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月の雫 06


「似合うじゃねえか」

純白のバスローブに身を包んで出てきたを見て、跡部はにやりと笑った。
タオルと一緒に用意されていたのは、一枚のバスローブ。
着ていた服はすべて濡れているので当然と言えば当然なのだが、今まで来たことがないので何となく着心地が悪い。

「えっと、どうもご迷惑をおかけして…その、ごめんなさい」
「まったくだ」

殊勝に謝ると跡部は尊大に答えた。
通された先は客間だった。
は所在なげに周囲を見回した。
20畳ほどの広さの部屋にある家具はすべてアンティークらしく、年代を感じさせる材質と高級感漂うデザインは、持ち主の趣味のよさをうかがわせていた。
高い天井にはシャンデリアがきらめき、顔が映るほど綺麗に磨かれたテーブルに光が反射している。
何も知らないでさえ一見して高級品とわかるほどの調度品の数々。
その上に置かれた繊細な模様のティーセットは、室内に入ってきたメイドによって並べられたものだ。
メイドという職業が本当にあることを、は跡部と会って初めて知った。

「とにかく座れ」

いつまでも突っ立っているわけにもいかないので勧められるまま跡部の前に腰を下ろす。
上質な皮の感触が気持ちいい。
手慣れた手つきで淹れられる琥珀色の液体を何となく眺めていると、無言でそれを差し出された。
白磁のティーカップに注がれた紅茶からは爽やかな香りが漂ってくる。
一口含むと口中に広がる清涼感。
自宅のティーバックで作る紅茶とは味も香りも全然違う。

「美味しい…」
「当然だ」
「…ここって跡部の家…?」
「それ以外に何がある」
「家族は…」
「今頃はヨーロッパじゃねえの。2人とも忙しいし、滅多に戻ってくることはねえから気にするな」
「この家に1人?」
「いつものことだ。別に気にならねえよ」

この広い家に一人で寂しくないのだろうか。
はふとそんなことを思う。

「1人で寂しくないの?」
「はっ、お前じゃあるまいし」
「でもさ…」
「1人と独りは違う。俺は別に孤独だと思わないし、寂しさなんて感じねえよ」
「強いね」
「お前が弱いだけだろう」
「………」

は言い返すこともできず俯く。
跡部の言う通りだ。
自分は強い人間だと思っていた。
元々ポジティブな思考の持ち主だし、過ぎたことはくよくよしない性格だという自覚はあった。

唯一のものを知り、それを失うまでは。

今はどうだろう。
不二の死を認めようとせず、すべての慰めの言葉を聞き入れず、いなくなってしまった幻影を追い続けている。
そんな自分のどこが強いと言えるだろうか。
は目の前に差し出された紅茶を一口飲む。
ダージリンのセカンドフラッシュ。
紅茶に関して詳しくないが知っている数少ない種類の一つ。
不二が好きだったものだ。
以前家に招かれたとき、渋いのが嫌いだと言ったの為に不二が淹れてくれた。

『本当は秋摘みの方が美味しいんだけどね』

いつもの笑顔でそう言いながら注いでくれたものと同じ味だった。
懐かしい記憶が胸の痛みと共に甦る。
泣きそうな表情でうつむいたを静かに観察していた跡部は、やがて優雅に傾けていたカップをソーサーに戻し問いかけた。

「で、自殺未遂の理由は何だ」
「…自殺なんてするつもりないよ」

自殺するつもりではなかったのだ。
少なくとも自身には。
ただ、羽が気になって気がついたら海に入ってしまっていただけだ。

「真冬の海にコート着て入る奴のどこが、自殺じゃないと言えるんだ?」
「それは…」
「何がつらいかなんてどうでもいいが、いい加減自分だけが不幸だなんて思うのやめたらどうだ?」
「…………」
「どうせ不二が死んだのは自分のせいだなんて悲劇のヒロインにでもなったつもりでいるんだろう? 泣いてたって不二は戻ってこねえんだよ」

怒りで目の前が染まるということは、こういうことを言うのだろう。
気がついたら傍にあったクッションを跡部めがけて投げつけていた。
簡単に受け止められてしまったことが余計に悔しい。

「随分乱暴なんだな」
「……何にも……っ! 何にも知らないくせに!」

自分にとって不二がどういう存在であったか。
どれほど大切だったか。
どれだけ自分が不二のことを想っていたか。

「跡部なんかっ! 何にも知らないくせに!!」

激情を抑えることができない。
肩で息をしながら喉の奥から搾り出すように叫んだ。
一度緩んだ涙腺からは涙が溢れて頬を濡らすが、それすら気にならない。
自分の想いを土足で踏み荒らされたような気がした。
泣いても戻ってこない。
そんなのわかっている。
ではどうすればいいというのだろうか。
不二の命を踏み台にして、のうのうと生きていけばいいというのか。
不二のことを忘れて…。

「俺と周助は……っ」
「恋人同士、だって言いてえのか」
「!?」

冷静な声にの手が止まる。
投げつけようと持っていたクッションが手からすべり落ちる。
跡部は小さく息をついた。

「不二が以前からお前に友情以上の感情を抱いていたことくらい、あいつの態度を見てればすぐに分かる。もっともお前は気づいていないようだったがな。だがそれがどうした。不二が死んで寂しいのはお前だけじゃないだろうが」
「でも…」
「家族、友人、あいつを知っているすべての人が悲しいんだ。お前だけがつらいんじゃない。そのくらい分からないのかお前は」

厳しい視線に晒され、は言葉をなくす。

「それとも何か。『つらかったろう、かわいそうに』とでも言って頭を撫でてもらいたいのか? それとも『お前が不二を殺したんだ』と責めてもらいたいのか?」
「そんな…」

は頭を振る。そんなつもりはなかった。
だが、跡部は僅かに目を細めただけだった。

「俺にはそうにしか見えないぜ。そのくせ自分の悲しみは誰にもわからないと言わんばかりに不幸顔で逃げ回ってりゃ世話ねえぜ。不二もかわいそうに。折角助けたのに自殺なんかされたら死に損だよな」
「………しゅ、すけ…が?」
「当然だろ。何のために不二が自分の身も省みずお前を助けたと思ってるんだ。意識のほとんどない状態で、それでも角膜を提供するように告げたのは何故だと思ってるんだ。すべてお前を助けようと思ってのことだろうが。それなのに当の本人に後追い自殺なんかされたら、不二だって浮かばれないだろうよ」
「俺のため…」

の膝から力が抜け、床に座り込んだ。
涙が頬を伝って絨毯にしみこんでいく。
自身も気づいているだろう、不二の死の意味を。
ただ、悲しみが深くてその事実を認めたくなかっただけなのだ。
理屈でわかっても感情が追いつかない。
そのためは自らの思考を塞いでしまったのだ。
跡部の瞳がふっと和らいだ。俯くの前に膝をつき、そっと涙を拭う。

「お前だって本当はわかってるんだろう」

幼い子供に問いかけるようにそっと。
の瞳がゆらりと揺れる。

「だって…」

震える声で、は呟く。

「目が覚めても1人で…ずっと傍にいてくれるって言ってたのに…俺は独りで…」

揺らぐ瞳には深い絶望と渇望があった。
自らの心を壊してしまうほどに深い絶望。
求めても手に入らないとわかっていて、それでも手を伸ばさずにいられないほどの強い願い。
跡部はの頭を自分の胸に押し付けた。

「泣けよ」

跡部には、が泣きたいのに泣くことを許していないように見えた。
否、泣く場所を与えられなかったと言った方が正しいか。
跡部の胸にすがりながら、それでも声を押し殺して泣くが、ひどく哀れに思えた。
誰も救いになれなかったのだろうか。
誰も気づかないのだろうか。
こんなにも苦しんでいるのに。
跡部はを抱きしめる腕に力を込めた。
涙は浄化作用だ。
人間は泣くことで感情を昇華させ、悲しみを忘れる。
泣くこともできず忘れることもできなければ、精神はバランスを崩して崩壊してしまうのだ。
自分の胸で幼子のように泣きじゃくるは、跡部の目からは酷く脆い存在に見える。
このままでは遅からずは自らの命を絶つだろう。
不二の願いをわかっていて、それでも…。
多少強引にでも誰かが無理やりに救い上げなければ、は絶望の渕から戻ってこれない。
それなのに…。
手塚達がこんなを何故放っておけるのか、跡部には理解ができなかった。
大切な仲間ではなかったのか。
の顎をそっと持ち上げる。
涙で濡れた瞳が自分を見つめる。
深く傷を負った裸の精神。
唯一の存在を失い、無意識のうちに誰かにすがりつきたいと思っている孤独な魂。

「跡部…?」

が望んでいるのは別の腕。
だが、それは二度と手に入らないものだ。
それならば…。

「……忘れさせてやるよ…」

そっと囁きその唇を塞ぐ。
大きな瞳が驚愕に見開かれたのは一瞬、硬直した身体からはすぐに力が抜け、は跡部にそっと凭れ掛かった。


  • 10.05.09