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月の雫 01


笑顔で差し出されたその手。
苦しい時つらい時、いつでも支えてくれた。
楽しい時嬉しい時、優しく包み込んでくれた。

幸せだった。
この手があればどんな暗闇だろうと怖くないと、そう思える程に。





喪うことになるとは思わずに―――。





   ◇◆◇   ◇◆◇





季節の移り変わりは早く、気がついたら秋が終わり冬になっていた。
半袖で走り回っていたのが昔のことのように、学生服の上にコートを羽織る。
夏場の照りつける陽射しはどこへ行ってしまったのかと思うくらいには、吹き付けてくる風は冷たい。
昼間は多少温かいが、朝夕の冷え込みはそれなりに厳しく、いくら若いからと言ってもコートがなくては登下校のときにつらい。
テレビではアナウンサーが毎日のように今年一番の寒さと報じていた。

「寒…」

玄関を出てしばらくして、リョーマは吹き付ける風の冷たさに身体を震わせた。
吐く息は白く、頬は冷気のせいでぴりぴりと痛む。
子猫のような大きな目で不満げに空を睨みつける。
空は厚い雲に覆われていて、見ているだけでも寒々しい。
どんよりとした空を睨みつけて晴れ間が見えるわけではないことくらいわかっているが、寒い上に天気も悪いなんてますます気分が滅入るではないか。
50%という何とも微妙な降水確率のせいで母親に無理やり渡された折り畳みの傘を握り締め、リョーマはため息をついた。
これだけ寒ければ雨よりも雪になるかもしれない。
雪が嫌いなわけではないが、テニスができなくなるのが困る。
青学には屋内テニスコートはないのだ。
そういえば手袋も忘れてしまったことに今になって気がついた。
温めようと息を吹きかけても、ほんのわずかの温もりはすぐに奪われてしまう。
仕方なくリョーマは指先を袖の中にもぐりこませる。成長を見越して多少大きめのサイズのコートを購入したのが幸いした。
こういう格好をすると小さい身長がさらに小さく見えてしまうようであまり好きではないが、背に腹は変えられない。
何しろ昨年までアメリカ西海岸に住んでいたために寒さは苦手なのだ。
子供は風の子と言うが、寒いものは寒いのである。
首筋を撫でる冷気にマフラーを忘れたことを悔やむ。
再度風が吹き付けて、取りに戻ろうかと思ったがすぐに諦めた。
このままでは朝練に遅刻してしまう。
3年生が引退したため、大きな大会を経験したことのある選手は桃城と海堂、そしてリョーマの3人だけだ。
引退した3年生の代わりにレギュラーとなった2年生は当然のことながら試合の経験が少ない。
いくら学内のトーナメント戦を勝ち抜いてレギュラーの座を射止めたとは言っても、彼らは一度も全国規模の大会を経験していないのだ。
経験不足は否めない。
ましてや彼らの実力とリョーマ達3人のそれとは、大きな隔たりがある。
それを補うために大石たちが臨時コーチを引き受けてくれたことはとても助かっている。
ほぼ毎日のように放課後の練習のみならず朝の練習も付き合ってくれる先輩を待たせるわけにはいかないのだ。
特に副部長だった大石は今までの習慣が簡単に抜けないらしく、誰よりも早く部室にやってくる。
彼よりも早く行くことは無理だが、だからと言って遅刻をしていいわけがない。
練習開始まで時間はまだ余裕がある。
のんびり歩いても間に合う時間帯だが、寒い中をゆっくり歩いていく気はない。

「走ればあったまるし…」

三度吹き付ける木枯らしに身を震わせ、リョーマは小さく呟くと道路を蹴り軽快に走り出した。





   ◇◆◇  ◇◆◇





部室に来るとすでに大石を始めとして引退した3年生が集まっていた。

「おはよう越前。今日はいつもより早かったな」
「…別に、いつも通りっすよ」

大石が笑顔で挨拶するのに、いつもの減らず口で返す。
そんなリョーマの態度をよく分かっている大石は小さく笑う。
数ヶ月前まで遅刻常習犯だったリョーマが遅刻もせず練習に出ることが嬉しくないわけがない。
前部長の手塚に青学テニス部を任されたという自負のせいかもしれないし、レギュラーとして他の部員を引っ張っていかなければいけないという自覚が出てきたのかもしれない。
テニスの実力だけでなく内面的にも成長していくのが目に見えて分かる。
それは引退した3年生にとってはひどく喜ばしいものだった。
レギュラージャージに着替えラケットを持つと、リョーマはコートに向かおうとして足を止める。
その視線がぐるりと部室内を見渡し、そしてかすかに落胆の色を浮かべた。

「…まだ来ないんだ、先輩」
「……」

リョーマの声に河村の表情が沈み、大石は視線を伏せた。
現在部室にいるのは大石と河村、そして乾の3人。前部長の手塚は来年留学することが決まり、引退直後ほどには顔を出すことがなくなっていた。時折気分転換と称して部活に顔を出すことはあったが、それは週に1、2回程度だ。
だから手塚がいないことは別に気にならない。
それでなくても手塚には生徒会の引き継ぎもあり多忙なのだ。
リョーマはこの場にいない2人を思う。
今年の夏、突然の事故で世を去った不二。
そして現実を受け入れることが出来ず、自分たちのもとから去っていったのことを。





   ◇◆◇   ◇◆◇





あの日、皆の目の前で幻のように消えてしまった不二周助という存在。
は何も知らなかった。
を庇って不二が命を落としたことも。
本人の遺志でに角膜が提供されたことも。
何一つ知らされていなかったのだ。

「周助…?」

目の前で消えてしまった親友の名を呼ぶの、泣きそうな顔が忘れられない。
事故により失った視力は再び取り戻せたが、はその代償として誰よりも大切な存在を失ってしまったのだ。

泣いてくれたらよかったのに、とリョーマは思う。
泣いて暴れて、真実を伏せていた自分たちを罵ってくれたら、少しは気分も楽になるのに。
真実を知らされた時、は小さく呟いただけだった。

「周助、いないの…?」

ただ、そう一言。
どこか現実から離れているような虚ろな声だった。


「…先輩は戻ってきてくれないのかな…」

リョーマの言葉に答える声はない。
あの日以来、は壊れてしまった。
豊かな表情の代わりに虚ろな笑顔を浮かべ。
どこか甘えた仕草は封印され。
その視界に自分たちが入ることすら忌避して。
泣きもせず笑いもせず、ただすべての感情を失くしてしまったかのように遠くを見ているその姿は、まるで人形のようだった。

先輩は、まだ…?」
「…あぁ」
「…そっか…」

の近況をリョーマは知らない。
何しろテニスに関わるすべてのことから逃げ続けているため、を捕まえることができないのだ。
のクラスメイトに話を聞いても、学校には来ているもののあまり授業に出てこないのでよくわからないという回答しか返ってこない。
同じクラスの菊丸ですら、は視界に入れようとしない。
そしてそんなの姿が痛々しく、菊丸もに話しかけることができないでいた。
事情を知らないクラスメイトから見れば事故が原因で憔悴しているように見えるだけだが、事情を知っている人間にはわかってしまう。
が登校してきたと知り、話をしようとリョーマ手塚と共に教室を訪れたことがあったが、目があった瞬間は教室から飛び出してしまい、その後どれだけ待っても戻ってくることはなかった。
恨んでいるのだろう。
本人の口から直接聞いたことはないが、リョーマはそう確信している。
にとって不二は単なる親友ではなかったのだ。
恋愛関係だと知ったのはいつだったか。
普段からスキンシップの多かっただから、友情が恋愛に変わったことに気づかなかった。
不二が亡くなって辛かったのは誰もが同じだと思っていた。
誰もが平等に悲しいのだと。
そう無条件で信じていた自分は、なんて愚かなのだろう。
同じであるはずがなかった。
自らの心を壊す程に、は不二のことを想っていたのだから。
少し泣いてつらい時期を乗り越えればまた笑えるようになってくれるなんて、どうして思ったんだろう。
悲しみは誰もが同じじゃないのに。

(もう少し早く気づいていれば、違う対応ができたのに…)

後悔しても遅いのは分かっているが、それでももし…と思ってしまうのは無理もない。

「帰ってきてよ、先輩」

使用者のいなくなった2つのロッカーを見つめ、リョーマはそう呟いた。


  • 10.04.28