目が覚めたらテツヤがいなくなっていた。
それだけでも帝光苑がパニックになるというのに十分過ぎる程だというのに、テツヤがいなくなった――もとい、退職した理由を知った遊女達の嘆きは深かった。
ある遊女は「1日1回はあの笑顔を見ないと元気が出ないのに」とさめざめと泣き、またある遊女は「テッちゃんを着せ替えできないなんて、それどんな罰ゲーム」と届いたばかりの振袖(テツヤ仕様)を胸に抱いておいおいと咽び泣いた。
またまたある遊女は「成程、テツくんがいなくなったのは大ちゃんたちが原因なのね。よろしい、ならば懲罰だ」と持てる情報をフル活用してでもキセキに仕置きをするための作戦を練り始めた。
更には多くの遊女が「私達からテッちゃんを奪ったキセキ、許すまじ」と嘆きよりも怒りを優先させた。
そんな中、何も知らない黄瀬が姿を現わしたものだから、帝光苑は蜂の巣をつついたような騒ぎになったのは当然と言えよう。
「さて、黄瀬様。そこにお座りになってくださいまし」
「えぇ、えぇ。積もるお話もございますから、どうぞお座りになってくださいまし」
「え? えぇ?! だって、ここ床…………」
「あら、十露盤(そろばん)板の上がようございましたか。それは私どももうっかり」
「いやいやいや、十露盤板って紛れもない拷問道具っスよね?!」
「まぁ、では針椅子を……」
「さらにえげつない拷問道具じゃないっスか?! ちょっと一体どういうことなんスか?!」
「そうされる理由が黄瀬様にあると、わたくし共が判断したからでございますが何か?」
「酷っ! 俺、何もしてないっスよ!!」
きゃんきゃんと噛みつけば、冷ややかな視線が突き刺さってきた。
何これ怖いと思い、黄瀬は大人しく正座した。
せめて座布団を欲しいと思ったが、とてもじゃないが言えない。
大人しく正座した黄瀬に、遊女はひとまず満足したようだった。
だが、口撃の手は緩めない。
本気で怒った女性というものは容赦がない。
的確に相手の弱点を抉り、逃げ道など残さないように包囲して徹底的に叩きのめす。
日頃温厚だと言われている相手であればあるほど、そのギャップは激しいのだ。
「そうですね。正確には黄瀬様だけでなく、青峰様、緑間様、紫原様の4名全員の責任ですものね」
「安心してくださいまし。残りの御三方にもきっちり反省していただきますから」
「青峰様にはさつきが既に遣いを出しておりますし、全員揃うのも時間の問題ですわね」
おほほほと優雅に口元を覆って笑う姿は正に淑女そのもの。
艶やかで美しく、帝光苑を彩る華に相応しいが、同時に背筋を冷ややかな汗が流れ落ちてくるほどの威圧感と恐怖を与えてくれるのだが。
理由の分からない黄瀬としては一刻も早く解放してもらえるのを待つばかりだ。女性、怖い。
「ところで黄瀬様。わたくし共は学がないものですから、貴方様が当店を利用される際の『約定』を存じ上げておりませんでしたが、勿論黄瀬様は御存じでいらっしゃいますわね」
「『約定』…?」
「えぇ、赤司様がお決めになったという、いくつかの約定でございます」
言われてようやく黄瀬の顔色が変わった。
それはもう見事に青から白へと変貌を遂げたのだ。
そしてそれは内容を知っているという証拠に他ならない。
遊女の目がすぅっと細められた。
「せめてもの温情として選ばせて差し上げます。水責めと火責めとどちらがよろしいですか。美しくはございませんけれど、ご要望とあれば牛裂きでもようございますよ」
「い…いやいやいやいや、ちょっと待つっス! 冤罪っス!!」
「お黙りなさい!! わたくし達からテッちゃんを奪った罪、万死に値します!!」
「理不尽!! というか黒子っち、いないんスか?!」
「まぁ、白々しい。どなた様のせいでそうなったと思っていらっしゃるのです」
「俺、知らないっスよ! 赤司っちがそんな約定を交わしてたなんて!! 確かにあまり通い過ぎるなとは言われてたっスけど」
そう、黄瀬が遊郭に通うようになった時、確かに赤司からいくつか約束事を言い渡されてはいた。
だがそれは決して黄瀬の遊郭通いを規制するようなものではなかったはず。
一度目を通しただけだから全文を覚えているかと言われれば微妙だが、それでも記憶に残っている限り「頻繁に通ってはいけない」という項目はなかったと記憶している。
書いてあった項目は大きく3つ。
・下層の遊郭には入らないこと
・遊女を孕ませないこと
・家名を汚さないこと
の3つである。
テツヤ会いたさに帝光苑に通っている現状から考えても、上記の約定に違反しているとは思えない。
唯一気になるところと言えば、最後の項目くらいか。
遊郭に数日居続ける程溺れている妓女がいるということは確かに醜聞になるかもしれない。
だが、それならばまず黄瀬本人に警告が入るべきだ。
何も言わないでテツヤを解雇させるなど、いくら『赤司』であろうと横暴が過ぎる。
赤司はキセキの監督役のような人物だ。
特別と言われるキセキの中でも比べものにならないほどの権力と頭脳と財力を持つ、雲の上の存在なのだ。
黄瀬自身は赤司と遠くない縁があるものの、彼と直接会って話をした回数は驚く程少ない。
これまで黄瀬や他のキセキがどのような遊興に耽ろうとも一切関心を持たなかった赤司が、どうして今になって動いたか黄瀬にはわからない。
だがテツヤを奪われたとなればこのままにしておくわけにはいかないだろう。
黄瀬にとって赤司という人物はどういう行動を取るかわからないため、テツヤの身柄が激しく心配だ。
「赤司っちが動いたとなると……」
残念ながら黄瀬1人では荷が重すぎる。
レベル1の勇者が竹のやりと鍋のふた装備でラスボスに挑むようなものだ。
城の門番に一撃で葬られる程度の武力や装備ではテツヤ奪還など夢のまた夢。
レベル上げには時間がかかりすぎる。
せめて回復系と攻撃系の仲間を連れていかなくてはと、内心かなりテンパっている思考をぐるぐると回している黄瀬の耳に、荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえた。
帝光苑は超一流の遊郭だ。
どのような非常時であろうと常に優雅に美しく。
男女問わず徹底されている礼儀作法を破る従業員はいない。
となれば考えれられる可能性はただ1つ。
「テツが攫われたって?!」
「テツヤはどこに行ったのだよ?!」
「黒ちんどこー?」
「良し、パーティー編制完成っス!!」
飛び込んできたカラフルな連中を見て、黄瀬は勝ち誇ったようにそう叫んだ。
だが黄瀬は失念していた。
黄瀬が赴くのは魔王の城ではなく、『赤司征十郎』の住居である。
そして対峙するのはRPGのラスボスなど可愛く思えてしまう本物のラスボスであり、たとえ黄瀬が100人束になろうと到底勝てる相手ではないということを。
そしてその結果がどうなるか、それこそ火を見るよりも明らかだったのだが、とりあえず意気込んでいる黄瀬のテンションを下げるようなことは言わない方が良いだろうと誰もが口をつぐんでしまったために、彼が気づくのはもう少し先である。
◇◆◇ ◇◆◇
さて一方、ラスボスに誘拐されたお姫様――もとい、帝光苑退職を余儀なくされて行く当てのなかったテツヤと言えば、赤司が所有する豪邸の一室で爽やかな朝を迎えていた。
純和風建築の豪奢な建物は、下手したら帝光苑と同等の敷地があるのではないかと思わせる程である。
ひと昔前の時代に流行った武家屋敷を思わせる建物は、おそらく百人単位で人が余裕で暮らせる広さを有しているだろう。
だが、話を聞く限りこの豪邸に住んでいるのは家主である赤司と腹心の部下数名だけだという。
更に部下は離れに居を構えているため母屋に住んでいるのは赤司ただ1人だけだ。
その母屋の南側の一室をテツヤは与えられた。
客間の1つだというそこは、まるで帝光苑の特別室と同じかそれ以上の豪奢さだった。
あの部屋に慣れていて本当に良かった。
そうでなければいくら深夜で睡魔も程よく襲ってきていた状況であったとしても、緊張して眠れなかっただろう。
天蓋付のベッドでぐっすり眠ること数時間。
小鳥の囀りと共にすっきりと目を覚ましたテツヤは、いつの間にか用意されてあった服に着替えて部屋を後にした。
とりあえず連れてこられたので大人しく泊まらせてもらったが、いつまでもここに厄介になるわけにはいかない。
何しろ彼はテツヤから職と住処を奪った人物なのだ。
どうして彼の厚意に甘えられるだろうか。
用意された服は仕立てが良いのかテツヤのサイズぴったりだった。
赤司征十郎という人物はどこまで用意周到なんだろう。
廊下に出たテツヤは改めてこの屋敷の広大さを見せつけられた。
玄関もしくは家主がいるであろう部屋を探しているのだが、入り組んでいる回廊を通っている間に自分がどこから来てどこに行こうとしているのかすっかりわからなくなったのだ。
有体に言えば迷子になったのである。
観光地の城でもあるまいし、個人所有の家の中で迷子とか本当に常識外れも良いところだ。
まぁ古風なこの建物の特色は、忍び避けとか不審者の侵入対策という自衛の意味も兼ねているので、初めて来たテツヤが迷子になるのも当然なのだが、田舎育ちのテツヤがそのような情報を知るわけもない。
大きな屋敷と言えば帝光苑しか知らないのだ。
勿論観光名所など廻ったこともなければ、武家屋敷にお邪魔したこともない。
ぐるぐると同じ場所を回っているようにしか思えない変わり映えしない景色に、もういっそ庭に出て塀を飛び越えて脱走してやろうかと思ったテツヤは悪くない。
ただし実行に移そうとするのはあまりよろしくなかった。
裸足のまま中庭に下りて、大きな枝を広げた松の木によじ登ろうとしていたテツヤは、ようやくその段階になって家人に発見された。
「何をなさっておいでです?」
明らかに不思議な生き物を見る目で見られて、テツヤは居心地悪そうに枝に伸ばしていた手を下した。
迷子になっている旨を伝え、帰る前に家主に挨拶をしたいと告げれば、家人は快く案内してくれた。
テツヤが散々歩いた回廊をほんの少し進んだ先にある部屋の前で家人は恭しく一礼をして去って行った。
どこも同じ扉に見えるというのに、長年務めていると分かるものなんだなぁと今更なことを感心しつつ、テツヤは目の前の襖に向かって声をかけた。
応答があったのでゆっくりと襖を開く。
十畳ほどの広さの部屋で、和服姿の赤司が机に向かって書類を眺めていたが、テツヤを認めてふわりと笑みを浮かべた。
「おはよう、テツヤ。この家は入り組んでいるから迷子にならなかったかい?」
「おはようございます。迷子にはつい先ほどまでなってましたよ。家人さんに助けて連れてきてもらいました」
「それは悪いことをしたね。起こすにはまだ少し早いと思って遠慮したんだが、明日からテツヤには世話役をつけるとしよう」
「いえ、いいです。僕そろそろお暇しないといけないので――」
「そうだ、そろそろお腹が空いただろう。食事の用意もできているはずだ。いつもは部屋に運ばせるんだが、せっかく家族が増えるんだから食堂に行こうか」
「ですから――」
「うちのシェフの料理は中々いけるんだよ。テツヤにはパンケーキを用意させたんだが」
「折角ですからご相伴に預かりましょう」
あっさりと前言を翻してテツヤは赤司に促されるまま食堂へと向かった。
優柔不断と言うなかれ。
甘いものを前にテツヤは哀しいほど無力なのだ。
隣を歩くテツヤを見て赤司はくすりと笑う。
何だろうと首を傾げるテツヤの頭を赤司は優しく撫でた。
「その服は僕が昔来ていたものなんだが、とても良く似合っているね」
「そうですか。こんなに良い服を着たことはあまりないのでよくわかりません」
「似合っているよ。テツヤはどんな格好も可愛いね」
「はぁ、ありがとうございます」
年頃の少年に向かって可愛いと言われても正直嬉しくはないが、赤司の言葉に嘘は感じられない。
勧められるままに食堂に向かい朝食をご馳走になった。
赤司が言うだけあってシェフが作ったパンケーキは絶品だった。
テツヤの食の細さも知っているのだろう、小ぶりのパンケーキと数種類のソースはテツヤの胃袋を圧迫するほどの量でもなく、デザートのジェラートまで美味しく頂けることができた。
食事が終わりさて帰ろうと思ったテツヤだが、何故かそのまま赤司の部屋へと連行され、何故か赤司の仕事の補佐をすることになり、その際に発覚した手際の良さから何故だか赤司の秘書見習いとして働くことが決定していたのだが、本当に何故だろう。
そしてそれから数日後。
ようやくアポイントメントが取れた黄瀬が単身で赤司の家に殴り込み――もとい、黒子解雇の直談判にやってきた時には、何だか楽しそうに囲碁に興じる赤司とテツヤの姿があり、「赤司っち狡いっス!!」と叫んだ黄瀬がそのまま赤司邸に居候を決定することになる。
そして赤司邸にテツヤがいるということを聞きつけた他のキセキも我先にと住み着くのだが、それはもうはっきり言って赤司の計画通りなのである。
- 13.04.24