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神隠し


黒子テツヤの運命は、思えば生まれた瞬間から決まっていたのだ。



テツヤの母は、とある地方の地主の娘だった。
何百年と続く名家の出――とは言え全盛期の勢いなどとっくに衰退した現在では、少しばかり多くの土地と少しばかり大きな古い家に生まれたという認識しかなかったのだが、そんな家に生まれた彼女は子供の頃から不思議なものと縁がある人生を過ごした。
だがそれは村の子供としては特に珍しいものでもなく、拒絶するよりも共存することを選べばそれほど危険なものでもなかったため問題はなかった。
そんな彼女が大学進学を機に上京して、そのまま就職。
年頃になり愛する男性と知り合い結婚に至った。それはごく自然の流れだ。
相手は普通のサラリーマン。
ごくごく平凡な、どこにでもある幸せな家庭である。

しばらくして子供を身籠ったと知った彼女はとても喜び、実家に帰省した際に家の近くにある霊験あらたかという神社に参拝した。
幼い頃から彼女を守ってくれたこの神社なら、生まれた子も守ってくれると信じていたからだ。
安産のお守りを買って「この子が無事に生まれて誰からも愛される子に育ちますように」と神様にお願いした。
どこにでもいる妊婦の姿だろう。
実家で出産することを選んだ彼女は、臨月までの間に通える限り参拝を行った。

そうして生まれたのがテツヤである。
若干色素が薄く身体が弱いという点を除けば普通の子だと思っていたテツヤは、だが両親の思惑とは正反対に普通の少年とは逸脱した存在へと成長した。

まず、人でないものが見える。
幽霊、生霊、妖精と呼ばれるもの。更には木々に宿る自然霊。
神社などでは御神体の姿もしばしば見えているらしい。
そして見えるだけならまだしも異常に好かれる。
それはもう身の危険を感じるレベルで。

最初の被害はテツヤが1歳の夏。
東京の夏は暑いという理由で里帰りした母と一緒に散歩をしていた時だった。
ベビーカーに乗せていたはずのテツヤの姿が忽然と消えたのだ。
目を離していたわけではない。
ベビーカーの中から見上げてくる子供に笑いかけながら、上空を流れる白い雲につい視線を移したほんの一瞬。
その間にテツヤはベビーカーから消えてしまったのだ。
近くに人がいた様子はない。
そもそもベビーカーには子供が動いて転落しないようにとベルトがつけられている。
慣れない人なら戸惑ってしまうそれらを外さずに子供を攫うなど人間には到底不可能だ。
パニックになった母はベビーカーを引きずったまま実家に駆け戻った。
半狂乱になった母の様子にただ事ではないと察した親族が探した結果、テツヤは1時間後に自宅から500メートル離れた木の下で眠っているところを発見された。
その木は樹齢500年を超える大木で、近所では御神木として有名だった。

2度目の被害は2歳の夏。
よちよちと歩く姿が可愛らしいテツヤは、父親が海外出張という理由もあって母親と一緒に母の実家に帰省していた。
自然に囲まれた母の実家は都内に比べて幾分涼しく、そのせいか暑さの苦手なテツヤはこの家を気に入ったようだった。
広い敷地も好奇心が刺激されるのだろう、近所の子供と一緒に探検と称して自宅の周りを遊び回るのが最近のお気に入りだ。
勿論危ないことがないようにと大人達の目の届かない所では遊ばせなかったのだが、またもやほんの少し目を離した隙にテツヤが消えた。
一緒に遊んでいた子が言うには、繋いでいた手が離れたと思ったらもういなかったらしい。
前例があるため今度は村人総出でテツヤの捜索が行われた。
半日が経過して、テツヤは自宅から5キロ離れた神社の境内で眠っているところを発見された。
怪我もなく衰弱した様子もなかったが、幼子が1人で歩いて行ける場所ではないその神社にいたのかという理由は、本人も良くわかっていないようだった。

両親はテツヤを実家に連れてこないことを決めた。

だが、それでも何者かに企てられているかのように、テツヤは毎年母の実家に足を運ばされた。
母も親族も反対するのに、それでもどうしてもこちらに来なければいけない事情が出来るのだ。

3歳の夏は曽祖父の死。
葬儀の最中にテツヤが行方不明になり、翌日無事な姿で発見された。

4歳の春は曾祖母の死。
通夜の夜に眠っているテツヤの姿が消えた。3日後に何もなかったかのように布団で発見された。

5歳の秋は曾祖父母の墓参りという名目で帰省を余儀なくされた。
その日の夜、テツヤは夕食の席で親戚一同が見ている前で空気のように目の前から消え失せた。
一週間後、またもや何事もなかったかのように戻ってきたが、流石に尋常ではない事態に慌てて近くの神社に連れていけば、神主はテツヤの顔を見るなり蒼白になった。

「この子は、山神様に魅入られておる。もはやその絆は強く、人の力ではどうしようもならん。向こうに連れて行かれるのは時間の問題だ」

申し訳ない、自分では何もできないとうなだれる神主の前で、とうとう母親は心痛で倒れた。

テツヤの母の実家は村一体を治める地主の家系だ。
数百年前までは幾度となく山の神へと捧げる贄を出してきた過去もある。
そういう血筋もあってテツヤを気に入ったのだろうという。
子供の魂は純粋で特に山神には好まれる。
況してやテツヤは多くの自然霊に好かれる稀有な存在で、幾度となく神隠しに遭ったテツヤの魂は既に人間よりも向こうの住人に近く、両親よりも山神との結びつきの方が強くなっているほど。
とりあえず護符を渡しておくが気休めにしかならず、長くて10年短ければ5年も経たずにこの子は連れていかれるだろう。
止める方法はない。

ようやく授かった我が子が山神に狙われていると知って嘆かない母親がいるだろうか。
唯一の希望と言えば、テツヤを我が子と思っている山神がテツヤの意に添わぬ方法を取らないだろうということ。
テツヤがこちらの世界にいたいと心から願っているうちは彼の魂はこちらに留まっていられるはずだ。
神主はそう告げた。

幼い子供の感情1つで我が子を失うかもしれない恐怖を抱きながら、彼女はテツヤと一緒に東京へと戻った。
日々を怯えながら過ごす母の心境を知ってか知らずか、テツヤはすくすくと成長していった。
友人にも恵まれバスケという大好きなスポーツとも出会い、毎日楽しそうに過ごしていく姿が母にとって救いだった。
今日はこんな練習をした、今日はこれができたと楽しく語る姿は普通の子供と同じ。
どうかこのまま何事もなく成長してほしい。
母は息子にそれだけを願っていた。



その希望が砕かれる日だけを恐れて。







   ◇◆◇   ◇◆◇







「あれ? 黒子っち?」

黄瀬涼太は横を通り過ぎた小柄な少年に気付いて振り返った。
頭一つほど小さな細い身体。
一見すると文学少年にしか見えない後ろ姿は間違いなくつい先日まで同じコートを走っていた仲間の姿だった。
相変わらず薄い存在感。それどころか大会が終了してから更に薄くなったように感じる気配に驚きつつも黄瀬はその背中に声を掛けた。
気配どころか足音一つ立てなかった少年は黄瀬に呼び止められてピタリと歩みを止めた。
振り返ったその表情に浮かぶのは、気のせいでなければ若干驚いているようにも見える。
どうして驚くのか理由のわからないまま、黄瀬は足を止めた少年に近づいた。

「黄瀬、くん…?」
「どうしたんすか?」
「どうしたって、何がですか? 呼び止めたのは君でしょう」
「いや、だって……」

こてんと首を傾げる姿は以前そのもの。
だが、間違いなく感じる違和感に黄瀬は口ごもった。
彼は影が薄い。
元々の存在感が薄い上に、更に本人が意識して気配を消している。
通称ミスディレクションと呼ばれるそれは、普通の人なら見つけることすら困難だ。
黄瀬が黒子を見つけることができるのは、彼の気配の薄さに慣れるだけの時間を共有していたからに過ぎない。
だが慣れているはずの黄瀬ですら一瞬気のせいかと思ってしまうほど薄くなってしまった気配はどういうことだろう。
目の前で話しているというのに、まるでそこにいないかのように思えてしまうから不思議だ。

「最近部活にも来てくれないっすよね。確かに大会は終了したっすけど、一応まだ練習はあるっすよ」
「…だって、もう無理なんです」
「黒子っち?」

ポツリと呟いた声は生憎黄瀬の耳にまで届かなかった。
存在感どころか声まで更に小さくなっていないだろうか。
黄瀬が聞き返すと黒子は小さくかぶりを振った。

「…何でもありません。僕にも用事があるんです。落ち着いたら顔くらい出します」
「いやいや、落ち着かなくても来てほしいっす」

黄瀬にとって黒子は特別な存在だ。
チームメイトとして尊敬しているというのもあるし、友人として好感を抱いてもいる。
お調子者で弄られキャラの自分をさりげなくフォローしてくれる黒子は頼もしい。
時々誰よりも追い打ちをかけるけれど、それでもやっぱり一緒にいると楽しいのだ。
黄瀬は黒子を友人だと思ってるし、できれば親友になりたいとも思ってる。
そう告げれば黒子は意外そうに目を見開いて、そしてどこか寂しそうに笑った。

「君は変わらないですね」
「勿論っす。俺はいつだって明るく元気な、みんなの黄瀬涼太っすよ」
「そう、ですよね……」
「黒子っち…? 本当にどうしたんすか?」

普段と違う黒子の様子に、黄瀬は無意識に黒子の腕を掴んだ。
同年の少年とは思えないほど細い二の腕は黄瀬の手で簡単に掴めてしまう。
この細い腕であれだけ強いパスが繰り出せるなんて本当に凄いよなぁと呑気に思っている黄瀬は、掴んでいた腕が急に実体を失ったようにぐにゃりと歪んだ。

「っ?!」

咄嗟に腕を離した。
まるで目の前の存在が陽炎のような違和感に目を瞠る。
だがそこにいるのは紛れもなく黒子で、ゆらりと揺らいだように見えた姿は瞬き一つで元に戻った。

「え? 何っすかこれ? 今……」

不思議そうに黒子を見れば、黒子は尋常ではない程に震えていた。
黄瀬に捕まれた腕を片方の腕で掴んで、何かに耐えるようにきつく目を閉じている。

「やっぱり……っ」
「あ、黒子っち――」

そして一瞬の間の後、黒子は黄瀬の脇をすり抜けて走り去っていってしまった。
追いかけることはできたが、それより気になることがあって己の右手を凝視した。

気のせいと呼ぶには生々しい感触だった。
確かに黒子の腕を掴んだはずだ。
最初に感じたのは細い腕の感触。硬い骨と僅かについた筋肉と、柔らかく肌理の整った皮膚。
それらが一瞬にしてスポンジのように柔らかい何かに変わってしまったかのようなあの違和感を何と呼べば良いだろう。

「何なんすか、一体」

黄瀬は黒子が走り去った方角を見遣り、小さく呟いた。










「おかしいのだよ」



緑間真一郎は窓の外へ視線を向けたまま、室内で将棋盤を前に動かない少年へと問いかけた。

「何がだ?」
「黒子なのだよ。あいつの影が酷く――薄い」
「何を今更」

くすり、と笑う姿はどこか馬鹿にしたようにも見えるが、それほど短くない付き合いで緑間は知っている。
これは彼のポーズなのだと。
常に態度を崩すことのない少年――赤司は、たとえ何があっても動じるということはない。
彼は常に絶対であり正しいのだと、そういう認識が学内の生徒のみならず教師達にも浸透しているが、だからと言って赤司に不可能がないかと言われれば否としか言えないだろう。
それ故に緑間は気づいた。
彼はまだ黒子に何が起こっているか知らないのではないか。
何かから逃げるように校門から出ていく後ろ姿。
淡い水色の髪、ほっそりとした小柄な身体は、とてもじゃないがバスケをしているようには見えない。
どれほど鍛えても筋肉がつかなかった黒子。
傍から見ている自分でも相当の努力をしているのはわかったが、その努力は報われず彼の身体は筋肉がついているとも思えない程華奢で、そして成長期を迎える男子にしては珍しくそれほど身長は伸びなかった。
食が細いのも原因だろうが、自分達と同じメニューをこなしているとは思えないほど彼の成長は遅い。
勿論人には個人差というものがあるのだから一概に嘆く必要もないだろう。
だが、緑間が見る限り黒子の成長は遅すぎた――異常な程に。

まるで黒子の成長を何かが妨げているようにも思える。

そうして感じる黒子の違和感。
黒子はあまりにも透明過ぎるのだ。
大気に溶けてしまいそうなほど薄い存在感。ひっそりと影に埋もれていくような姿は、人が本来持つ生命力という光を感じない。
穏やかな気質もあるだろう、本人の意向もあるだろう。
だが、それでも不自然だ。
緑間にとって黒子テツヤは性格も思考回路も含めて理解できない相手ではあったが、それでもチームメイトとして同じコートに立っていた時は普通の人間だったと記憶している。

何故、彼の影はあそこまで薄くなったのか。

もう一度確認するように正門を通り過ぎていく後ろ姿へと目をやり――そうして感じた違和感の正体に気付いて愕然とする。

「赤司――」
「何だい?」

「黒子の影が――ないのだよ」

大勢の生徒が行き来する正門前。
雲一つない晴天からは季節はずれの強い日差しが差し込み、アスファルトで覆われた地面に濃い影を作っている。
だが、ただ一人。
何かに怯えたように歩く黒子の足元にだけは、どれだけ探してみても影が存在していなかった。

緑間の声に呼応するように赤司が椅子から立ち上がって窓の外を眺める。
消えていく背中。
それが数日前に比べて遥かに細く小さくなっているのがわかる。
そして、それ以上に儚い存在感。
赤司は色違いの瞳をすぅっと眇めた。

「原因は大輝、か――」







自分の身体が変わっていくのがわかる。
気を抜けば大気に溶けてしまいそうなほど薄い存在感。
輪郭を留めておくことが難しくなっていく己の身体。
人としての概念を根こそぎ覆していくそれらに対して何の違和感も感じなくなっている自分が怖かった。
黒子テツヤは人として生まれた。
両親も普通の人間だし、自分も人以外の何かになるなんて想像したこともなかった。
それなのに今、黒子は『人間』という範疇から逸脱した存在へと変貌しようとしている。
誰の仕業かなど聞く必要もない。
黒子を守護しているという山神。
地域によってそれは龍神と呼ばれたり土地神と呼ばれたり、鬼と呼ばれたりする存在だ。
黒子の母が生まれ育った土地では天狗が山神として祀られていたらしい。
その天狗に生まれた時から何故か気にられてしまった黒子は、幼い頃から頻繁に神隠しに遭っていた。
最低でも年に一度、黒子は山神――天狗によって人でないものが棲む世界へ連れていかれていた。
別に嫌だと思わなかったからだろうか、天狗は幾度となくこのままこちらにいないかと提案をしてきたが、遠くから聞こえてくる自分を呼ぶ声をどうしても無視することができずに断っていた。
そのたびに寂しそうな顔をする天狗には申し訳なかったが、幼い子供にとって両親は絶対の存在だし、何よりも大好きな母を泣かせることだけはできなかったのだ。
天狗は聞き分けが良かった。
本人があちらにいたいと思うなら無理強いはしない、だが一度でも嫌だと思った時にはどのようなことがあろうと連れて行くと言っていたが、残念ながら彼の希望を叶えることはないだろうと思っていた。
つい先日まで。

自分にとって絶対だと思っていた居場所をあっさりと失ってしまった日、僅かだが黒子はこちらの世界を否定してしまった。
それを見逃す天狗ではなかったということか。
その日から黒子の存在は日を追うごとに薄くなっていった。
クラスメイトに存在を気づかれないことは珍しくなく、親しくしていた部活仲間ですら黒子に気付くことが少なくなっていった。
更には両親からも認識されない時間が増えてしまえば、黒子が追い詰められていくことは必然。
何よりも怖いのは、自分がこのまま消えてしまっても誰にも気づいてもらえないのではないかということだった。
黒子テツヤという人物がこの世にいたという証拠すらなくなってしまうのは嫌だ。
親友だと信じていた相手にすら忘れられてしまうなんて耐えられない。
そう願っているのに、時間は刻一刻と黒子を世界から隔絶していく。
自分の影が消えているのに気付いたのは今朝のこと。
学校で黒子に声をかける生徒もいなくなり、教師ですら黒子の存在を認識できなくなっていた。
油断すれば陽炎のように揺らめく身体は、まるで世界すべてが自分を否定しているようにしか思えない。
そもそも黒子テツヤという少年は本当に存在しているのか。
そんな疑問すら抱いてしまうのだから、黒子の精神状態は相当に危険だった。
だが、それに気づく友人はいない。
気づいてほしいと思っていた親友は、今、黒子の目の前を通り過ぎていった。
黒子の姿に気付いた様子はない。



――わかっているんだろう、テツヤ



脳裡に優しい声が響いてくる。
幼い頃から黒子を慈しんでくれた声。
大好きだけど、何故か恐怖を抱かせるそれは、今朝からひっきりなしに黒子を呼んでいた。
一度でも応えたら最期だと、何かが告げている。



――君の居場所は私のところだけだよ



――戻っておいで、愛しい我が子



目を閉じて走り出した黒子が前方を見ているはずなどなく、数歩も走らないうちに黒子の身体は何かにぶつかり背後へと弾かれた。
バランスを失って地面へと尻餅をついた黒子は思わず目の前に立つ相手を見上げる。
不機嫌そうに顰められた眉、陽に焼けた肌。
何よりも強い意思を宿した鋭い眼差し。

「あ、お峰…くん…」

怖い、助けて。
そんな願いを込めて呟かれた声は、だが青峰の耳に届かなかったのだろう。

「あん? 何かぶつかったのか?」

足元に蹲る黒子の姿に気付かないまま、青峰は視線を周囲に巡らせた後何事もなかったかのように歩き出した。
差し伸べた手には気づかないまま。





心の奥で何かが砕ける音がした。







   ◇◆◇   ◇◆◇







「黒子!!」
「テツヤ!」

聞きなれた声に青峰はとっさに振り返った。
そこにいるのは友人というには微妙な距離のチームメイト――否、『元』チームメイトの姿。
赤司と緑間が厳しい表情でこちらを睨んでいる。
自分に何か用なのだろうかと思ったが、彼らが呼んだのは自分の名ではない。
青峰のチームメイト兼相棒である黒子テツヤの名前だった。
その声に応えるように足元で何かが動く気配がした。
気配のする方向へ視線を動かし、そしてそこに見慣れた少年の姿を見つける。
砂に汚れ蹲っている姿に一瞬だけ首を傾げるものの、先ほどの衝撃を思い出して彼とぶつかったのかと納得する。
ここ最近の黒子の存在感は更に薄くて、ともすれば青峰ですら見逃してしまうほどなのだ。
ぼーっと歩いていたために気付かなかったらしい。

「悪いな、テツ。怪我ないか」

青白い顔で蹲る黒子は、もしかしたら足でもひねってしまったのかもしれない。
あの衝撃はそれほど大きなものではなかったが、小柄な黒子ならばバランスを崩して捻挫をしてしまってもおかしくない。
そう思い彼へと近づき差し伸べた手は、黒子が座ったまま後ずさるという行動によって拒絶された当然のことながら面白くない青峰の眉間に皺が寄る。
何かを否定するようにふるふると首を振るその瞳は薄く涙の膜が張っており、彼が瞬きをしたことでそれが一筋頬を伝って地面に落ちていく。

「テツ……?」

黒子は少女みたいな外見をしているものの、中身は大層男らしい少年だ。
大抵のことでは泣かないし、実際2年ほどの付き合いの中で青峰は黒子が泣いた姿を見たことがなかった。
そんな黒子が泣いている。
見たことがないほど切ない表情で。

「テ――」

「テツヤ」

青峰の言葉を遮るように赤司が静かな声で黒子を呼んだ。
ぼんやりとした瞳がゆっくりと赤司へ向けられる。
そこに宿る絶望に気付いた赤司が小さく舌打ちをした。

「こっちに来るんだ、テツヤ」

赤司の手が黒子へと差し伸べられる。
声に優しさはなく、色違いの瞳が浮かべる色は厳しい。

「おい、赤司、何やって――」
「お前は黙っているんだ」

青峰に鋭い視線を向け言葉を遮らせると、赤司は再び黒子へと視線を向ける。

「僕の言っている意味が分かるね、テツヤ」


だが、赤司の声に黒子は寂しそうに笑うだけ。
青峰にしたのと同じように、ふるふると小さな頭を振る。

「―――、です」
「テツ…?」
「もう、無理なんです。だって……」

黄昏色に染まる夕陽を受けた身体が、ゆっくりと霞んでいく。


「テツ?!」
「テツヤ!」
「黒子!」

伸ばした手は虚しく空を切る。
そこに黒子テツヤがいたという証拠は、わずかに濡れた地面の跡だけ。





その日、黒子テツヤという存在がキセキの前から消えた。

  • 13.09.05