってしまった。
「悪いが今から山吹中へ行ってきてもらえるか」
「はい」
「これを伴田先生に届けてくれ」
そう言って監督は持っていた茶色の封筒を僕に差し出した。
A4判サイズの封筒には何やら書類が入っている。
「一応重要書類なので、事務局ではなくて直接本人に渡すように」
「あの監督……」
届けるのは構わないけど、重要な問題が一つある。
「山吹中って、どこにあるんですか?」
「………」
僕の問いに、監督は小さくため息をついた。
山吹中の場所は監督に地図を描いてもらった。
そして景吾に事情を説明して練習に遅れる旨を伝えると、あからさまに不機嫌な顔をされた。
挙句自分も行くと言い張って、説得するのが大変だった。
景吾は部長なんだから部員を置いて外出なんて駄目だと諭しても、まったく聞く耳を持ってくれないのだから困る。
しかも、「お前を1人で行かせることのほうが心配で、他の部員もお前のことが気になって練習にならない」とまで言い切られてしまった。
そして話を聞きつけた皆からも猛反対にあった。
迷子になったらどうするとか、知らない人に連れ去られるとか、随分失礼なことを言われてる気がするんだけど。
そんなに頼りなく見えるのかな。
最終的に侑士が同行することになった。
景吾はまだ不満そうな顔をしていたけど、それでも僕が1人で行くよりはということで納得したみたいだ。
両親から僕のことを頼まれているからか、景吾は時々ひどく過保護だ。
学校にいるときはあまり干渉しないのに、部活や放課後などはほとんど一緒に行動している。
特に外出時は必ずと言っていいほど隣に景吾がいる。
東京の地理に詳しくないので、景吾と一緒に行動することに不都合は感じてなかったけど、ここまで過保護にされることはないんじゃないかと思う。
「別に迷子になんかならないのに…」
移動の車の中でそう呟くと、侑士が隣で苦笑した。
当然この車も景吾が手配したものだ。
確かに電車は乗り慣れてないし、どちらかといえば苦手かもしれないけど、黒塗りのベンツで他校に乗り付けるのは、さすがに気がひける。
「そのくらいせな、牽制の意味がないやろ」
「牽制?」
「山吹には要注意人物がおるからな。俺がついてきたのもをそいつの魔の手から守るためやし」
「……あのね、僕は男だよ。そこまでする必要ないの」
初対面の、しかも男の僕に対してそんなことする人がいるはずないじゃないか。
すると、侑士は大きく首を振った。
「男や女なんて、関係あらへん!はテニス部の、いや氷帝の至宝なんや。少しは自覚しいや」
「はぁ…」
拳を握り締めて力説する侑士を見たら、反論する気がなくなった。
というか多分反論しても無駄なのだろう。
そうこうするうちに車のスピードが緩やかになって、正門の前で止まった。
学校といえば氷帝しか見たことのないので、目の前の学校は小さく思える。
後で聞いたら氷帝の敷地が広すぎるとのことだった。
イングランドにいた学校も氷帝と大差なかったから気付かなかった。
侑士が先に下りて、ドアの外から僕に手を差し出した。
「ほら」
「ありがと」
その手に支えられて車から下りると、丁度下校途中だった山吹中の生徒がどよめいた。
確かに門に横付けされた車から他校の生徒が下りてきたらびっくりするよね。
早目に用事を済ませて帰ろうかな。
「テニスコートってどこだろ」
「多分あっちやろ」
学校の構造はどこも一緒らしく、侑士は簡単にテニスコートを見つけた。
侑士は僕の手から封筒を取り上げると、コート脇にいる監督の下へ走っていった。
この場を動かないように厳重に釘をさすことを忘れないあたり、侑士も景吾に負けず劣らず過保護だ。
それでも僕のことを心配してくれているのがわかっているので、大人しくフェンスの傍で待っていることにする。
丁度ここからなら選手の練習風景が見えるし、時間を潰すのは苦にならないだろう。
山吹中のテニス部は結構有名で、実力のある選手も多い。
楽しそうに練習している風景は、見ていて楽しい。
残念なのは選手層が薄いことかな。
ダブルスは息も合ってるしかなりの実力なのがわかるけど、問題はシングルスだ。
練習を見ているだけでも、対戦している2人の実力が比べ物にならないことがよくわかる。
2人、せめてあと1人でも強い選手がいれば、うちにとってもかなり手強い相手になるだろう。
そんなことを思いながらつらつらとコートを眺めていると。
睨みつけるような視線でコートを眺めている1人の生徒を見つけた。
鋭いナイフのように、全身で周囲を威嚇するような雰囲気の持ち主。
何故だろう。
ひどく哀しそうだ。
偶然通りかかったのか意図的なのか、その場所はコート側からは生い茂る木の死角になっていて見えにくいフェンスの陰。
様々な感情の混在した、強い瞳。
きつく握り締められた拳。
彼もテニスをするのだろうか、とふと思った。
食い入るように見ていた彼は、静かに目を伏せた。
何かを吹っ切るように。
再び開けた時、その瞳に宿っていた感情は綺麗に消えていた。
そして、まるで何事もなかったかのように歩き出した。
すれ違う瞬間。
視線が交錯した。
「何見てんだよ?」
低い声。
鋭い視線。
詮索を許さない、拒絶を感じた。
「君もテニスをするの?」
「あぁ!?そんなもんしねーよ。くだらねえ」
「じゃあ、何故あんな瞳でコートを見ていたの?」
「!?」
自分の求めているものを見つけることができず、コートの中にそれを探しているような瞳。
ほんの一瞬だけ見せたあの表情は、テニスに興味がない人のものじゃない。
吊り上がる眦に、自分の見たものは間違いではないことを知る。
「殺されたいのか」
「まさか」
小さく笑う。
余計なお世話を焼くつもりはない。
ただ、放っておけないだけだ。
昔の自分と同じような目でコートを見ていた目の前の彼を。
脅しても無駄だとわかったのか、小さく舌打ちして僕の横を通り過ぎる。
「…テニスなんて、くだらねえ」
「本当に?」
「…テメエには関係ない」
「うん、そうだね」
でも、多分彼もわかっているはずだ。
どんなに目を逸らしても、無駄だということを。
テニスに興味を失くしてない限り、自分がまだテニスをしたいと思っている限り、それからは逃れられないのだということを。
僕がそうであったように。
「いつか試合できるといいね」
後ろ姿の彼に、そう声をかけた。
いつか彼がコートに戻ってきた時に、戦ってみたいと思った。
「テメエとだけはやらねーよ」
そう答えた声は、どこか穏やかだった。