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月の雫 12


『…』



誰かが呼んでいる。
誰だろう?
聞きなれた声。



。起きて』



自分を呼ぶ優しいイントネーション。

(あぁ…)

は笑みを浮かべた。
自分を呼ぶこの声は、大好きな人のもの。
ずっと聞きたかった。
は自分が夢の中にいることに気付いた。

(だって、もう聞けないんだ)

現実でこの声の主がを呼ぶことなどありえない。
会いたくても二度と会うことはできないのだから。

(だったらいいよね)

目を開けなくても。

(この声をずっと聞いていたいんだ…)



「いいわけないでしょ」



ぽかっと頭に軽い衝撃を感じて、は驚いて目を開けた。

「おはよう、相変わらずねぼすけだね」
「し…っ、周助!?」
「そうだよ」

花が開くような笑顔は確かにが大好きだった不二の顔。
不二は雪に埋もれたを見て苦笑する。

「あーあ、いつまで埋まってるつもり? 風邪ひいたらどうするの」
「何で!? どーして!?」
「説明はあとでね。まずは掘り出さないと」

笑いながら、不二はの両脇に手を差し入れ簡単に雪の中から救い出した。
自分で思っていたよりも体力が消耗していたらしい。
自由にはなれたが身体に力が入らなかった。
ふらりと傾くを岩陰に座らせ、不二は隣でその身体を支えた。
吹き溜まりになっているのか、不二に連れてこられたその場所は先ほどの場所に比べて風が少ない。
雪は降っているが上空に広がっている枝のお陰で他の場所に比べてひどくは感じない。
寒さを感じないのは不思議だったが、それ以上に信じられないのは隣に座る不二の姿。

「何で…」

自分は幻覚でも見ているのだろうか。
不二は死んだのだ。
死ぬ所も見ておらず葬儀にも参列していない。
だが不二がこの世にいないことは事実だ。
の角膜は亡くなった不二から移植されたものなのだから。
では、彼は…。
声の出ないの頬に不二の手が触れる。
ひんやりとしているが、その慈しみ溢れる感触を忘れるはずがない。
見えない中でも常に感じていた手のひらと同じだ。

があまりにお馬鹿さんだから見るに見かねたんだよ」

相変わらずの毒舌。だがその言葉の奥にはたとえようのない優しさがある。
会いたかった。
ずっと、ずっと、ただ会いたかったのだ。

「周助…」
「ごめんね、を悲しませるつもりじゃなかったんだ」
ふわりと触れる手のひらは以前のような温かさはないけれど、それでも嬉しかった。
「だって、周助がいない…」
「うん」
「一緒にいたかったんだ」
「うん」
「これからもずっと、一緒にいたかっただけなんだ…」
「僕もだよ」
「それなのに俺のせいで……」
「別にのせいじゃないよ。僕がそうしたかっただけ」
「違うっ。俺の」

言い募ろうとした言葉を、不二は優しい笑み一つで黙らせた。

が僕の立場だったらどうする? もし車に轢かれそうになっていたのが僕だったら、は助ける?」
「当然じゃないかっ!」
「自分が死ぬかもしれなくても?」
「不二が助かるなら構わない……あっ」
不二がくすりと笑った。
「ね、そういうこと」

誰かのせいにして逃げるのは簡単だ。
事実、は不二の死を自分のせいと断言して、前を見ることを拒んでいる。
不二が死んだのは確かにを庇ったことが原因だ。
だが、救急車で運ばれた時に医師が誤診をしなければ。
運転手が前方不注意をしていなければ。

そもそも、あの場所で待ち合わせをしていなければ。

すべては過去の話でしかないが、あの状況の何か1つでも欠けていれば不二もも事故に遭遇することはなかったのだ。

「勿論死ぬつもりはなかったし、残念だなとは思うけど。あの時はそんなこと考えてなかったんだ。が危険だと思ったら身体が動いていた。それだけ。後悔はしていないよ」

だって、は生きててくれたんだから。

どこまでも優しい声に、涙が溢れた。



雪は少しずつひどくなる。
本降りになったかと思ったら吹雪き始めてきた。
これではたとえ捜索されていたとしても難航するだろう。
1メートル先の視界も危ういほどだ。

「寒い?」
「少し…でも大丈夫だよ」

不二の肩にもたれたまま、は答えた。
本当なら凍死していてもおかしくない寒さだろう。
だが、不思議とそれほど寒くは感じなかった。
感覚が麻痺しているのだろう。
もしかしたらもう死んでいるのかもしれない。
あの崖から転落したときにすでに死んでいて、これは最後に神様が見せてくれた幸せな夢なのかもしれない。
は瞼を閉じた。
睡魔に襲われて、今すぐにでも眠りたかった。
このまま眠っていたら、不二と一緒に行けるのだろうか。

「それは無理だよ」
「不二?」
「だっては助かるんだから。僕のところへ来るのは、もっとずっと先のこと」
「でも…」

助けはこない。
動くこともできない。
この寒さの中、疲れて今にも眠ってしまいそうなのに。

を助けに来る人がいるでしょ」

声が徐々に遠くなる。
眠くて目が開けられない。

「見えるでしょう。ほら」

肩を揺すられて、はわずかに目を開ける。
吹雪の中、シルエットが浮かぶ。

「誰の姿が見える?」

耳元でそう囁かれた。



誰…?


  • 10.05.22