始業の鐘はずいぶん前に鳴った。
授業が始まった校舎は数分前の騒々しさなど想像もできない程、静寂に包まれている。
リノリウムの床を踏む靴の音が、やけに響く。
普段は気にならないようなことなのに、何故か気になるのは授業をサボっているという負い目ではないはずだ。
そもそもうちの学校は学力でも高い評価を受けているが、それはあくまでも生徒の自主性に任せるというもので、普段の生活態度と成績如何で多少のサボりは大目に見られるところがある。
ただし一度授業を休むとその差を埋めるのは厳しいらしく、好んでサボろうという生徒は少ない。
まあ、俺は多少休んだところで授業がわからないということはないが。
階段を下りて東の角部屋。
保健室と書かれたその部屋の扉に手をかけ、そこに鍵がかかっていることに気付いた。
そう言えば、週末は何かの研修があるとかで保健医が留守にすると言っていたな。
となればここには誰もいないだろう。
保健室の鍵を持っているのは保健医しかいない。隠れて合鍵を持っている生徒もいないではないが、俺が探している人物はそれに該当しない。
「ちっ……、仕方ねえな」
となると、あそこか…。
俺は次の場所へと向かうため、踵を返した。
「やっぱりここにいたか」
予想通り、そいつはここにいた。
テニス部正レギュラー専用の部室。
自分のブレザーを毛布代わりに身体にかけ眠っていたはずのそいつは、俺の声に反応して身体を起こした。
「あれ、景吾。よくわかったね」
「保健室が空いてなかったからな」
「そっか……」
そう言っては再びソファーに横になった。
その仕草はけだるそうで、俺は自分の読みが正しかったことを知った。
俺が近寄ろうとすると、は小さくため息をついて両手で自分の顔を隠した。
その顔が赤く見えるのは、俺の気のせいではないはずだ。
普段のからは見られない、その仕草。
「」
「……何?」
「俺に隠してること、あるよな?」
「……」
「言うつもりはない、か…」
「……」
案外意地っぱりだということはよく分かっているつもりだ。
素直に聞いたところで答えが返ってくるはずがないことも、予測していた。
だから。
大股でソファーへ近づくと、の腕を掴んだ。
「景吾……」
怪訝そうに俺を見るの視線を受けながら、俺はそっと手を伸ばした。
「やっ……」
俺の手を避けようとするが、その抵抗はひどく弱いものだ。
白い肌が、いつもより赤い。時折苦しそうに洩れる、熱い吐息。
想像は容易かった。そしてそれが真実だというのもすぐに分かる。
「……やっぱりな」
額に触れると驚くほど熱い。
「熱があるのに無理して学校来るんじゃねえよ」
「ただの微熱。平気だよ」
「ただの微熱がこんなに熱いのか。てめえの平熱は38度かよ」
「……」
熱で潤んだ瞳で俺を睨むが、そんなものは俺には通用しないんだよ。
「帰れ」
「やだ」
「帰れって言ってんだよ!」
「いやだって言ってるの!」
「発作が起こったらどうするつもりだよ。丈夫になったからって油断できねえんだろ!?」
「起こらないから平気。自分の身体のことは、自分がよくわかってるよ」
「…可愛くねえな」
ため息とともにそう吐き出すと、は困ったように俺を見た。
「…心配かけちゃったのは悪いと思うけど…でも、本当に大丈夫。少し休めばよくなるから……」
は本来身体が丈夫ではない。
今は普通に生活できるし運動もできるが、小さい頃はかなりの病弱だったらしい。
特に気管支が弱いようで、年に数回は喘息の発作を起こしていたようだ。
幸い俺が知り合ってから一度も発作を起こしたことはないが、だからと言ってこれからも起こらないということではない。
用心に越したことはないだろう。
「車を呼んでやる。とっとと家に帰って寝てろ」
「……熱が出たことを知ったら、母さんが心配する…」
は哀しそうに呟いた。
の体調は母親譲りだ。
丈夫な身体に産んであげられなかったことを気にしている彼女が知ったら、確かに心配するだろう。
だから体調が悪いのに、誰にも言わなかったのだろう。
は一度言い出したら聞かない一面があるというのはよく知っている。
そいういう場合はたいていその原因が他の人にあるときだということも、嫌というほど知っている。
相手の負担にならないように、自分ひとりで無理をする。
だけど、俺にはかけていいと思ってるのか?
「…ごめんね」
俺の考えていることが分かったのか、が上目遣いで申し訳なさそうに謝った。
「僕、景吾に甘えてるね……」
「…仕方ねえなぁ」
のこの顔に俺が弱いということを知っているとは思えないが、結局俺はこの顔をしたの願いを断ることはできなくて……。
俺は救急箱から常備されていた解熱剤を探しタオルを濡らしてくると、の隣に腰を下ろした。
薬を飲んだを再びソファーに横にさせ、その頭に濡れタオルを乗せてやった。
「仕方ねえから黙認してやる」
「…ありがと」
「それから、今日は家に泊まりに来い」
「……え?」
「今日は金曜日だし明日から休みだ。俺の家で熱を下げれば董子さんには気付かれないだろ」
運良く俺の家も母親は仕事で留守にしているから、の体調が彼女の耳に入ることはないだろう。
が俺の家に泊まることは珍しいことでもないから、家に不審に思われることもない。
「お前は本当に馬鹿だよな」
「景吾……」
「特別に俺様が看病してやる。ありがたく思えよ?」
だから早く治せ。
「……ありがと」
潤んだ瞳で俺を見上げて、はふわりと笑った。
……。
本当に、仕方ないよな。