「あ――」
「ああっ!!」
全身から水を滴らせている先輩を前にして、その場にいた全員が凍りついた。
3年生が引退してめでたく正レギュラーになった俺は、少しでも練習をしようと鞄を引っ掴んで教室を飛び出し、運悪く大量のプリントを抱えた担任と衝突してしまった。
担任の持っていたプリントが盛大に廊下に散らばる。
200枚は軽くあるんじゃないだろうかというその量に、思わず俺も担任も顔を見合わせて呆然となる。
担任の前方不注意ということで怒られることはなかったが、結果として俺はすべてのプリントを拾い、職員室まで運ばされた。
これが男性教師なら逃げることも可能だったけど、何しろ相手は俺よりも小柄な女性だ。
気さくな笑顔だが有無を言わせない迫力で「手伝ってくれるよね、勿論」と言われてしまえば、断ることなどできない。
確かに女性が1人で運ぶには大変だとは思うし。
儚げな外見とは裏腹に、跡部部長すら口答えを許さない程の迫力を持つこの人に逆らうことはできなかった。
そんな理由で職員室に寄っていたので、練習開始の時間までぎりぎりという時間になってしまった。
正レギュラーの練習は自主性に任せてあるとは言っても、今日はミーティングがあるから遅れていくわけにはいかない。
特に1年生の自分が遅刻したら、先輩達に申し訳がない。
近道をするために校舎の裏を通り抜けようとしたときだった。
数人の男子生徒がホースを片手に騒いでいて、それを女子生徒が怒っているという光景が目の前で繰り広げられていた。
最初は急いでいるから無視して通り抜けようとしたけど、彼らがクラスメイトだと気付き足を止めた。
気のせいでなければ、彼らは掃除当番だったはずだ。
もう終わっている時間帯なのに、何やってるのだろう。
「何やってるの?」
何故かその場にいた日吉にそう訊ねたら、日吉は呆れた様子で彼らを一瞥した。
「暑いから水撒きするという名目で遊んでるだけだ」
確かに暦の上では秋だというけれど、残暑が厳しくて外はかなり暑い。
水浴びをしたいという気持ちもわからなくはないが、それはまずいのではないかと思う。
見れば数人の男子生徒は面白がって応戦しているので、全身がずぶ濡れだ。
被害に合うのを嫌がって逃げる女子にまで水をかけている。
掃除をしているようにも樹木に水をあげているようにも見えない。
むしろ、どう見てもふざけているとしか見えない。
教師や先輩に見つかったら確実に怒られるだろう。
というよりも、このままだと誰かに迷惑がかかること確実だ。
部室棟に近いこの場所は、意外に人通りが多いのだ。
「おい、やめろよ――」
そう言って、彼らからホースを奪い取ろうと手を伸ばすのと。
1人の生徒が俺に取られないように、ホースを遠ざけるのと。
「うわっ―――」
よく知った声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
今の声は……。
聞き覚えのある声に、確かめるのが怖くて振り向けない。
ざわり、と周囲がどよめいた。
普段はポーカーフェイスの日吉の顔が青ざめている。
何だか、すごく嫌な予感がする……。
もしかしてさっきの声はやっぱり……。
背中に嫌な汗が流れる。
「、先輩……」
俺の疑問に答えるように、日吉がかすれたようにその名前を呼んだ。
目の前の同級生は、蒼白のまま固まっている。
「う……あ……」
意味不明の言葉を呟いてその手からホースがこぼれ落ちる。
勢いよく流れ続ける水が、足元に水溜りを作っていく。
だがそんなことを気にしている状況ではなかった。
ぎぎぎ、と壊れたロボットみたいな動作で振り向くと、そこには全身から水滴を滴らせている先輩がいた。
シャツはおろか、持っていた鞄までびしょぬれだ。
……最悪だ。
周囲は静かだった。
まさに水を打ったような静けさだ。
氷帝で跡部先輩と並んで知名度のある先輩。
彼の評判は、氷帝の生徒ならば知らない人はいないだろう。
よりにもよって先輩に水をかけるなんて……。
跡部先輩や忍足先輩の反応を思うと、さすがにちょっと同情する。
もしかして、俺も同罪?
顔から血の気が引いていくのがわかった。
どうしよう。
「今日はいつもより暑いから、水遊びしたい気持ちもわかるよ。でも先生に見つかると怒られるから、ほどほどにした方がいいね」
そう言って先輩は髪をかきあげながら、ふわりと笑った。
うわ……。
他の皆と違い、俺や日吉は先輩の笑顔は何度も見ているのだけど、それでも慣れるということはない。
花が開くような笑顔は純粋に綺麗で、何度も見てもやはり見惚れてしまう。
水滴が光に反射して先輩の周りで輝いている。
その様子に、一瞬息をするのも忘れた。
水も滴る……いやいや。
髪の先からこぼれる水滴がひどく色っぽ……そうじゃなくて。
このまま先輩を部室に行かせたら、後でどんな目にあうかわからない。
先輩は温厚で、このくらいじゃ怒らないのはわかってるけど、問題なのは先輩の周囲の人たちだ。
ファンクラブの人たち、通称「信者」と呼ばれる人たちももちろんのことながら、何よりも先輩と仲のいい跡部先輩や忍足先輩たちテニス部正レギュラーの人たちがただじゃ済ませてくれないと思う。
「先輩、タオル……」
「大丈夫だよ。すぐ乾くから」
「いいえっ、駄目です!風邪ひいたらどうするんですか!!」
「そうです。それに原因は俺たちにあるんですから…」
苦笑する先輩を前に、俺たちは必死だった。
「本当に大丈夫だよ。すぐに着替えればいいんだから」
先輩はそう言ってくれるけど、だからってはいそうですかと納得するわけにはいかない。
何しろ先輩はまさにずぶ濡れで、持っているバッグも水浸しなのだ。
恐らく中に入っているジャージも全滅だろう。
着替えれば済むことだけど、肝心の着替えが使い物にならない。
幸いこの陽射しなら小一時間で乾くだろうけど、その間濡れた格好のままになんてさせておけない。
「俺のジャージを使って下さい!あ、洗濯してあるので綺麗です」
「でも……」
「着替えた方がいいですよ。そのままでいたら先輩たちも心配するし、俺たちも気になります」
「日吉……」
先輩は少し考えて、やがて諦めたようにため息をついた。
日吉の言う通り、先輩のことに関してはもの凄く狭量の跡部先輩や忍足先輩が今の先輩を見たら、大騒ぎになるのは目に見えている。
そして原因がわかれば当事者(特に水をかけた張本人)はただではすまされない。
先輩もそれがわかったのだろう。
「仕方ないなぁ。わかった、着替えるよ」
「はいっ」
何とか着替えてもらうことには成功したけど、俺と先輩は身長が違うということを忘れていた。
一回りも大きいサイズのジャージに身を包んだ先輩の姿を見て、跡部先輩たちには何があったのかすぐにばれてしまった。
先輩は何でもないと言ってくれたけど結局ごまかすことはできず、跡部先輩から怒られた。
そして俺のジャージを貸したことに関しては、忍足先輩から「グッジョブ」と褒められた。
- 04.05.24