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テツヤさんが束の間の平和を満喫していたようです


「平和だなぁ」 テツヤはしみじみと呟いた。
朝は小鳥の囀りで目を覚まし、帝都でも五指に入る一流シェフの作る朝食をゆっくりと摂り、家主の仕事を手伝いがてら自分ができそうな屋敷内の雑務をいくつかこなしつつ休憩には老舗菓子店の新作和菓子に舌鼓を打つ。
その後は書庫に籠って貴重な蔵書を読み耽り、夕食の時刻になれば家主と一緒にのんびりゆったりと食事を摂り、風呂で日中の疲れを癒して眠りにつく。

何たる贅沢。何たる至福の時間。
テツヤは露天風呂から見える美しい夜空を眺めながらうっとりとため息をついた。

赤司征十郎という人物に拉致――基、強引に連れてこられてから数日の間、テツヤは数か月ぶりの心の平穏を取り戻していた。
ここには「黒子っちのぬくもりが恋しいっス」とか言いながら自分の寝台に潜り込もうとする駄犬もいなければ、薄っぺらい男の胸に手を這わせて「テツの胸は小せえなぁ。よし、いっちょ俺が揉んででかくしてやるよ」と言いつつセクハラしてくるガングロ男もいない。
勿論おは朝信者の医師から抱き枕にされることもなければ、「試作品が出来たよ〜」と大量のタルトを持って乱入してくる妖精さんもいない。
後者2人に会えないのは少し寂しいが、それでもこうして1人の時間をじっくり取れる心地良さに比べたら天秤はあっさりとこちらに傾く。

赤司に連れてこられた時は本当にどうしてくれようと思っていたのだが、基本的に赤司はテツヤを束縛しなければ理不尽な命令をしない。
時折仕事の手伝いで書類の整理を頼まれるくらいで、1日のほとんどをテツヤの自由にさせてくれている。
むしろベタベタに甘やかしているような気がするくらいだ。
最初のうちは彼の真意が掴めなくて警戒もしたものだが、数日様子を見てテツヤが外出する以外は行動の制限がないことと書庫に置いてある貴重な書物が読み放題ということもあって、テツヤは赤司邸に滞在することに不満はない。
何しろ衣食住が満ち足りているのである。
しかも赤司の手が空いた時は勉強まで教えてくれるし、出されるご飯はとっても美味しいし、正直に言ってこの家の居心地は素晴らしく良い。
何と言っても10時と3時に用意される菓子の絶品なことと言ったらない。
帝光苑での生活も悪くはなかったが、従業員(見習い)だった頃ならまだしもキセキ専属接客係というわけのわからない立場に置かれてからの心労は結構なものだったので、いつまで続くかわからないけれどこの屋敷に滞在する間はのんびり羽を伸ばすことに決めたのだ。

そのためテツヤは赤司に頼まれた仕事をこなす以外は基本的に書庫か風呂に入り浸っている。
お風呂最高ですと暇を見つけては露天風呂に足を運ぶテツヤに、赤司は若干呆れつつも笑顔で送り出してくれているので大感謝。
ちなみに赤司邸の風呂は温泉である。
何でも遠方から温泉を引いてきているらしい。
何ですかそれ、一体いつの時代の権力者ですかとかテツヤが思うのも当然だろう。
遠方から温泉を引いてくるというのは莫大な費用がかかるのだ。
帝都から一番近い温泉街まで汽車で半日。
その距離の温泉を引いてくるなど、余程金と権力がないと無理だ。
一体どうしてと思ったテツヤだが、まぁ征十郎さんだしということで自分を納得させた。
赤司征十郎という人物をテツヤはまだよく知らないが、20代前半という若さで帝都の一等地に広大な敷地を所有しているのだ。
帝光苑の支配人に対する態度といい、かなりの権力を持っているのは間違いないだろう。
とりあえず答えを聞くのが怖いので本人に聞いたりはしないけれど。

余談だが、テツヤが赤司を呼ぶ際は「征十郎さん」と呼ぶように言われている。
別に命令されたわけではないが、断ろうとしたら何故だか逆らえない空気を感じた。
本気で怖かった。
この名前呼びが原因で残りのキセキが口惜しそうにハンカチを噛みしめることになるのだが、そんなことはテツヤにとってどうでも良いことであるので気付かないし気にしない。
ただちょっと、

「俺も『涼太さん』って呼んでほしいっス」

とか、

「『大輝さん』って呼び方、何かエロくて良いよな」

とか、

「べ、別に『真太郎さん』なんて呼んでほしいわけではないのだよ」

とか、

「んー、じゃあ俺のことも『敦さん』って呼んでね?」

とか言われるのがうざいだけだ。

まぁ、そんな感じで本人の意志とは無関係に連れてこられた場所ではあるけれど、居場所としては快適だし仕事も与えてもらっているし勉強も教えてもらえるしと不都合を感じないのでそのまま滞在を続けている。
そもそもテツヤの職と居場所を奪ったのは赤司だということをテツヤは覚えているのか微妙なところだ。





今日も今日とてテツヤは温泉でまったりゆっくり寛いでいる。

「はぁ、温泉いいですね。今度どこかの温泉にでも泊まりに行ってみましょうか」

あっちの温泉の効能は疲労回復で、向こうの温泉は胃弱だったはずと各地の名湯の効能を思い出しながら、テツヤは頭に手拭を乗せて湯船で漂っていた。
テツヤが生まれ育った場所は田舎も田舎、ドがつくほどの田舎町だったので温泉なんて遊興地は存在しない。
だから実は少しだけ憧れていたのだ。温泉や露天風呂に。
まさか個人の家にあるとは思わなかったけれど、一度体験してしまえば癖になるこの気持ち良さ。
近場でも良いので他の温泉を味わってみたいと思うテツヤは、そんなことを言ったが最後、赤司に帝光苑並みの一流旅館に連れていかれることになるということに気付いていない。
テツヤが赤司の行動を把握するにはもう少し時間と経験が必要なようだ。

本日2度目となる温泉で温まったテツヤは思わずウトウトと眠りそうになってしまい、慌てて湯船から出た。
テツヤの意外な温泉好きを知った赤司はテツヤが好きな時に入浴して良いと言ってはくれているものの、

「だけどお風呂で眠ってしまったら駄目だよ。そんなことをしたら……お仕置きかな」

とやけに清々しい笑顔で言ってくれたので、その言葉だけは遵守である。
破ったら何されるかわからないだけに恐ろしい。

湯冷めしないようにタオルで身体を拭いて夜着に着替える。
赤司家では室内着は和服と決まっているらしい。
当然のように夜着も和服である。と言っても浴衣だが。
身一つでやってきたテツヤは当然のことだが着替えを持っていない。
そのため用意された服を大人しく着ているのだが、素人でもわかってしまう質の良さにちょっとばかりビビり気味である。
聞けばそれらは全て赤司の御下がりで新品でないということだったが、それでも高価な品物であることに変わりはない。
赤司のおさがりというこの着物よりも新品を買った方が遥かに安いということを、幸いなことにテツヤは知らない。
というのも赤司の着物は産着から現在まで全てにおいて最高級の絹糸を使用した超高級品であり、着物と帯の柄は人間国宝が赤司のために誂えたもので、おそらく反物1反買うだけで家一軒建つだろう高級品なのだ。
まぁそれがわかったところでテツヤの服が他のものになるという選択肢がないため、どちらにしろ着せられることに変わりはないのだが。

余談だが赤司の服を用意することになった際に、赤司が「僕の着ていた衣服をテツヤが纏うのか。……何かいいね」とか言っていたことにも気が付かない方が良いと思われる。

今更言うまでもないが、赤司は初めて見た時からテツヤをかなり気に入っている。
でなければいくら夜道であろうと年端もいかない少年であろうと、見ず知らずの人物を車に乗せて帝都まで送り届けるなんて親切なこと、赤司がするはずないのである。
がっつり下心があるのに気付かないのは、今のところテツヤだけだ。
赤司がひょっこり連れてきた少年は、持ち前の愛らしさで帝光苑だけでなく赤司邸でもあっという間に人気になったが、だからこそ彼らは心配をしている。
何がって、その気になった赤司様に無垢なテツヤがペロリと美味しく頂かれてしまうことがである。
今のところは愛でているだけのようだが、赤司がもしテツヤに対して良からぬことをしようとしても彼らは助けることなどできない。
赤司に逆らう=人生終了だということは、従業員一同嫌というほど知っている。
赤司と一緒にいるテツヤを見るたびに、ごめんねテッちゃん、どうか征十郎様の魔の手から逃げて、超逃げて、と心の中で手を合わせているが、それが彼らの精一杯なので許してもらいたい。

何も知らないテツヤは湯上りの極上な気分のまま自分の部屋へと戻った。
室内は豪奢で相変わらず気後れするが、初日に赤司に「このような豪華な部屋は自分に相応しくないから変えてくれ」と言ったところ、

「テツヤは洋室より和室の方が好きなのかい? それなら明日にでも改修させよう。家具は全部処分してもらって、漆塗りの文机と螺鈿細工の道具入れをいくつか用意させようか。あぁ、花器も和室に合わせて古備前の壷とかの方が良いかな。陶器が良ければ3百年ほど前の古伊万里があったはずだからそれを用意させて。後は屏風は…流石に必要ないか。となると掛け軸か。確か狩野派の傑作があったからそれを飾ろう。そうそう、寝具の発注もしないとだな。職人に最高級の羽毛布団を用意させて……」

とか斜め上にぶっ飛んだことを言われてしまったので大人しく使わせてもらっている。
従業員用の部屋で良いとはとてもじゃないが言えなかった。
散財、駄目、絶対と最初に言っておいたのに、何かの呪文のように思われてしまったのでどうしたものか。
金持ちと一般市民の感覚はずれていると言うけれど、これはずれ過ぎだろうと嘆くテツヤは決して間違っていない。
流石キセキの最後の1人と妙な感心をするテツヤは、赤司の財力は残りのキセキが束になっても叶わないのだという事実を知らない。
意外とテツヤが知らないことは多いようだ。
だが、知らないというのは幸せなこともある。

例えば、寝台に入るなりぐっすりと眠ってしまったテツヤは、屋敷の塀をよじ登ろうとしているイケメンがいることを知らないし、裏手で国内屈指の剣術を誇る陸軍大佐が獰猛な番犬に追いかけられていることを知らない。
(自称)主治医の権威を振りかざして門を開けるように叫ぶ眼鏡の医師の存在も知らなければ、正門の前で警備員の頭を鷲掴みにしながら「ねぇ、おねがい」と頼んでいるんだか脅しているんだか分からないお願いをしている大きな妖精さんがいることも知らないのだ。

あぁ、知らないって本当に幸せなことなんですねと、後日事情を説明してもらったテツヤは遠い目をして呟いた。



  • 13.05.05