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月の雫 07


「…そうですか、わかりました。…いえ、連絡があったのならいいんです。また、後日電話しますから」

電話口で恐縮したように謝る母親に丁寧に挨拶をして、大石は電話を切った。

先輩、見つかったの!?」
「あぁ、今は知人の家にいるそうだ。今日はこのまま泊まるから戻らないと連絡があったらしい」
「…よかった…」
「すまなかったな、越前」
「別にいいっすよ、このくらい」

大石が頭を撫でると、リョーマは照れくさそうにその手を振り払った。
そんなリョーマの仕草に、大石は思わず苦笑する。
の姿が見えないと、不安そうな声での母親から電話があったのは夕方5時を過ぎた頃だった。
普通の中学生ならそれほど心配する時間帯ではない。
まして部活動をしていればさらに遅くなることも珍しくない。
だが、今のは精神的に不安定で、何をするかわからない危うさがある。
家族の誰もがの動向から目を離さないでいるのもそのためだ。
そのが少しの間に1人で家を出てしまい連絡が取れないともなれば、家族が心配するもの無理はない。
大石はリョーマや菊丸に連絡を取り、の行きそうな場所をくまなく探していた。
結局は見つからず、不安だけが大きくなったまま時間だけが経過していた。
その間リョーマは必死になってを探していた。
どこにいるか見当もつかない状態で、それでも何か手がかりがあるんじゃないかと、学校はおろかが立ち寄りそうなところすべて探してくれた。
部活さえ放り出して。
無事に見つかったことは嬉しい。
だが、どうして自分達を頼ってきてくれないのか、それは気に入らなかった。
何が出来るわけでもないが、1人で抱え込み他人を拒絶されてしまっては手を差し伸べることすらできない。
皆心配しているのに。

(は1人じゃないんだ)

それをに知らせるにはどうしたらいいのか。
大石にはわからなかった。





   ◇◆◇   ◇◆◇





「何で…?」

長いキスの後、は不思議そうに跡部を見た。
跡部の行動がわからなかった。
触れるだけのキスは温かく、そして優しかった。
だけど、どうして跡部が。

「何で?」

もう一度聞く。
答えを求めてというよりは、それしか言葉が出てこなかったのだ。
跡部は口の端を持ち上げてシニカルに笑った。

「寂しいんだろ、慰めてやるよ」
「跡部…」
「怖いなら目を閉じていろ」

囁く声は別人のもの。
だがその誘惑はひどく甘く、の耳に入ってくる。
皮肉げな響きの奥に感じる不器用な優しさに、は言われるまま目を閉じる。
そっと触れてくる唇はがずっと飢えていたものを満たしてくれる。
きつく抱き寄せられて、さらに深く口付けされる。
息もできないほどの激情にが苦しそうに身じろぎするが、そんな些細な抵抗すら封じてしまうように深く覆いかぶさってくる。
望んだ人のものではないけれど、触れるぬくもりに安心する。
身体中に口付けされ、何も考えられなくなる。

…」
「あ……」

甘い囁きとともに耳朶を甘噛みされ、思わず声がもれる。
自分のものとは思えない嬌声に驚いて声を押し殺すが、新たに与えられる刺激にそれすらできなくなる。
荒々しく、それでいて壊れ物を扱うように。

『愛してるよ』

情事のたびに囁かれた言葉は、今はない。
荒い息は記憶のものより幾分低く、抱きしめる腕はがっしりしている。
触れるぬくもり。
自分の中にある弱い心を包みこみ、閉じこもっていた狭い空間から無理やり引きずり出されるような感覚。
何もかも暴かれそうで怖かった。
それでも、この腕から逃れようとは思えないのだ。
一緒にいた仲間にはできなかった弱音も、目の前の男なら受け止めてくれるのだろうという確信が、何故かあった。

「跡部…」
「何だ」
「俺…1人ぼっちは嫌だよ…」
「…大丈夫だ。俺様がついている」
「あと…」
「景吾、だ。
「け…ご…」

優しい言葉に惑わされて、好きでもない男に身体を委ねる。
浅ましいと思うが、それでも独りになりたくなかった。
の瞳から涙がこぼれる。

「つらいか?」

案じるように囁かれた言葉に首を振り、は目の前の身体にしがみついた。

「独りにしないで…」
「……あぁ、わかってるよ」

子供のようなの問いかけに跡部は小さく笑み、その涙を優しく拭った。





   ◇◆◇   ◇◆◇





目が覚めたら見知らぬ部屋で、そこが跡部の私室だと知った途端、昨夜のことが一度に思い出されては混乱した。
精神的にギリギリだったことは何となく覚えているが、そこで手を差し伸べたのが跡部だったということが不思議で仕方ない。
そしてそれを取ってしまった自分も。
跡部とは確かに面識はあったが、友人という程親しくもない。
会場で会った時などに何度か話をしたことがある程度だ。
そんなに対して甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる理由はには良くわからなかったが、跡部の態度があまりにも自然なので訊ねることができなかった。

「…今、何て?」
「あーん? 二度も同じこと言わせるんじゃねえよ。お前はこの家でしばらく暮らす。それだけのことだろうが」
「…いや、意味がわからない」

反論するものの跡部に敵うはずがなく、問答無用で通されたのは跡部の部屋よりも少々狭いがそれでも十分すぎるほどの広さの部屋。
クローゼットにはどう見てものサイズとしか思えない服が用意されてある。
どうやらが眠っている間にの両親と話し合いがついていたらしく、慌てて自宅に連絡すると「くれぐれも迷惑をかけないように」とだけ告げられた。
冬休みが始まったということも両親が許可した理由かもしれないが、同年代の友人と一緒にいればの気分も晴れるのではないかという思惑もあるのだろう。
どんな説明したのか知らないが、両親の跡部に対する信頼は大きいようだった。
跡部の意思に両親の許可が加わったら、の意見など関係ない。
気がついたら跡部家の居候という立場におさまっていた。

広い客室を用意されたが、がこの部屋にとどまっていることはほとんどなかった。
なぜならが跡部の家にいることを知った忍足たち氷帝テニス部のメンバーが、だけ泊まるのはずるいと言って自分たちも荷物を持って泊まりにきてしまったからだ。
何度か跡部の家で合宿と称して泊り込みを行っていたらしく、別に珍しいことでもないらしい。
彼らはどうやらを気に入ったらしく、が部屋に閉じこもっていると誰かがやってきて引っ張り出されてしまう。
そうなれば寝る時さえも1人になる時間は与えてもらえない。
ジローや岳人が乱入してくるからだ。
そして朝になると、跡部や忍足が寝ているを叩き起こし、そのまま外へ連れ出される。
強引なその行動に最初は抗議をしていたものの、反省するつもりも改善するつもりもない彼らに言うだけ無駄だとすぐに学んだ。
美術館、映画、ボーリング、カラオケ。
世の中の受験生が見たら確実に怒るであろうというくらい、日々遊び歩いていた。
彼らと行動を共にするのは、にとって良い意味で変化を与えた。
あちこち引っ張りまわされて、落ち込んでいる暇すら与えてもらえないからだ。
不二の件について触れようとしないが、それ以外はまったく遠慮のないみんなの態度はの気持ちを軽くさせる。
それは、誰もがを労わるように、の傷に触れないようにと接してくる青学にいてはありえないことだった。
別に青学の仲間といるのが嫌なわけではない。
ただ、の傷口に触れないようにと気を遣っている様子がわかってしまい、一緒にいるのがつらかっただけなのだ。
同情と憐憫で満ちた視線で見られるのは、まだ耐えられない。
自分のわがままなのはわかっているけど、今は彼らに会うだけの勇気がないのだ。
だが、氷帝の仲間はを1人の仲間として接してくれる。
『大切な人を失った可哀相な子』ではなく、ただの友人の1人として。
その違いは、には大きかった。

「腹へったぁ。飯食おうぜ」
「せやな。何が食いたい?」
「う〜ん、何でもいい」
「そんじゃ跡部に任せるか」
「何でだよ」
「だって俺らが決めたって絶対文句言うじゃねえかよ」
「当然だろ。ジャンクフードなんざ食えるかよ」
「ということで、跡部〜よろしく〜」
「ちっ…、この先にイタリアンレストランがある。そこでいいな」
「賛成」

他愛のない会話。今はそれが心地よかった。


  • 10.05.11