どれくらい経っただろうか。
「あとべ…?」
眠そうな声が聞こえて振り返ると、瞼をこすりながらが起き上がるところだった。
「よう、随分早い目覚めだな」
「今、何時?」
「午前1時」
「夜中じゃん…。何で起きてんだよ」
「色々としなけりゃならねえことがあるんだよ。お前はまだ寝てろ」
ソファーにもたれたままそう告げると、は不機嫌そうに頬をふくらませベッドから降りてきた。
裸足のままぺたぺたと歩いてくると、跡部が手にしている書類を奪い取る。
「返せよ」
「いやだよ。…ってこれ何?」
見たこともない文字の羅列を見て、が不思議そうに首をひねる。
少なくとも英語ではない。
英語なら多少なりとも見覚えがあるはずだ。
書面にはアルファベットではない文字が羅列されている。
どこかで見たことがあるような気がする。ロシア語だろうか…。
「ギリシャ語だ」
「跡部、ギリシャ語できるの?」
「当然だろう。俺様を誰だと思ってるんだ」
跡部はの腰に手を廻し、そのままソファーに引き寄せた。
ほっそりした身体は簡単に跡部の膝の上に倒れこむ。
そのまま口付けをすると、気がそれた隙にの手から書類を奪い返した。
が取り戻そうとするのを簡単に封じ、跡部はさらに深く口付ける。
「…ん……」
歯列を割って柔らかい舌をそっと絡めれば、はすぐに応えてくる。
甘えるように跡部の首に手を回してくる。その指には包帯。
「痛くないか?」
「ん、もう平気。少し痒いけどね」
指先にそっとキスを落とすと、がくすぐったそうに身をよじる。
「奇跡、だとよ」
「へ?」
「お前がこんな軽傷で済んだのは奇跡なんだってさ」
「あぁ…」
はくすくすと笑った。
「そうかもね」
は気づいているのだろうか。
自分を守っていた人の存在を。
「あの時さ、本当はもう駄目かなと思ったんだ」
首筋に跡部の吐息を感じながらは言う。
「雪に埋もれちゃって、身体も動かなくて、風は吹いてるし雪は降ってくるし。このまま凍死しちゃうのかなって思った」
今思い出してもぞっとする事件だった。
目の前で闇に吸い込まれていった。
落ちた場所では見つからず、そこから少し離れた場所から発見された。
数十メートル落ちたとは思えないほど怪我は軽くて、長時間冷気に曝されていたと思えないほど体温も落ちていなかった。
あれは幸運という一言で片付けられるものではない。
跡部があの時の恐怖を思い出してを抱く腕に力を込めると、が静かに抱き返してきた。
温かいぬくもりに無意識に強張っていた身体から力が抜ける。
「死んだら不二に会えるのかな、とか思ったよ。そしたらさ、怒られた。助けに来る人がいるんだから死ぬわけないでしょって言われちゃった」
柔らかく微笑むの様子から、誰に怒られたかすぐに分かる。
やはりと不二の絆は何よりも強いのだろう。
それは最早自分が入ってはいけない領域に思えた。
「誰が来ると思うって聞かれて、俺、跡部のことしか思いつかなかったんだ」
跡部が驚いたように顔を上げる。
そんな跡部を見たのは初めてのような気がして、はくすりと笑った。
「跡部…景吾に会いたかったんだ」
だって、俺を救ってくれたのは景吾だから。
吐息が触れるほどの距離で、そっと囁く。
感謝の言葉は声にならなかった。
口移しでそっと伝える。
熱い交わりの中、うわごとのように何度も跡部の名前を呼んだ。
◇◆◇ ◇◆◇
「ありがとね」
「?」
事後の気怠い身体をベッドに投げ出して微睡に身を任せようとしていたところにが呟いた。
跡部の腕枕で眠っていたと思われたが、穏やかな眼差しで見つめている。
汗で張り付いてしまった前髪をそっとかきあげてあげれば、は嬉しそうに笑った。
「跡部のこと、好きだよ。優しくて、でも厳しくて。一緒にいると何もかも忘れられた」
つらいことも悲しいことも全部、跡部が受け止めてくれた。
だから離れられなかった。
跡部の腕の中で優しい温もりに包まれて目覚める。
自分よりもたくましい胸に抱かれて眠るのは、ひどく安心する。
この腕の中にいれば幸せかもしれない。
真綿で包むように優しく、だが逃げることを許さない強い力で自分を支えてもらえるだろう。
でも…。
「それじゃ駄目なんだ。そんなの俺が跡部に甘えてるだけなんだ。いつまでたっても強くなれない」
「…」
「今のままだと跡部に対して失礼だ。きちんと考えて1人で歩けるようになって……不二のこと思い出にできるくらい強くならないと…」
跡部の優しさに甘えていては、いつまでたっても成長できない。
何もかもから逃げ出したかったとき、跡部が手を差し伸べてくれた。逃げ場所を与えてくれるのではなく、眠れる場所を提供してくれた。
誰も気づかなかったSOSに気づいて、気持ちが落ち着くまで支えてくれた。
どれだけ感謝しても足りない。
だから自分は前に進まなければならない。
不二が救ってくれた命、跡部が支えてくれたこの心。
つらくても前に向かうだけの強さが自分にはあるのだと、そう信じたいから。
「だから…」
「あぁ、わかっている」
「跡部…」
愛情ではない。でも、友情でもない。
そんな関係だったけど、誰よりも信頼できた。
愛情であり友情であり、親愛であるこの感情。
この感情を何と呼ぶか知らない。
不二とは違う、だがある意味それよりも深い繋がりがあったのは事実。
は跡部に微笑んだ。
感謝と謝罪と、すべての気持ちを込めて。
「ありがとう…」
- 10.05.31