「何してるんですか?」
「見ての通り、花に水あげてるんだけど?」
先輩はホースを片手にそう答えた。
ここは学校の敷地の外れにある温室。
広い敷地内で、こんな場所にまで用事のある人はほとんどいないだろう。
当然俺もここに用があったわけではない。
自主練をするために朝早く家を出てきたのはいいけど、すでにコートは人で溢れていて、仕方なく他の場所を探してふらふらしているとき、偶然この場所を発見しただけだ。
こんなところに温室があるなんて知らなかった。
多分あまり知られていないのだろう。
氷帝の備品は全てにおいて金がかかっているから、おそらくこの温室も高価なものなのだろう。だが、手入れをする人がいないせいだろうか、ずいぶんうす汚れてしまっている。
ガラスが曇っていて中がよく分からないが、外観から察するに『手入れの行き届いた』という状況からはかけ離れているのではないだろうか。
そう思って中を伺うと、そこに人の姿があった。
あの人は……。
「先輩……?」
何でこんなところにいるんだろう。
今日は朝練もないし、こんな場所に用事なんてないはずだし。
はっきり見えないけど、どうやら1人のようだ。
先輩が1人でいるなんて珍しい。
俺の知るという人物は、常に人に囲まれているイメージがある。
上級生下級生関係なく、俺が見ると先輩の周りは常に誰かがいるのだ。
1人きりの姿なんて、そういえば初めて見るかもしれない。
人柄のせいだろうか、傍にいると気分が落ち着くと鳳が言っていたのを思い出す。
だから人が集まるのだと。
だが、俺はそうは思わない。
何もかも見透かされそうなあの眼差しを向けられると、無意識に緊張してしまう自分を感じるから、俺は先輩の傍にいると落ち着くというよりも気がひきしまる。
でも、その緊張感は嫌いではない。
自分の存在を認識してくれていると分かるからだろうか。
だから先輩と話すのは好きだ。
何となく興味を覚えて、その温室の扉を開けた。
鍵はかかっていないらしく、それはすんなりと開いた。
中に入って驚いたのは、そこが意外にも手入れが行き届いていたことだ。
植物園にあるようないかにも温室という感じではなく、どちらかと言えば花咲き乱れる庭をそのまま閉じ込めたような感じだ。
広くない温室は所狭しと花が咲いている。どれも見事な咲きっぷりだ。
丹精こめて世話していなければ、これほど多くの種類の花を綺麗に咲かせることはできないだろう。
まさか先輩が?
あの優しい先輩ならそれくらいできるだろうが、それにしても何故……。
「日吉?」
名前を呼ばれて声のした方を振り返ると、そこに先輩がいた。
先輩はホースを片手に、驚いたように俺を見ている。
「驚いた…。どうしたのこんなところに?」
「それは俺が聞きたいです」
「何で?」
「先輩、美化委員とかですか?」
「違うよ。僕は風紀委員だからね」
風紀か。ぴったりだな……って、そうじゃなくて。
「じゃあ、何で先輩が温室の水遣りなんてしてるんですか?園芸部員ってわけじゃないでしょう?」
しかもこんな朝早くから。
そう言うと、先輩は小さく笑った。
「前にここに来たとき、あまり世話されてないみたいで花枯れかけててさ。せっかく綺麗に咲いてるのに、誰にも見られることなく枯れていくなんて可哀想じゃないか。それから時々様子を見にきてるんだ」
そう言いながら水遣りを続ける。
シャワーノズルから撒かれる水しぶきが、乱反射して輝く。
すごいなと正直に思える。
俺だったら温室の花が枯れかけていることすら気付かない。
偶然この場所を見つけたけど、先輩の姿が見えなかったらそのまま素通りしていくところだったから。
もしこの温室がもっと校舎の近くにあって外から中が丸見えの状況なら多少は気にするかもしれないが、それでも1人で世話をするかどうか怪しい。
多分しないだろう。
テニスに武道に勉強にと忙しいから、そこまでする余裕はないとか何とか理由をつけて。
この人は、そんなことしないのだろう。
時間がないとか余裕がないとか関係なく。
ただ気がついたから、する。それだけなのだろう。
「優しいんですね」
「そんなことないよ」
「凄いです」
「だから、そんなことないんだよ」
「だって、俺には無理ですから」
先輩を見ていると、自分との違いを痛感させられる。
嫉妬するわけではないが、この人は自分より優れた人間なのだということを、目の前でまざまざと見せ付けられるのは少し悔しい。
テニスでも同じだ。
勝負をする前から勝てないと思ってしまう程、卓越した技術。
負けたくないと思いつつ、勝てるはずないと思っている自分に腹が立つ。
もっと近づきたいのに、知れば知るほど先輩は手の届かない人のように思えてくる。
「日吉?」
先輩が俺の顔を覗きこんできた。
余程暗い顔をしていたのだろう、先輩は俺の頭をくしゃり、と撫でた。
「人は人、自分は自分だよ。日吉には日吉の素晴らしいところがあるじゃないか」
思い切り考えを見抜かれて、俺は慌てて顔を上げた。
この人は超能力でもあるのか?
かなり本気で驚いていると、俺の顔を見た先輩が笑った。
おなかを抱えて、本当に楽しそうに笑っている。
そういえばこんな先輩を見るのも初めてだ。
でもここまで笑われると、不愉快だぞ。
「先輩?」
「あ…あははっ……!ごめんごめん。日吉は考えてることが顔に出るから面白くて、つい……」
目にうっすら涙を浮かべて謝るけど、それでもまだ笑っている。
悪いと思ってないその様子に、俺は呆れたようにため息をついた。
無邪気、なんだよなこの人。
それにしても…。
「俺、顔に出てます?」
ポーカーフェイスは得意な方なんだけど…。
「出てるよ」
先輩はあっさりとそう言った。
「喜怒哀楽全てというわけじゃないけどね。日吉は特に怒ってるときと哀しいときが、分かりやすいかな。僕とか景吾の試合を観た後って必ず、『負けるもんかっ!』って顔をしてるよ」
「そうですか?」
自覚があるだけに、少しバツが悪い。
「あと、球拾いしてるとき『早く打たせろ』とか、自分のミスで失点したときはかなり自分を責めてるよね。そういえば昨日の練習試合で……」
「もういいですっ!!」
たかが後輩の1人なのに、どうしてそんなに詳しく見てるんだろうか。
部長が話していた通り、この人の観察眼は本当に侮れない。
「綺麗ですね」
俺は無理やり話題を変えようと、目の前の花に視線を移した。
花の種類は知らないけど、生き生きと咲いているこれらはとても綺麗だ。
気持ちが和む。
ここで昼寝したら熟睡できそうだ。
「気に入った?」
「はい」
「じゃあ、これをあげるよ」
そう言って、先輩は俺に金色に光るモノを差し出した。
「これは……」
「ここの鍵。気に入ってくれたみたいだからあげるよ。さっき笑ったお詫びも兼ねて。好きなときに来ていいよ」
立派な外観にふさわしい、豪奢な鍵だった。
スペアキーとかそういうものではないようだ。
本当に貰っていいんだろうか。
「鍵は2つしかないんだ。僕の持ってるやつとそれだけ。失くしてもスペアキーとか作れないから失くさないでね」
「失くしません!」
鍵を握り締めてそう叫ぶと、先輩は嬉しそうに笑った。
「あと、ここは景吾たちにも教えてないから、日吉と僕の2人だけの秘密ってことにしてくれるかな」
学校に無断で利用してるから、と先輩は悪びれずに言った。
そう言われて断れる人なんて、この学校にはいないだろう。
2人だけの秘密か。鳳あたりに知られたらものすごく羨ましがられるだろうけど、当然誰にも教えるつもりはない。
その後何度か温室へ行ったが、先輩の言う通り本当に誰にも秘密なのか、他の人がこの場所に来ることはなかった。