赤司征十郎とはどのような人物かと問われた場合、多くの者がこう答えるだろう。
『完璧な人』だと。
若干18歳。現役高校三年生でそう評価されるなど一体どのような人物なのかと彼を知らない者は一様に声を揃えるが、事実そうなのだから仕方ない。
全国でもトップクラスの生徒が集まる超進学校で、全ての試験に於いて三年連続首位を独占。
それだけでなく全国模試でも首位の座から落ちたことがない程優秀な頭脳の持ち主で、高校一年から生徒会役員に推挙され翌年には会長に就任。
本来ならば大学入試に専念するであろう三年生でも会長職を歴任するという離れ業を成し遂げた。
更には運動神経も抜群であり、三年連続全国優勝を獲得した男子バスケット部の部長をこちらも二年連続で務めている。
外見はと言えば、身長こそ170センチ半ばと平均より若干高い程度でしかないが、引き締まった体躯とすらりと伸びた手足は今時の若者らしくバランスが良い。
容姿は勿論言うに及ばず端麗で学内外でも多数のファンが存在し、熱狂的なファンは一部では信者と化しているという噂だ。
何よりも彼の実家は日本でも有数の大財閥の本家で、日本経済を裏で牛耳っているという祖父から次期後継者として将来を有望視されているという、正に神の依怙贔屓を体現しているような人物である。
そんな何もかもに恵まれた人間である赤司だが人当たりはとても柔らかく、一部の『自称』名家の子息子女のように一般市民を見下すようなことは一切なく、誰に対しても分け隔てなく接しているために友人も多い。
あまりにも完璧すぎて僻みすら湧かないというのが大方の意見だろう。
そんな赤司と兄弟同然に育ったのが黒子テツヤである。
赤司とテツヤは母親が二卵性の双子であり、生まれた子供も二歳違いということもあってか兄弟同然に育てられた。
幼い頃から利発さを発揮していた赤司は、どちらかと言えばおっとりとマイペースなテツヤの世話を甲斐甲斐しく焼いていた。
幼い子供が更に幼い子供の世話をしている姿は大人達の目には微笑ましく、お互い一人っ子ということもあってか本当の兄弟のように仲が良い。
従兄弟とはいえ赤司は大財閥の後継者候補。片やテツヤは一般家庭の子供と、身分や家格の違いはかなりあったが、大人たちは幼い二人が仲睦まじく過ごしていることを不満には思わなかった。
利発過ぎて大人ですら持て余し気味の傾向にあった赤司が、テツヤと一緒にいると年相応の姿を見せていたのも理由の一つだろう。
声を上げて笑う赤司の姿はテツヤが一緒でなければ決して見られないものだ。
赤司が帝光学園中等部に入学を決めればその二年後にはテツヤも後を追い、赤司が部活動でバスケットを始めればテツヤもバスケ部に入部をする。
常に赤司の背中を追っていたテツヤは当然のように高校の進路も赤司と同じく帝光学園高等部へと編入を決め、同じくバスケ部に入部した。
同じ環境で育ったからか好みが似るらしく、赤司が暇つぶしに始めたバスケに夢中になったと同様にテツヤもバスケに心を奪われていた。
生徒会との兼任である赤司よりもむしろテツヤの方がバスケに向ける情熱は大きかったかもしれない。
ハードな練習に倒れながらも必死で喰らい付いていく姿は、バスケ部の日常となっていた。
そんな従弟を激励しつつも甘やかす赤司の姿と共に。
「――――あ」
高く放ったボールはネットを掠ることなくゴールポストに弾かれて明後日の方向へと飛んでいった。
また、外してしまった。
最近集中力が落ちているからという理由で練習後の自主練を行っているというのに、集中力は練習中よりも更に散漫になっているらしい。
自覚はしているが対処法が見つからない。
トン、トン、と力ないバウンドを繰り返して体育館の壁にぶつかって止まるボールを見るともなく眺めて、黒子テツヤは本日何度目になるか分からない溜め息をついた。
パサーであるテツヤは以前からシュートの精度は低い。それも3Pとなればその確率も更に下がり、十回投げて一回入るかどうかである。正直、素人と大差ないレベルだと自分でも思う。
そんなテツヤだがパスの技術を買われて何とか一軍に属しているのだが、パス以外に特別秀でた能力がないため、自身が陰で「従兄の威光でレギュラー入りした役立たず」やら「赤司主将は身内贔屓で目が曇っている」と言われているのを知っている。
自分の不出来が従兄の評価を下げてしまうのだと自覚してからは普段以上に練習に精を出しているのだが、どうしてもパス以外は上達しない。逆にパスだけは確実に上達していっているのだが。
最低でも人並みなレベル、できることならばそこそこシュートの成功率を上げたいところなのだが、どれだけ気を付けてもボールはゴールをくぐらない。
原因は分かっている。スポーツ選手にしては貧相なこの身体が原因だ。
身長167センチは高校一年生としては標準だがスポーツ選手としては小柄。体重も決して多いとは言えず、筋力なんて他のレギュラー選手に比べればないも同然である。
友人も先輩も190センチ前後であるためその差は歴然で、体格改善を目指して一日二リットルの牛乳を己に課したが身長は一向に伸びず、吐く寸前までプロテイン飲料を飲んでも筋肉は欠片もつかなかった。代わりに胃腸を壊して二キロ痩せたが全くもって嬉しくない。
そもそもテツヤは骨格自体が細いのだ。手首なんて女子生徒と比べても大差ないのだから情けないことこの上ない。
同様に肩も華奢で腕力もなく、そのせいでボールを遠くまで放ることができないのだ。
3Pの成功率が低くても当然である。
何度か肩の筋肉をつけようと筋トレに励んだことがあったが、結果は負荷が大きくて肩を痛めただけ。足の筋肉も同様、それどころか全ての筋肉が激しいトレーニングについていけないことが判明しただけだった。
それでもバスケを好きだという気持ちは諦めることができず、研究を重ねた結果が現在のパサーという地位である。試合で貢献できる以上不満を持ってはいけないことだとわかっているが、自分にないものを求めてしまうのが人間の常である。
テツヤは己を叱咤するように頬を叩いてボールを拾いに動いた。
ドリブルでゴール下まで進みレイアップシュート。
教科書通りの動きをしているはずなのに、ボールはネットをくぐらずに床に落ちる。いい加減泣きたくなる。
相棒と開発したファントムシュートはそこそこ成功率が上がってきているけれど、基本ができないというのはそれだけで落ち込む要因である。
ふぅ、ともう一度ため息をついたところでパサリと頭上に何かが乗せられた。
「どーした、テツ。最近元気ねーじゃん」
「青峰くん………」
部活での相棒こと青峰大輝が心配そうな顔をして目の前で立っている。
性格も考え方も全く違う彼だが、バスケではこの上なく良好なパートナーだとお互い認め合っているからこそ、今のテツヤの不調が気になっていたようだ。
部活では態度に出さないようにしていたから気づかれていないと思っていたが、相棒の目敏さを忘れていたらしい。
「情けないことに全然上達しないので、流石に落ち込んでいたところです」
テツヤは受け取ったタオルで流れる汗を拭ってそう答えた。
テツヤの言葉は間違いではない。
実際バスケが一向に上達しないことを悩み過ぎて不眠を患ったことだってあるのだ。全国区のチームにいて明らかに自分が劣った存在であることを突き付けられて落ち込まないわけがない。
だが、青峰は不満そうに両目を眇めただけだった。
「テツ、俺が言ってんのはそんなことじゃねえってわかってんだろ?」
「―――――――」
ただでさえ強面の青峰が視線を細めて低い声を出せばそれだけでかなりの迫力がある。
慣れない相手なら萎縮するし、下手に女子が目撃したら泣き出す子もいるかもしれない。
そんな威圧感を目の前で見せられてテツヤも一瞬だけ息を呑むが、だがテツヤのポーカーフェイスは鉄壁だ。その程度では崩れない。
「何のことかわかりません」
「テツ!」
「叫ばないでください」
至近距離で叫ばれて鼓膜が痛い。思わず両手で耳を押さえて咎めるように睨めばバツが悪そうな顔をして謝ったものの、それでもどこか納得しない様子でテツヤを見下ろしていた。
青峰は大雑把に見えて他人の機微に聡い。テツヤ限定かも知れないがテツヤの異変はそれなりに早く察するのだ。これが相手がテツヤではなく黄瀬ならば気づきもしないのに。
良い友人だと思う。頼りになる相棒だとも思う。
だけどどうしても心の全てを曝け出すことはできない。信頼していないという意味ではなく、もっと他の意味で。
沈黙を持て余してボールを床に二度三度とバウンドさせてからシュート態勢に入る。3Pラインよりも手前だ、テツヤの貧弱な腕力でも届くだろう。
テツヤのフォームは教科書に載っているようなお手本のそれだと良く言われる。その通り見た目は完璧だが成功率は低いのが難点だ。
だが何も考えずに投げたのが良かったのだろう。ボールがネットを揺らす音が久しぶりに響いて思わず表情が綻んだ。
「入ったじゃん」
「……入りましたね」
こうやって練習していけば亀の遅さであっても上達はする。
努力が無駄なことだとは決して思わない。
必要なのは諦めない力と、困難を打ち破る覚悟だ。
もう少し練習をしようかと思ったが時計を見ると下校時刻は疾うに過ぎていた。
自主練の許可を貰ってはいたけれど、そろそろタイムリミットとなりそうだ。
「そろそろ帰ろうぜ。腹減った」
「そうです、ね――――」
「――――テツヤ」
コートに落ちていたボールを籠に戻した青峰がテツヤを振り返ってそう言った。その言葉に素直に頷こうとして次いで響いた声に息が詰まった。
振り向いた先にいたのは赤司だった。
生徒会の業務が長引くということで部活を休んでいた赤司だったが、どうやら今までかかっていたらしい。てっきりもう帰宅していたと思っていたから驚きは隠せない。
だが、すぐに己の考えを否定した。
赤司は決してテツヤを一人で帰らせない。
それは決して過保護な理由だけでないのはテツヤだけが知っている事実だ。
「テツヤ、遅くなって悪かったね。正門に車が来ているから帰ろう」
「あー、主将が一緒なら安心だな。気を付けて帰れよ」
「青峰もテツヤについていてくれてありがとう。もう遅いから寄り道しないで帰るように」
「うーっす」
基本的に先輩を先輩扱いしない問題児として有名な青峰だが、赤司に対してだけは従順だ。
理由は簡単。怒らせると怖い人物であると、日頃の練習から骨身に沁みて痛感しているためである。
じゃあなと手を振って体育館から去っていく姿に無意識に右手が伸びる。
その手を自分よりも大きな手に捕まれた。
「さあ、テツヤ。俺たちも家に帰ろうか」
「………………………………………はい」
テツヤの口から諦めにも似た吐息が漏れた。
◇◆◇ ◇◆◇
赤司征十郎と黒子テツヤは一緒に暮らしている。
幼い頃にテツヤが母が病死したためである。
当時テツヤの父は海外出張に赴いたばかりで最低でも五年は戻れないということが理由の一つだったが、何よりも最愛の妹そっくりの忘れ形見を手元に引き取りたいと赤司の母が涙ながらに訴えたからだ。
赤司の母とテツヤの母は二卵性ということもあり二人の外見はそれほど似ていない。
そしてテツヤは母親に瓜二つである。
元々双子の妹を溺愛し妹と瓜二つであるテツヤをも溺愛していた赤司の母が、海外在住のテツヤの父に代わって世話をするのは当然の流れでもあり反対意見はなかった。
テツヤ自身も赤司家の家族と仲が良かったことも加わって、テツヤは母親を失った十年前から赤司の家に居候している。
それは三年前に赤司の母が病気で他界した後も変わることなく、それどころかお互い幼くして母を失った哀しみを分け合うかのように以前よりも一緒にいる時間は長くなっていた。
部屋は隣同士だが常にどちらかの部屋に入り浸っていたし、食事も風呂も一緒で当然ながら寝る時も一緒だった。
年頃になれば同性の従兄弟など距離が空くようなものだがこの二人にはそんなことは関係なく、赤司の父が多忙で留守がちということもあってかそれこそ自宅でも離れている時間などないかのようにぴったりと寄り添っている姿は珍しくない。
その関係が少しだけ崩れてきたのは赤司が高校三年生、テツヤが高校に入学した頃からだった。
まず、テツヤが赤司の部屋を訊ねることが少なくなった。
古くから赤司家に仕える執事がそれとなく訊いてみたところ、赤司の大学受験の邪魔をしたくないからと何とも可愛い返答があったのだが、これをそれとなく赤司に伝えたところ赤司は蕩けるような笑顔で「俺にとってテツヤと過ごす時間以上に安らげる時間はないよ」と伝えたようで、一時期ぎくしゃくしていた関係は再び元に戻った。戻ったように見えた。
だが、ここ半年程テツヤの表情が浮かないことが赤司家に仕える者にとっては気がかりだ。
テツヤはこの年の子供にしては驚く程に自分の感情を押し殺すことに長けた子だ。生まれた時から世話している者がほとんどなのだから、その認識は間違いない。
自分の家ではないということを理解しているからか極力我儘を言わないし、少しくらい体調が悪くても決して口に出さないのだ。
元から表情が豊かではないテツヤの些細な変化を見抜くのは、いくら付き合いが長くても難しい。
それができるのは赤司だけなのだ。
どうにも悩んでいるように見えるテツヤのことが心配でないと言えば嘘になるが、誰よりもテツヤの異変に聡い赤司が何の対策も練らないのだから問題はないのだろうと、赤司家の使用人たちはひっそりと様子を窺うだけに留める。
そうして普段の部活よりも遥かに遅い時間に帰宅した二人が軽めの夕食を摂った後に仲良く赤司の部屋に消えていく後ろ姿を見送って、彼らは各々の仕事へと戻っていった。
「テツヤ、今日は英語の課題が出ていただろう。眠くなる前に終わらせておくんだ」
赤司にはテツヤの授業内容がお見通しなのだろうか、鞄の中から手つかずだった英語のテキストを机の上に並べて赤司は笑顔でテツヤを椅子に促した。
ハードな練習の後、美味しいご飯を食べて温かい風呂で疲れた身体を癒し、後は眠るだけという状況でいきなり現実に戻されたテツヤの表情は分かりづらいながらも不満そうだったが、赤司の言葉に明らかに分がある以上逃げることは許されない。
基本的にテツヤに激甘な赤司だが、こと勉強において赤司はテツヤに甘えを許さない。
将来困るのは自分なのだと言われてしまえばその通りなので、テツヤは重い身体を引きずって椅子に腰かけた。
出された課題はそれほど多い量ではなく、赤司の懇切丁寧な説明を受けながらどうにか終わらせたのは午後十時を過ぎる頃だった。
よくできたね、と頬に労いのキスを落としてくれるのは幼い頃からの赤司の癖だ。
同性の従弟にやるものではないと言ったところで無駄だし、テツヤ自身慈しみを感じるこの仕草は嫌いではなかった。勿論人前でされたら恥ずかしさで逃げる自信はあるのだが。
テツヤがちらりと時計を見る。時刻は22:15を指している。
不安そうに視線を彷徨わせるテツヤの隣で、赤司は先日購入した本を読んでいる。
テツヤも気に入っている作家の新刊で読み終わったら借りる約束をしているのだが、その本が当分の間読み終わることがないのをテツヤは知っていた。
カチリ、と時計が秒針を進める。
赤司の手がパラリとページをめくる。
「……征十郎兄さん」
「何だ」
視線は本に注がれたまま。テツヤを見る気配もない。
「僕、今日は自分の部屋で寝ますね」
「ああ」
どちらかの部屋で眠ってしまうのは子供の頃からの習慣のようなものだが、だからといって強制ではない。
どちらかの体調が悪い時や忙しい時などは相手のことを考慮して各々の部屋で休むのはよくあることだし、高校生ともなれば自分の部屋で眠るのは当然だ。
「……お休みなさい」
「お休み」
赤司の理知的な瞳がテツヤへと向けられる。柔らかく微笑んだ姿にほんの少し綻んだ笑みを見せてドアノブに手をかけた。
今日はゆっくり眠れそうだと気付かれないように安堵の息を吐いた途端、背後から肩を掴まれた。
強い力で掴まれた箇所が痛みを訴える。思わず歪んだ顔を上げれば、不満そうな光を浮かべた瞳があった。
見下ろす双眸は優しい光を湛えた紅玉ではなく、紅と琥珀の冷ややかなオッドアイ。
「―――――――ぁ……」
ぞくり、と身体が震えた。
知らず身体が震えてくるのに目敏く気づいた色違いの双眸がすうっと眇められる。
「んっ、や、ぁ」
端整な顔が近づいてくると気づいた時には逃げることすらできなかった。
あっという間に唇を奪われ、息すらつかせぬ勢いで貪られる。
テツヤが焦ったように身じろいだ。
暴れる両手を片手で一纏めにされて頭上で固定され、空いた手で顎を掴まれ強引に舌を捩じ込まれる。抵抗しても無駄だということはわかっていても、それでも素直に受け入れることなどできるはずがない。
「や…っ、です! 兄さ…っ」
唾液を絡ませ歯列をなぞる舌の動きに、嫌悪とは別の震えが背筋を伝う。
舌先を絡め取られ吸い上げられ思う存分嬲られ、ようやく赤司が唇を離した頃にはテツヤの息は絶え絶えになっているのはいつものこと。
酸欠と強引に教え込まれた快楽のせいで下半身に力が入らないテツヤを抱き上げてベッドまで運ぶの姿は明らかに手慣れている。当然だ、これまでに何度もこの部屋で同じようなことをしているのだから。
二人分の重みを受けてベッドがギシリ、と音を立てる。
シャツの隙間から忍び込んできた赤司の手にテツヤの瞳が恐怖と困惑に揺れた。
「や…、お願いですからもう止めてください」
「ふふ、可愛いなテツヤは」
「おかしいですよこんな関係。僕たちは男同士じゃないですか」
一体何度目の言葉だろうか。何度も何度もテツヤは声を枯らしてそう告げているのだが、悲しいことに赤司の耳には一度として届いたことはない。
制止の声も拒絶の声も、更には懇願も謝罪も全ては赤司にとって雑音と一緒だった。
泣き喚くテツヤを力ずくで抑え込み無垢な身体を凌辱されたのはそれほど前のことではない。
原因が何だったかなんて覚えていない。
いつもと変わらない日々だった。何一つ変化らしい変化なんてなかったのだ。
朝起きて一緒に学校に行き、部活をして一緒に帰る。課題でわからないところがあれば赤司に教わり軽いストレッチで身体を解して眠る。そんな毎日が、あの夜を境に失われてしまった。
嫌だと叫ぶ口を封じられ、抵抗すれば手足を拘束され、恐怖から無意識に友人の名を呼べば自分以外の名を呼ぶなときつい責め苦を味わわされた。
今まで一緒に育った赤司征十郎とは到底思えない非道の数々は、とてもではないが誰にも相談なんてできない。
誰が言えるというのだ。同性である従兄に毎晩女のように抱かれているなんて。
恐怖と快楽が交錯し、過呼吸にも似た症状がテツヤを襲う。
はっ、はっ、と喘ぐように息を吐くテツヤの服を、赤司は慣れた仕草で剥いでいく。
形の良い指がテツヤの肌を這い、的確に快感を引き出していく。その仕草に嫌だと思いつつも反応してしまう己の身体にどうしようもない嫌悪感を抱くが逃げることができない。
「素直じゃないのも可愛いね」
「あっ、やぁ」
押し入られて、突き上げられて。
慣れた身体はすぐに快感を得ることができるが、それ以上に全身を覆い尽くすのは言葉にできない絶望の方が強い。
また、逃げ遅れた。
そう感じたのは先程とはまるで別人のようにテツヤを拘束する赤司の目を見てしまったからだ。
知性溢れる瞳、そう比喩されることが多い赤司の瞳は本来ならば両目とも深いルビーのような赤い色をしている。
だが、今彼の左目は琥珀―――それも黄金に近い金色だ。
それに気づいたのがいつだったか覚えていない。
随分と子供の頃だったような気もするし、つい最近のことだったような気もする。
赤司の様子が時々おかしいと感じることは以前からあった。
以前から薄々と感じる普段の赤司との差異が明らかになったのはおそらく三年前、赤司の母が病気で亡くなった頃だった。
葬儀の準備や来客の応対などで家の中がバタバタしていた当時、赤司家の分家の誰かがテツヤに対して悪意ある言葉を投げつけた。
『お前はまるで疫病神だな―』――――と。
幼い頃にテツヤの母が亡くなったのは子育てを優先して自身の体調不良を後回しにした結果であることは、その頃にはテツヤも理解していた。そのせいで父親が自分と顔を合わせるのがつらく疎遠になっているのだということも。
そして赤司の母が亡くなったのも似たような理由から。
こちらは不治の病だったからテツヤのせいだというのは不適切だ。
だが以前から赤司の本家に他人が存在しているのが面白くなかった男にとっては関係なく、ここぞとばかりに赤司の母の死をテツヤのせいだと糾弾した。
周囲が止めるも男の罵詈雑言は止むことなく、又、テツヤ自身もその言葉を事実のように受け止めていたところがあったため事態は更に悪化した。
理不尽なまでに責められ続けたテツヤは、大好きだった母と伯母が亡くなる原因が自分にあると感じ、これ以上迷惑をかけるよりはと思い込んで深夜に家を飛び出したのだ。
行く当てなどどこにもないテツヤは公園のベンチに蹲りぼんやりと空を見ていた記憶が残っている。
幸いテツヤの不在に気づいた赤司や使用人によってすぐに保護されたが、十二月の気温に加え一時間以上冷たい風雨に晒されたテツヤは肺炎を患って入院。目が覚めた時にはテツヤを糾弾していた親戚一同は姿を消していた。
当初テツヤは祖父の仕業だと思っていた。テツヤもまた赤司の祖父には可愛がられていたから。
だがそうでなかったと知ったのはそれからすぐのことだ。
彼らは赤司の権限によって一族から絶縁されたのだ。
赤司の怒りは深く、又、赤司の父も祖父も似たような心境だったため彼らのその後は杳として知れない。
それだけではない。
テツヤは病院から退院すると自宅での療養を余儀なくされ、その間一歩も部屋から出ることは許されなかった。
『僕の目の届かない所に行ったら、何をするかわからないよ』
そう言われた時に感じたのは紛れもない恐怖だった。
いつも優しい笑顔でテツヤの自主性を尊重してくれる赤司とは到底思えない強い束縛に言葉も出なかったことを覚えている。
その時に気付いたのだ。
赤司の左目の色素がいつもより薄くなっていることに。
違和感に気付いたのはそれだけで、困惑したテツヤが赤司の要求に頷いたためにそれはすぐに消えた。
その後も赤司がテツヤを束縛するような言葉を告げるたびに、少しずつ赤司の左目から色が消えていった。
少しずつ言動に異変が見えるようになっていったのは、テツヤが高校に入学したばかりの頃だ。
小学校も中学も赤司の後を追うように同じ学校に入学していたテツヤに、赤司は当然のように帝光学園高等部への入学を要求した。
だが全国でもハイレベルの学校での授業についていくことに現界を感じていたテツヤは外部受験を希望していた。当時創立したばかりの新設校だ。
新設校ながらバスケ部は都大会で優秀な成績を修めていたので、勉強が楽になりつつも部活動も楽しめるとテツヤは入学願書を取り寄せた。
自宅からも電車を利用するが通学するのにそう遠くなく、赤司の父も祖父も賛成してくれたのだが、結果から言えばテツヤはその学校を受験することなく高等部への進学を決めた。
理由はただ一つ、赤司から猛反対に遭ったからである。
それこそ監禁でもされるのではないかという監視下に置かれ、学校と部活以外は外出禁止。入学願書は目の前で破り捨てられた挙句、ご丁寧に焼却処分にされてしまった。
担任だけでなく理事長にまで話が通され、学校ぐるみでテツヤの受験は阻止されたのだ。
以前から過保護の傾向があったものの、基本的にテツヤの自主性を重んじてくれていた赤司とは到底思えない傍若無人さに流石のテツヤも反抗したのだが、それが最悪の事態を招くことになるとは当時のテツヤは想像すらしていなかった。
従兄の言うままに進路を決め中学を卒業したテツヤは、入学式の前日まで赤司が所有するマンションに文字通り監禁された。
自慰すら知らなかった身体を好きなように嬲られ、理性が擦り切れるのではないかと思える程の快楽を刻み込まれた――――消せない恐怖と共に。
それからずっとテツヤは赤司に「女」として扱われている。
普段はそれこそ目の中に入れても痛くないと思えるような「優しい従兄」だというのに、何かのスイッチが入ったかのように夜になると豹変するのだ。
時刻で言うなら夜11時を過ぎた頃。それ以前でも何かの拍子にふと人格が変わる。
そう、『変わる』のだ。明らかに。
解離性同一性障害という言葉を知ったのはその時だ。
要因とするなら母親の死だろうか。不勉強なテツヤには専門的なことはわからないが、何かの拍子に発症したのだとしたらテツヤの力ではどうにもすることができない。せいぜい悪化しないことを願うだけだ。
そうして大人しく赤司の言葉に従った結果、夜の赤司が昼間に出てくる確率は格段に減った。
だが、それだけだ。
夜になれば当然のように肉体の主導権を握って彼はやってくる。テツヤの身体を貪るために。
そしてテツヤにはそれを防ぐ術がない。
助けを求めることもできなければ、赤司を拒むこともできない。
喉の奥から競り上がってくる悲鳴や嬌声を押し殺すようにきつく唇を噛みしめ、ただ赤司が己の身体に満足するのを耐えるしかないのだ。
「テツヤ、僕のテツヤ」
全身をくまなく愛撫され、ナカを刺激され、幾度放ったかわからないお互いの体液に塗れたまま気絶するように意識を放棄する。それがテツヤの今の日常だ。
白色に染まる視界の先、琥珀色の瞳が満足そうな光を放っていた。
◇◆◇ ◇◆◇
大好き、可愛い、愛しているよ。
そんな言葉を一晩中囁いていた気がする。
そして柔らかく温かい何かをずっとこの手に抱きしめていたのだろう。手の平がしっとりとした肌の感触を覚えている。
夢を見ていた。とても良い夢を。
うっとりするほど心地良く、何とも言えず幸福な気持ちだった。
できればずっと見ていたいと思える程。
ここ最近そんな満足感を胸に抱いたまま目を覚ます。
起きた時に感じる緩い虚脱感も心地良い。ぐっすり眠ったはずなのに若干の疲れが残っているのはいつも不思議だったが、耐えられないほど酷いというわけでもないし何よりも爽やかな朝の気配を感じれば多少の気怠さなどすぐに消えてしまう。
隣には布団に包まって眠る従弟の姿。
自室に戻ると言っていたのに、またこちらのベッドに潜り込んできたようだ。
成程夢の中で感じていた柔らかい温もりはテツヤだったのかと口元に笑みが浮かぶ。
高校生になっても一緒のベッドで眠る従兄弟同士というのは不自然なのだけれど、幼い頃からの習慣だし誰に迷惑をかけているわけでもないし構わないだろう。何よりも暖かい。
それにしても、と赤司は思う。
自分は一体いつベッドに入ったのだろう。昨夜はテツヤと就寝の挨拶をして読書を再開したはずなのだが。
テーブルには読みかけの本が置いてある。購入してから随分立つがまだ数ページしか読んでいない。いつも朝までに読んでしまおうと思っているのに、気が付けば眠っている。それほど面白くないのだろうか、冒頭部分を読んだ限りでは興味深そうだと思ったのだけれど。
そもそも、あの本は一体いつ買ったのだったか。
「…………ん」
隣で眠るテツヤが小さく呻いて身じろぎをした。
相変らずの寝癖の酷さだ。くしゃりと撫でれば柔らかい猫っ毛の感触が心地良い。
時計を見ればまもなく起床時間だ。
今日は朝練がある日だからいつもより早く出なくてはいけない。
赤司の身支度はそれほどかからないが、問題はテツヤだ。
寝癖を直して着替えをして、朝は食欲がないと駄々をこねるテツヤに最低限の朝食を食べさせなくてはいけないのだ。あまり余裕はない。
「テツヤ。朝だよ、そろそろ起きなさい」
「ん…………征十郎、兄さん……?」
「俺以外の誰がいるっていうんだい、まったく。寝惚け顔も可愛いけれどね、早く寝癖直さないと、朝練に遅刻してもしらないよ」
「……起き、ます」
「いい子だ」
眠そうに目を擦りながら起き上るテツヤの額に挨拶代わりにキスを落として、赤司はカーテンを開けた。
柔らかな朝の陽射しが室内を一瞬で明るく照らす。眩しさに赤司は僅かに目を眇めた。
「あぁ、良い朝だ」
そうしてまた一日が始まる。
- 14.08.20