電子音が鳴り出した。
普段なら練習中の声援にかき消されてしまいそうな小さな音だったが、音の発信源が俺が座っているベンチの隣だったかすぐに気付くことができた。
流行りの着メロではなくクラシックを着信音にしているあたりが持ち主の性格をよく現している。
勝手知ったる何とやらでタオルの上にあるそれを取り上げた。
表示されている名前に目を通して、すぐに持ち主を呼ぶ。
「!」
目の前のコートで岳人の相手をしていたが俺の声に気付いて駆け寄ってくる。
中断させられた岳人はあからさまに不愉快な顔をしたが、に差し出している携帯電話を見て肩をすくめた。
部活中の携帯電話の使用は禁止されているが、俺とは家の都合から緊急の用件が電話にかかってくることがある。
そのため携帯は肌身離さず持っているのだ。
一応練習中はベンチに置いて余程の相手でもない限りは出ることはないが、今回は無視できない相手からの電話だったのだ。
「おらよ」
「ありがと」
画面を見て首を傾げつつも電話に出たは、すぐにその表情を強張らせた。
不審に思うよりも早く、が泣きそうな顔で俺を見た。
震える右手が俺の肩を掴む。
「母さんが…?」
そう呟いたきり、は凍りついてしまった。
嫌な予感が頭をよぎり、の手から携帯を奪った。
「もしもし?小父さんですか?電話変わりました、景吾です」
『あぁ、景吾君か。久しぶりだね。は?』
「隣にいます。何があったんですか?」
「それが…」
聞こえてきた声は、いつもの朗らかなものではなかった。
受話器を通してもそうと分かるくらいに緊張している。
…いや、動揺しているといったほうが正しいか。
何か言葉を選ぼうとして上手く言えないでいる、そんな感じを受けた。
「小父さん?」
『…実は、董子が倒れたんだ』
「董子さんが!?」
思わず荒げてしまった声に、何人かが気付いて手を止めた。
それに気付いたが、気にしている事態ではなかった。
「どういうことなんですか!?」
『昨日から仕事がひと段落したのでロンドンに顔を出したんだが、夕食の席で董子が突然意識を失って…今病院にいる。原因はまだ不明だが、に教えておかないとと思って』
ちらりと横目でを見ると、突然聞かされた事実に顔色を失っている。
捕まれた右手は力をこめているわけでもないのに細かく震えており、目は不安そうに瞬いている。
その右手を強く掴んで、会話を進める。
「…わかりました。じゃあ今からロンドンに向かいます。俺も同行してもいいですか?」
『…あぁ、君が一緒なら心強い。空港に自家用機を用意しておくように連絡を入れておく。…頼むよ』
「はい、では失礼します」
通話を終了させた携帯を握り締める。
身体が弱いとは聞いていた。
人よりも抵抗力が弱いのだと、だからあまり無理はできないと、そう言っていた。
ふわりと笑うその姿はひどく儚く、誰かが守ってあげなくてはと思わせるような人ではあったが、突然倒れる程弱いとは聞いていなかった。
おそらく今までにもこんなことはなかったのだろう。
の顔色がそう語っていた。
「どないしたん?」
「俺とは今からロンドンに向かう。部内のことはお前に任せたぞ」
「ロンドン!?何でそないなところまで行くんや!?今日は木曜日やで!」
「の家庭の事情だ」
「家庭の事情って…」
「母さんが…倒れたって……」
「!?」
忍足の動きが止まる。
信じられないようにを見、それから俺の顔を見る。
簡潔に事情を説明すると、忍足はの肩を掴んで覗き込んだ。
「安心しいや。小母さんはきっと無事や。を呼んだのも念のためなんやろ?ならそう怖いこともあらへん。ここで心配しているよりも傍におった方がも安心する思うて小父さんも連絡を寄越したんやろし、行ってくるとええ。な?」
「う、ん…」
「そんな暗い顔せんでも大丈夫や。ほら、顔を上げて」
幼い子供をあやすようにそう告げる忍足。
その様子はあまり面白いものじゃなかったが、忍足がを落ち着かせている間に俺は俺ですることがある。
監督に事情を説明してしばらく学校を休む旨を伝え、自分の家との家に連絡をして2人分のパスポートを用意して学校まで迎えに来るように指示する。
航空券は小父さんが手配してあるだろうから、パスポートと現金があれば用は足りる。
必要なものは現地で揃えればいいだけのことだ。
部内のことは忍足達に任せておけば問題は起こらないだろう。
車が到着すると数人の部員に見送られて学校を後にした。
事情が事情なだけに、普段ならついて来ようとする岳人やジローもそう言い出すこともなかった。
を元気づけるように明るい表情で送り出していた。
「景吾…」
「何だ?」
「母さん、大丈夫だよね…?」
「当たり前だろう。自分の母親を信じろ」
「うん」
自家用ジェットを用意してあると言っていた通り、空港に到着するとすぐに搭乗できた。
不安で食欲のないに軽いものを食べさせて、頭から毛布をかけて無理やり眠らせた。
最初はそれでも眠れないらしくて何度も身動きをしていたが、寝不足の顔を董子さんに見せるつもりかと告げたら大人しく眠ったようだ。
機内では携帯が使えない為、その後の容態は杳として知れない。
車中や空港で何度か連絡を入れてみたが、無機質な応答メッセージの声が返ってくるばかり。
大事になってないことを祈りつつ、一刻も早くロンドンに着くように願った。
成田を出発してから十数時間。
結局連絡のつかなかったため緊張感を隠せなくなった俺と悲壮感を漂わせているがロンドンの地に下りると、そこに用意されていたのは1台の高級車。
1台何千万もするであろう赤いスポーツカーから顔を覗かせたのは、数週間前まで毎日のように見慣れていた端整な顔だった。
「やあ、景吾。久しぶり」
「前に会ってから1ヶ月経ってませんよ」
「おや、そうだったかな?も悪かったね、この前来たばかりだと言うのに、また呼び出して」
「それはいいけど…母さんの容態は?」
「あぁ…」
そう言ってバツが悪そうに髪をかきあげた。
その様子が深刻ではなかったことに少し胸を撫で下ろした。
少し話しただけでも、クライヴとウィルが董子さんをかなり気に入っていることを知っているため、もし彼女の事態が深刻なものならこれほど明るい表情をしていないだろう。
「結論から言うと、董子は無事だよ。説明はジェイルからするってさ。とりあえず行こうか。注目を集めてるみたいだから」
そう言われて、いつの間にか周囲に人だかりが出来ていたことに気付いた。
クライヴは幻の天才テニスプレイヤーだし、ロンドンでもそう走っていないだろう最高級のスポーツカーはそれだけで周囲の注目を浴びるのには十分だった。
外野の様子をすっかり忘れていたことに苦笑しつつ、進められるまま車に乗り込んだ。
だが…。
…2シーターに3人乗るのは無謀じゃないか?
「あら、?」
病室に入るなり、朗らかなそんな声が聞こえてきた。
ベッドの上で上体を起こして楽しそうに話をしているのは董子さん本人だった。
「まあ景吾君も。一体どうしたの?」
「いや…」
それはこっちの台詞だと思いつつ、何と言っていいものか咄嗟に言葉が出てこない。
実は貴女が倒れたと聞きましてと言えばよかったのだろうが、顔色もよい彼女が倒れたとは思いにくい。
日本から移動してくるまでに回復したのだろうか。
「母さんが倒れたって父さんから電話もらったんだよ。すぐにロンドンに来るようにって。元気そうで何よりだったけど、一体どういうことなの?」
「お父さんが?まったくジェイルってば…早とちりなんだから」
「早とちり?」
「そうよ。倒れたのは事実だけど、立ちくらみを起こしただけ。病気じゃないのよ」
そう言う彼女は健康そうだ。
「では、何故病院に?」
「それはね」
何かを含んでいるように笑う彼女に、が首をひねる。
「私の体調が安定するまでの用心なのよ」
「体調?」
「そう。何しろ13年も経ってるから、色々大変なのよ」
「?」
がますます首を捻る。
幸せそうな笑顔と、13年という言葉にぴんときた。
「それって…」
「景吾君はさすがに察しがいいわね。その通りよ」
「だから倒れたんですね。おめでとうございます」
「ふふ、ありがと」
「どういうこと?」
不思議そうに俺を見るを、董子さんが手招きした。
怪訝そうに思いながらそれでもベッドの脇に近づいていくに、そっと耳打ちする。
「あのね、。あなたに弟か妹が出来るのよ」
ふわりと笑ったその顔は、今まで見た中で一番綺麗だった。
- 04.08.04