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月の雫 05


濡れた服というのは自分で想像するよりも重いものだ。
特にコートは水を吸って鉛のようにの肩にのしかかってくる。
更に吹き付ける風によって体温が奪われる。
気が付かなければ感じなかった重量と寒さは、体力が落ちてしまったにとってはつらい。
跡部に連れられるまま海岸線に止めてあった車まで来ると、跡部は寒さに震えて動けないのコートを脱がせ、車に置いてあった自分のコートでを包んだ。
そのまま車の中に押し込めると暖房を強めるように告げ、自らも隣に乗り込んでくる。
跡部は何も聞かない。
ただ不機嫌な顔で窓の外を眺めているだけだ。
だからも言えなかった。
車は無言の2人を乗せ、何事もなかったかのように海岸線を走り出した。



連れて来られたのは見たこともないような豪邸。
強く腕を引かれたまま、は無言で跡部の後を歩いていた。
大理石の玄関を通り長い廊下を歩いた先にあるバスルームに押し込まれ、有無を言わせず濡れた服を脱がされると、

「最低でも20分は出てくるなよ、いいな」

と念を押されて扉を閉められた。
湯船に浸かっていると、冷え切っていた身体にじんわりと熱が戻ってくる。
寒さなど感じないと思っていたのに…とは苦笑をもらす。
最初から分かっていた。
すべての感覚を失ったわけではないのだということは。
寒くもなるし眠くもなる。
ただ、そうやって五感を感じれば感じるほど、自分が生きているということをまざまざと思い知らされる。
それが嫌だったのだ。

(周助がいないのに…)

自分の不注意が原因で大切な存在を失ったのに、それでも生きていこうとする自分にどうしようもない嫌悪感を抱くのだ。
何て浅ましいのだろう。
不二がいなければ生きていくことなどできないと本気で思っているのに、それでも自分の身体は貪欲に生きようとするなんて。
はじんわりと浮かんでくる涙を無言で頭を振ってこらえる。

(泣く資格なんてない…)

きつく閉じた瞼の間から、それでも涙は後から後から流れてくる。

「ふ………っ……」

温かいお湯のせいで、凍りついていた涙腺まで溶けてしまったのだろうか。
こみ上げてくる嗚咽を堪えきれなくて、は湯船にもぐりこんだ。
不二の死から声を出して泣いたことなどなかった。
目が覚めるたび枕は涙で濡れていたが、自分の意識があるときに涙を流したことなどなかった。

(だって、泣いても周助は戻ってこないじゃん)

どんなに求めても、あの腕は戻ってこないのだ。
失明の恐怖に怯えていた自分を慰めてくれたあの優しい腕は、愛していると夜毎囁いてくれた優しい唇は、もう二度と触れることはできない。
泣いても無駄なのだ。
後悔ならいくらでもした。自分の命と引き換えに不二が戻ってくるのなら、こんなものいくらでも差し出そう。
視力などいらない。
不二さえ戻ってきてくれるなら。

(何もかも捨てたって構わないのに…)


こつん、と水中にある頭を殴られた。
急に現実に引き戻されて顔を上げると、そこには跡部が眉間に皺を刻んで立っていた。

「…俺は20分は出てくるなと言ったが、溺死しろとは言ってないぞ」

それほど長い時間だっただろうか。
そう考えて跡部の服装に気づいた。
先ほどとはまったく違うラフな格好。
を助けるためにも海に入ったのだから、当然のことながら跡部自身も水浸しだった。
浴室はが占領しているのにすっかり着替えを済ませているということは、他にも浴室があるのだろうか。
規格外に広い豪邸だからそれもありなのだろう。
ということは跡部が風呂に入り着替えを済ませ髪を乾かすだけの時間が経過しているということだろうか。
不思議そうに瞬きをして大きな瞳で跡部を見つめる。
の視線をじっと受け止めて、跡部は小さくため息をついた。

「…いつまで入っていれば気がすむんだ」
「…えっと…」
「それとも女みたいに長湯が好きなのか」
「そういうわけじゃないけど…」
「ならさっさと出てこい。着替えが出来なければ特別に俺様が手伝ってやってもいいんだぜ?」
「きっ、着替えくらい1人でできるよ!」

明らかな子ども扱いにが顔を赤くして反論する。その様子を見て、跡部が小さく笑った。
シニカルなその笑みが何を意味するか、には分からない。
だが、かすかに安堵しているように見えるのは気のせいだろうか。

「5分以内に出てこい。いいな」
「あ…うん……」

そっけなく、だが優しい手つきでくしゃりと頭をなでられ、は素直にうなずいた。
不思議だと思う。
と跡部はそれほど親しい関係ではない。
がいる青学と跡部のいる氷帝はライバル校と呼べる関係で、マネージャーであるにとって跡部は敵とは言うほどではなくても関係は非常に薄くて。
何度か会話したことはあるが、それでもこうやって家に上がりこむような仲ではなかったはずだ。
を発見した状況が状況だったから、そのまま見過ごすことができなかったのだろうか。
唯我独尊に見えて意外と面倒見がいいのだろう。
呆れたような跡部の表情を思い出して、はくすりと笑った。
それが数ヶ月ぶりの笑顔だということに、は気づかなかった。


  • 10.05.07