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月の雫 11


しばらく気を失っていたのだろう。
気がついたとき、の身体は半ば雪に埋もれていた。
頭上には切り立った崖。
あまりに見事な崖に、はしばらくそれを呆然と見上げていた。
すぐ横には雪化粧を施した針葉樹。
もし落下箇所が少しでもずれていたら助からなかっただろう。
起き上がろうとして、は自分の身体が思うように動かないことに気付いた。

(痛…く、ない?)

雪が衝撃を吸収してくれたため痛みを感じないのだろうかと考え、すぐにそれを否定する。
先程雪溜りに突っ込んだときは痛かったのだ。
崖下に落下という今の自分の状況を考えて、痛くないはずがないのだ。
右手を持ち上げようとするが、まったく動かない。

「感覚がない…」

思わず呟いた声は驚くほど掠れていて、ほんの小さな音ですらかき消されてしまうほど小さなものだった。
長い時間雪に埋もれていたせいで全身の機能が低下しているのかもしれない。
痺れているようで、手足の感覚がまったくないのもそのせいだろう。

「もしかして、凍傷…?」

自分がどれほどの時間雪に埋もれていたか分からないが、明るかった日差しはすっかり姿を消している。
木々に覆われて上空はよく分からないが、どこからも陽射しが差し込んでいないということは日が沈んだか雲に覆われてしまったかのどちらかだろう。
真冬の屋外。
しかもここはそこそこ標高のある山の中だ。
体温などすぐに奪われてしまってもおかしくない。

今頃跡部は自分を探しているだろうか。
落ちた場所もわかっているためすぐに捜索にきてくれるとは思うが、見通しの悪いこの場所をすぐに見つけられるかどうかはわからなかった。

「跡部ーー…」

力の限り叫ぼうとするが、喉から絞り出した声は小さく、遠くまで聞こえるようなものではない。
それでも何度か呼んでみるが、勿論応答する声はない。
囁きよりも小さな声を拾えるほど近くにいるなら、が気づかないはずないのだ。
動けないけれど衰弱は少ないと自分の身体を客観的に観察する。
尤も衰弱については自分で推測するしかないのだけれど、頭の中はやけにはっきりしているし、今のところ眠気に襲われてもいないから何となく大丈夫だろう程度の心もとないものなのだが。
遭難した場合むやみに動き回らないほうがいいということを知っていたが、もし知らなかったとしても身動きできないので問題はない。
いつまでも雪の中に埋まっていては凍傷もひどくなるし体温も奪われる。
そして体力も消耗してしまう。
そんな基本的なことは重々承知だが、身体に力が入らない上に半分ほど埋まっている雪の重みで自力で脱出することは不可能だ。

(早く助けが来てくれないとなー)

ここで凍死なんてことになったら、折角元気づけるために連れてきてくれた跡部に対して申し訳ない。
みんなにも心配かけたままだし、家族だって悲しむだろう。
死ぬつもりで山に来たわけではないのだ。

だが…。

(このまま死んだら周助に会える?)

脳裏にそんな考えがよぎってしまう。
迎えに来てくれるのが不二だったらいいなんて、都合のいいことすら考えてしまう自分に自嘲した。
生きてほしいと願っていた不二が迎えに来てくれるとは思えないが、いざ自分にお迎えが来るなら不二以外にいないだろうなんて確信があるのも事実。
それは抗い難い誘惑にも思えた。

「周助…」



会いたいよ。



白い粉雪がちらちらとに降り注いでくる。
一面の銀世界。
柔らかく降り注ぐ粉雪。

「綺麗だなぁ…」

すべてのものを包み込む、真っ白い世界。
の頬に雪が落ちる。
冷たいはずのそれは、冷え切っていたの頬をゆっくりと滑り落ちていく。
そっと触れるような優しい感覚が、懐かしい人の手のひらを思い出させて涙が出た。

白い雪は、どこまでも優しく儚かった愛しい人の幻想のように思えて。
は静かに目を伏せた。





   ◇◆◇   ◇◆◇





捜索は時間との戦いだ。
特に相手が何の防具も食料も持っていないとなれば、たった数時間の経過でも下手したら命に関わる。
況してやの体力は平気的な中学生男子よりも遥かに低く。
脂肪はおろか筋肉すら落ちてしまった身体でそう長い時間寒さに耐えられるとは思えない。
しかも崖下に転落したとなれば、致命的な怪我を負っている可能性だって否定できない。
いくら雪がクッションの役割を果たしてくれようとも、数十メートルの高さを転落して無事で済むとは思えないのだ。
落下場所は見当がついている。
麓へ下りて捜索隊を派遣すればすぐに見つかるはずだと思っていたのだが、落ちた場所が悪かったのだろう。
救助隊が道に迷うほど入り組んだ山奥のため、捜査は予想以上に難航しており、刻々と暮れて行く空模様に跡部も苛立ちを隠せない。
余りにも使えない捜索隊に、痺れを切らせた跡部が単独行動を取ったのは今から30分前。
普段ならば絶対にしない無謀な行為に、慌てて忍足が後に続いた。
腰まで沈む雪の中。
新雪は踏み固めることも難しく、スノーモービルですら進むことが難しい。
慣れた者ですら難色を示すのだ。
跡部の単独行動など無謀としか言えないが、言って聞くようなら最初から単独行動など取らない。

「跡部、ホンマにこの辺なんか?」
「間違いない」
「せやけどこの高さやったら、なんぼの反射神経がよくても…」
「うるせえっ!! つべこべ言わずに探せ!」

跡部は苛立ちを隠そうともせず、忍足に怒鳴りつけた。
が転落してから2時間が経過している。
数十メートル下へと落下したのだ。
怪我の様子も気になるし、何よりこの寒さだ。
体力のない転落したが自力で下山などできるはずがなく、無事だとしても身動きできずにいるに違いない。
意識を失ったままだとしたら凍死してしまってもおかしくない気温なのだ。
早く見つけなければ。

「俺が…っ」

降り続く雪はわずかな足跡ならすぐに覆い隠してしまう。
この下に埋もれている可能性だって考えられる。

「俺がもっと早くあいつの足元に気付いていたら…」

何度も使っていた場所だというのに、地形の把握すらできなかった。
は初心者だったのに、上級者コースに行こうとしたを何故止めなかったのだろうか。

「俺が止めていたら…」

ようやく笑顔を思い出した
それでも跡部はが未だに不二の後を追おうとしていることに気づいていた。
だからこそ手放せなかったし、目を離すことができなかった。
僅かでも目を離したら、は無意識に「死」という誘惑に負けてしまうだろうことがわかっていたから。
片時も傍を放さなかったのはそんなに少しでも生きる気力を取り戻してもらいたかったからであって、このような形で失うためではない。
後悔なんてしたことがなかった。
だが、今の跡部にはそれしかなくて。
憤りのまま近くの木を殴りつけようとすれば、背後からその腕を押さえられた。

「自棄は起こすなや、跡部」
「忍足…」
「これはただの事故や。跡部が自分を責めたかてが戻ってくるわけでもあらへん。後悔なんてのは後からせぇ。はきっと無事や。今は嘆くより早く見つけてやるほうが先やろ。ここへ連れてきたのは確かに俺らや。だがそれが悪かったとは思えへん。かて楽しんでたやないか。少なくとも東京で鬱々として過ごすよりよっぽど建設的だったはずやろ。そないなこと言うもんやないで」
「忍足…」
「俺らがするべきことは後悔やなくて、一刻も早うを見つけて連れ帰ることだけや。間違えたらあかん」

宥めるような忍足の声に、跡部は頷いた。
後悔するのはやるべきことをやってからでも遅くはない。
今はただ出来ることをするだけだ。
跡部は目の前の雪原に目を向ける。
が落ちたのはこの場所のはずだ。
風を遮る木々すら少ないこの場所は、姿を隠す影すらない。
だから本来ならの姿を見つけるのは簡単なはずだ。
雪の勢いは確かに強いが、人間1人多い尽くすのだったら不自然な雪溜まりがあるはず。
だが跡部の目の前の雪原は、長時間人が足を踏み入れたような形跡はなくて。
が動いた様子もなければ、どこかに埋まっているようにも見えない。

(ここじゃない…そんなバカな)

落ちた場所や距離、落下速度を考えてもこの場所に落ちていなければおかしいのだ。
風は確かに吹いていたが、頬に感じる程度。
人一人の体重を動かすほど強いものではない。
それなのにの姿が見えないのはどういうことか。
考えられるのはが自ら移動したということなのだが、の体調を考えればそれは不可能に近くて。
視線を巡らせてみれば、遥か先に見える木々の影。
雪化粧の施された高い木々が並ぶその向こうに、何かあるような気がした。


  • 10.05.18