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月の雫 08


歩いていたリョーマが突然立ち止まった。
大きな目が一層瞠られ、その唇が信じられないという声を出した。

「越前?」
「あれ…」

視線の先にいたのは氷帝の跡部たちだった。
レストランから出てきたばかりの彼らは笑顔で、おそらく仲間内で集まった帰りなのだろう。

「彼らがどうかしたのかい?」

大石が怪訝そうに訊ねると、リョーマは震える指で彼らの中にいる人を指差す。

「!?」

震える指の向こう、跡部と忍足に挟まれて少しだけ見える漆黒の髪。
だった。
ぎこちない様子で、でもその顔に笑みを浮かべて忍足と何やら話している。

先輩、笑ってる……」

自分たちが見たくて見たくて、それでも諦めなければいけなかったもの。
もう二度と見ることはないと思っていたもの。
それが目の前にある。
だが、それを向ける先に自分たちはいない。

「なんで…っ」

リョーマが悔しそうに唇を噛む。
に笑顔が戻ったことよりも、それを叶えたのが自分たちではなかったことが悔しくて仕方ない。

「俺たちのほうがずっと先輩と一緒にいたのに…」

子供じみた独占欲と言ってしまえばそれまでだが、が自分たちじゃない誰かの隣で笑っているのが許せなかった。
安心しきった子供のように跡部の腕にしがみつき、無邪気な子供のような笑顔で笑いかける。
あの人は自分たちのものなのに…。

先輩っ!!」

耐え切れずに声に出していた。
その声が聞こえたのだろう。遠目でも分かるくらいの肩が震えた。

「越前!」

大石が止めようとするが、その腕を振り払ってリョーマはの元へ駆け寄った。

先輩、何でそんな人たちと一緒にいるの!?」
「リョーマ…」

リョーマの姿を認めたとたん、の顔が強張った。
笑顔は一瞬で凍りつき、跡部の腕をきつく掴む。
そんなに気づき、跡部と忍足が自分の視界からを隠すように前に立ちふさがった。

「何の用だ、チビ」
「あんたには関係ないでしょ。どいててよ」
「関係あるんやけど」
「何で」
「こいつは俺らの連れだ」
先輩は俺の先輩だよ」
「じゃあ少しはこいつのことも考えてやれよ」

完全にリョーマの視界からを隠すと、跡部は鋭い視線でリョーマを睨んだ。

「忍足、そいつを先に連れていけ」
「わかった」

傍で見ていても異常なくらい怯えているを労わるようにその肩にそっと抱き寄せ、忍足たちが歩いていく。
その腕にを連れて。

先輩! 何で…っ!!」
「いい加減にしろっ、越前!」

いきなり胸倉を掴まれたと思ったら、跡部の顔が目の前にあった。

「お前はあいつを死なせたいのか」

きつい視線。抑えた声は低く、同時に強い怒りを含んでいた。
突然突きつけられた言葉に、リョーマは反論するタイミングを失った。

「…どういうことだ?」

リョーマを追いかけてきた大石にも聞こえたのだろう。
不審そうに跡部へと問いかける。
のことを心配しているのはリョーマも大石も同じだ。
否、青学のテニス部全員が彼のことを気にかけている。
跡部は大石に視線を移し、リョーマを掴んでいた腕を離した。

「言葉の通りだ。今のあいつを追い詰めたら間違いなく死ぬぞ」
「それは…」

物騒な例えに大石の眉が顰められる。

「俺があいつに会ったとき、あいつは入水しようとしていた」
が?」

信じられない思いが強いが、跡部がこのような嘘をつく理由がない。
大石が知るはいつでも前を見据えている、強く明るい人物だ。
青学がどんなにピンチになろうと明るく笑って「大丈夫」と言い切る、どこまでも前を向いている少年だった。
だからこそ否定したい気持ちが強いが、今のは大石が知るとは違っていることも知っていたからこそ、否定の言葉が出てこない。
不二の死亡を知ってからのは、全てのものを拒絶して生きていた。
否定したいと思いつつも、やはりという実感が拭えないのだ。

「二度とこんなものを飲ませたくなければ、お前らはあいつに近づくな」

ポケットから取り出したものを大石に向かって放り投げる。
小さく弧を描いて大石の手の中に収まったそれを見て、大石が顔色を変える。
手の中にあるのは薬のシート。その中に入っているのは白い錠剤だ。
伯父が医者だから多少の知識はあった。
ラベルの文字が何を意味するかも…。

「それはさっきあいつの荷物に入ってるのに気づいて取り上げたものだ。こいつを服用されたくなければ、お前らはしばらく大人しくしていろ。決してあいつを追い詰めるな。お前らの存在は今のあいつには逆効果なんだよ」

そう吐き捨てコートを翻して去っていく跡部の姿を、リョーマは睨みつけるように見送った。
言いたいことは沢山あったが、何も言い返せなかった。

「大石先輩、それなんですか?」

大石の顔色を一瞬にして変えたものの正体が気になった。
薬だということはわかる。
だが、大石が顔色を変える理由がわからない。
1〜2錠飲んだ形跡はあるが、普通の薬ではないのか。

「…ロヒプノールだ」
「…って?」
「睡眠薬。しかも相当強力な…」

大石の言葉にリョーマの顔が強張る。
ロヒプノールは睡眠薬としてはかなり知られたもので、ハルシオンのような睡眠導入剤とは違い長時間の睡眠を維持できる薬だ。
だが処方されるのは成人している人物のみ。
15歳の少年に初診で出されることなどない。
最近の睡眠薬はどれほど服用しても自殺はできないが、それでも多飲すれば大事になるのだ。
残りは8錠。それを一度に飲めば…。
取り上げたというくらいなのだから跡部が与えたものでもないのだろう。

「こんなものを持ってるなんて…」

に変化が見られるようになったのはいつからだろうか。
時折見かける姿は相変わらず壊れそうなほど細いが、浮かべる表情は心なしか明るく感じられた。
移動教室に向かうを何度か見かけた。
普通に授業に参加するようになったのだと、英二が言っていた。
相変わらず視線も合わせてくれないけれど、それでも普通に登校して授業も受けていると聞いた時は純粋に嬉しかった。
退院後不安定だった精神が、ようやく落ち着いてきたのだろう。
登校してきてもどこかへ雲隠れしてしまっていた数ヶ月を考えると、授業に出るようになっただけでも格段の進歩かもしれない。
少しずつ顔色もよくなって、級友とも会話をするようになったらしい。
それは確かに喜ばしいことだ。
だが、の心の傷がまだ癒えていないことを大石は知っていた。
廊下で玄関で、偶然自分たちに会うとどこかつらそうな顔をして視線を伏せてしまうは、まだ悲しみを乗り越えることができていないように見えた。
そんな表情を見るたび、声をかけることができなくなり、が退院してからというもの、会話らしい会話をしたこともなかった。
尤も大石が話しかけたくても、姿を見るなり逃げてしまうので話すことは不可能だったが。
それが悪かったのか。
睡眠薬に頼らなければ眠ることもできないなんてなんて、気づきもしなかった。
明るくなってきたのをいいことに、ようやく悲しみが薄れてきたのだろうなんて簡単に考えていた。
壊れていくに手を差し伸べようともせず。
見守るしか方法がないと勝手な判断を下して、を孤独に突き落としていたのは紛れもなく自分たちだった。
が自分たちよりも跡部たちを選んだのは、それが理由なのだろうか。
に笑顔を取り戻させたのは自分たちではないということに嫉妬を覚えないと言ったら嘘になる。
できることなら自分たちの手でを立ち直らせたかった。
大石はの消えた道路をじっと見つめた。

…」

(あいつらなら、お前を元に戻してくれるのか…?)


  • 10.05.13