帝光苑は客層の良い妓楼として遊郭でもトップクラスを誇るが、だからといって問題が起こらないわけではない。
非常に珍しい頻度ではあるが、客がトラブルを巻き起こすこともある。
主な原因はやはり酒で、深酒が過ぎた客が贔屓の遊女を買おうとやってきて先約にキレるという事態が最も多い。
次いで多いのが冷やかしの客による金銭トラブル。
帝都一と呼ばれた遊郭がどのようなものか見てみようと意気込んでやってきたは良いものの、相場の数十倍はする額の請求を出された時に「たかが女1人買うのにそんな馬鹿みたいな金出せるか」と開き直って支払拒否をするのである。
勿論この手の客に容赦などない。
それは帝光苑のみならず遊郭全ての総意であり、そのような言いがかりを許していたら商売あがったりになってしまうため、一切の温情など見せないのが基本である。
まず、帝光苑では仕事の少ない用心棒が姿を見せる。
強面の屈強な体格のお兄さんに囲まれた時点で客の戦意は喪失するが、こういう輩は懲りずに二度三度と同じことを繰り返す危険があるので徹底的に絞り上げる。
身ぐるみを剥ぎ、身元を晒し、そうして警察が引き取りに来るまで正門前に転がしておく場合もあれば、簀巻きにして屋根から吊るしておく場合もある。
ちなみに簀巻きにされる日としては風の強い日がおススメである。
少し動けばぷらーんと左右に振られ、頭上では全体重を支えている綱はミシミシと繊維が軋む音を立てる。
落ちたら命の保証などないこの状況では、どのような泥酔者であろうとも酔いなど一瞬で醒める、とんでもなく恐怖感を煽る仕置きであるため狼藉者の反省としては最適なのだ。
大抵簀巻きにされた男はその後絶対に近寄らないので再犯防止にもなる。
他にも店内で客同士のトラブルというのも多くはないがゼロではない。
まぁどのような紳士であれ人格者であれ、酒と女が絡めば男なんて愚かものよねという事態は、酒と女を扱う帝光苑にとっても無縁ではないということだ。
そんな帝光苑で、今まさに騒動が起きていた。
男が日本刀片手に乗り込んできたのだ。
酒に酔っているようにも見えるし、何かの薬物中毒のようにも見える。
少なくとも理性は欠片も残っていないようだと冷静に判断するのは、腕を買われて帝光苑の用心棒として働いている男だ。
悪いことに剣術の覚えがあるのだろう、日本刀を振り回す技量は素人が見ても鋭く速い。
用心棒には抜刀の許可が下りているとはいえ、店内で刃傷沙汰にするのはあまり喜ばしくない。
万が一他の客に被害が及んだら大変だし、暴れた拍子に調度品の1つや2つ破損でもしようものなら、たとえ仕事中の不幸な事故だったとしても支配人は容赦なく損害分を給料から差し引くだろう。
壷1つ数百万は下らないため、それだけは絶対に避けなければならない。
そして運が悪いことにテツヤが人質に取られた。
数か月ぶりのトラブルだったのが原因か、それとも就寝時間が近くて睡魔と戦っていたのが原因か、とにかく騒動の中にふらぁっとやってきたテツヤがあっさりと暴漢の腕に捕われたのだ。
その瞬間、それまで呑気に見物していた客たちが阿鼻叫喚の叫びをあげた。
テツヤと言えば帝光苑に通う客で知らない人はいないと言われるほどの有名人。
遊女とキセキの心をがっつり掴んでいる彼は、帝光苑に通う客にとっても癒しの存在である。
細く小柄なテツヤはどう見ても武術に長けているようにも見えない。
何でこんな場所にやってくるんだと誰もが心の中で叫んだ。
普段のテツヤならこの時間はキセキの接客中であるため特別室から出てくることはほとんどない。
今日は本当に珍しくキセキの客が誰1人して来ていなかったのだが、一般の客がそこまで知るわけがない。
「誰か、テッちゃんを助けに行けよ」
「おい、押すな。俺は自慢じゃないが武術なんてからっきしなんだぞ」
「というか下手に刺激させるなよ。相手が興奮してテッちゃんの珠の肌に傷でもついたらどうするんだ」
「よし、頭を撃ち抜け」
「警察や軍人じゃあるまいし、誰が銃なんて持ってんだよ」
「持ってる時点で逮捕だろうが」
徐々に物騒なことになりつつある台詞を吐きながらも、従業員及び一般客がどうにかしてテツヤを救おうと目の前にいる男を盾にじりじりと包囲を狭めようとしてる。
だが完全にへっぴり腰である。
荒事に無縁の一般客としては当然の反応だろう。
そして、同じく荒事には無関係なテツヤは、男の腕に拘束されながらも相変わらずどこか感情の読めない顔で周囲と男を観察していた。
助けようとしてくれるのは嬉しい。
だけど、無理だけはしないでくださいねと心の中で囁きながら、テツヤはじり、と足を動かした。
反動で倒れないように足を広げ、細い腕を男に気付かれないように動かす。
男はテツヤを無害な雑用係と思っているようだ。
この時点で男は大きな失敗をしている。
ほんの少し帝光苑について情報を仕入れてきたならば、この一見無害でひ弱な少年の細腕から繰り出される破壊力抜群の掌底について教えてもらえただろうに。
ちなみに一般客が騒いでいるのは、予想外の事態にテツヤの得意技を綺麗すっきり忘れているからである。
テツヤは小さく息をついて目の前の男を見上げた。
水色の瞳がすぅっと細められる。
一部の客に大人気の「女王様の眼差し」だ。
テツヤの右の拳が男の鳩尾に繰り出された。
「お客様、店内で揉め事は困ります」
ぐふぉっ、と情けない悲鳴を上げて男が床に沈んだ。
テツヤの足元に蹲るように沈み込んだ男を邪魔だと言わんばかりに蹴り倒して、テツヤは乱れた襟を直した。
「よくも人の寝入りを邪魔してくれやがりましたね。安眠妨害なんですよ」
ぷんすかと怒っているテツヤというのは結構珍しい。
容赦のない攻撃と言いどうしたんだと思ったのは、これまた一般の客ばかりだ。
事情を把握している従業員が慌ててテツヤの下に駆け寄った。
「テッちゃん、お疲れ様。でも、いくら眠いからって騒動に飛び込んだらダメだよ。危ないからね」
「だって、僕さっきまで寝てたんですよ。浪漫亭のプリンに埋もれるというすっごく幸せな夢を見てたのに、この男が大きな声出すんで目が覚めちゃったじゃないですか。僕の浪漫亭のプリンがっ。高さ1メートルの夢のようなプリンがっ」
「わかったわかった。明日買ってきてあげるから」
「ありがとうございます。伊月さん、大好きです」
「俺もテッちゃん大好きだから、早く寝なさい」
「そうします。皆さん、お騒がせして申し訳ありませんでした」
そう言うなりテツヤは客に向かってぺこりと一礼すると、そのまま従業員に誘導されるまま奥へと歩いていこうとしたのだが――。
「テツヤ」
抗いがたい声がテツヤを背後から呼び止めた。
馴染みの薄い声だが、まったく聞いたことがないわけではない。
柔らかいイントネーションが自分の名を呼ぶのは、数か月ぶりだ。
テツヤが振り向いた先にいるのは、富裕層が集まる帝光苑でも一際目立つ赤い髪。
「赤司さん」
「久しぶりだね、テツヤ」
「その節は大変お世話になりました。お陰で凄く助かりました」
「それは何より」
色違いのオッドアイが優しく細められて、テツヤとの再会を喜ぶ。
「赤司」という声に従業員及び周囲がざわりとどよめいたが、そんなものテツヤの気にはならない。
何しろ彼はテツヤが野宿するかどうかという時に手を差し伸べてくれた親切な人である。
しかも見ず知らずのテツヤを帝光苑まで送り届けてくれたのだ。何の利益もないというのに。
テツヤの好感度がうなぎ上りになるのは当然だろう。
「どうしたんですか、赤司さん。こんな時間に」
「野暮だな、テツヤ。深夜に遊郭に来る理由なんて1つしかないだろう」
婀娜っぽく微笑まれてテツヤの頬が朱に染まる。
そうだ。赤司とて成人男子。女が欲しくなる時だってあるだろう。
そして彼が来るならば相応しい店は帝光苑くらいだ。
帝光苑の一流の遊女以外は認めない。
「そ、そうでしたね。えと、じゃあ受付を―――」
客の対応はテツヤの仕事ではない。
その気になれば可能だが、受付の従業員は他にきちんといるのだ。
いくらテツヤが世話になった恩があるからと言って、遊女の采配までは認められていない。
受付係を呼んでこようと身を翻したテツヤの腰を、細く、だが意外と鍛えられた腕がするりと絡め取った。
ふわりと浮遊感を感じたと同時に、テツヤは赤司の腕の中にいた。
ほんの少し薫ってくる香の匂いは今時には珍しい古風な香りで、テツヤは嫌いではなかった。
「赤司、さん?」
「何だい?」
「この腕は…?」
「だって、離したら逃げてしまうだろう」
「別に逃げませんけど…」
くすりと笑ってそう言う赤司に何と返してよいものやらテツヤは視線を彷徨わせる。
すると、顔面蒼白にしている従業員の姿が視界に入った。
あれ、このパターンは何だか身に覚えがあるような気がするぞと思ったテツヤは間違っていない。
「あ、かし…様…?」
「僕の外に『赤司』がいるのかい」
「いえいえいえいえいえいえいえいえ! 滅相もございません!! 今日は誰をご希望で……」
「テツヤ以外に誰がいるというんだい?」
ですよねーと思いながら従業員が渇いた笑いを浮かべた。
ご案内しますと言われて先導しだした従業員の後を赤司は続いていく。
傍らにテツヤを伴って、テツヤにとっては嫌という程見慣れた特別室へと。
「あ、あれ…………」
何だかとっても旗色が悪いような気がするのだけれど、今更逃げることは可能だろうかと考えてすぐにそれは無理だと悟った。
ほんの僅か歩調を緩めただけで気付かれた赤司によって抱え上げられたからだ。
しかもお姫様抱っこ。
最早人生何度目かわからない姫抱きだが、黄瀬や緑間ならまだしも決して大柄とは言えない赤司にも軽くされてしまうのがちょっとだけ悔しい。
それにしても赤司という人物は何者なのだろう。
予約なしにやってきて特別室を使えるということはキセキの客の1人なのは間違いないだろう。
だが、黄瀬や青峰よりも権力があるような気がする。
先程赤司が言ったように『赤司』という名前自体が何か大きな力の象徴のようにも思える。
まぁ、どんな事情があろうとこの状況でテツヤが逃げ切れるわけはないのだが。
そして数分後。
見慣れた特別室に放り込まれたテツヤは赤司の隣に座ったまま目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
赤司の前に座っているのは帝光苑の支配人と副支配人。
普段の彼女達からは想像できないほどに恐縮しきっているのが不思議で仕方ない。
確かにキセキの客は大変な大口顧客だ。
他の客と同じに接するわけにいかないのはテツヤとて承知だが、それにしては畏まり過ぎである。
まるで宮家や皇族と対峙しているようではないか。
赤司は悠然とソファーに座って2人を眺めている。
人に傅かれるのに慣れた人物特有の傲慢さが溢れているが、それが嫌味でないのが赤司という人物らしい。
「さて、僕の言いたいことはわかるかな」
「赤司様……」
「幾度か書簡を送っているんだ。まさか知らぬ存ぜぬを通せると思っているわけではないね」
「それは勿論…」
「キセキが入り浸ることが悪いと言っているわけではない。だが、頻度が問題だ。ここ数か月の彼らの利用状況を知らないわけではないだろう。誰もが最低でも週に1度は来店しているね。涼太に至っては先週はずっとこちらにいたはずだ。遊郭通いを咎めるつもりはないが、巷に彼が遊女に溺れているという醜聞が立つのは褒められたことではないんだ」
「承知しております」
「『この店を利用させる代わりに長居をさせない』。それが最初に定めた約定だったはずだけど、まさか忘れたとは言わないね」
「それは…」
赤司が一言発するたびに支配人から顔色が失っていく。
当然のことながらテツヤには事情が全く呑み込めない。
だが、赤司が支配人に対して不機嫌になっている原因がキセキの頻繁な訪問にあると見て間違いないだろう。
そうすると責任は支配人にあるわけではない。
何度言っても3日と開けずにやってくる彼らが悪いのであり、そもそもの原因はテツヤがいるからだ。
テツヤは慌てて赤司の腕を引っ張った。
「赤司さん、支配人は悪くありません。全部僕のせいです。お怒りは僕が1人で受けますから、支配人を咎めないでください」
「テツヤは優しいね。勿論、君に責任がないとは言わないよ。勝手にやってきて勝手に居続ける涼太たちが悪いのだということもわかっている」
「だったら――」
「だけどね、テツヤ。物には限度というものがあるんだ。彼らが一泊するたびにこの店には莫大な金が入るだろう。それこそ下層の遊郭がひと月かかっても稼げない額を、たった1人のキセキを1日泊めるだけで手に入れることができる。それもたった1人の遊女を使わないで。これはね、遊郭として正しいことではないんだ」
「それは――」
「勿論、彼らは君に会いに来ているだけであって、金を払うのは彼らの自由意思だ。それが2月に1度、せめて月に1度なら黙認することもできたけど、流石にこうも頻繁だとね」
赤司の指がソファーの肘掛を叩いた。
トントンと規則正しく打たれる音が静かな室内に響く。
穏やかな表情柔らかい口調を崩さないというのに、室内の温度がどんどん下がっていくような気がするのは気のせいではないだろう。
テツヤが知る赤司はただひたすら親切な人という印象しかなかったが、こうして新たに見る姿はテツヤが知る誰よりも恐ろしい存在に思える。
何者なのだろう、とテツヤは初めてそんな当然のことを赤司に抱いた。
「だからね、テツヤ。僕はキセキを監督する立場として、この店にある条件を提示したんだ」
「条件…?」
「そう。条件は2つ。『キセキを二度と店に入れないこと』。そしてもう1つ」
色違いの瞳がテツヤを射抜いた。
「『黒子テツヤを解雇し、こちらに差し出すように』」
「っ?!」
「キセキの目当てはテツヤ、君だ。君がこの店にいる以上、涼太や大輝たちは足繁く通うだろう。そうして彼らは『遊女に溺れて財産をつぎ込んでいる愚か者』という醜聞を受けることになる」
「僕が…」
「涼太はああ見えて宮家の出身だ。大輝の祖父は軍でも伝説と呼ばれた人物。真太郎も敦もそれなりに約束された地位にいる。醜聞は歓迎できることではない」
冷ややかな声がテツヤの耳朶を打つ。
まったくもって正論だ。
遊郭での女遊びはほどほどならば剛毅な男だと称賛されるだろう。
だが身代が傾くまで通い詰める男は愚か者である。
キセキの客は頻繁にテツヤに会いに来るが、おそらく今までに使われた金額は信じられないほどの高額になっているのだろう。
来るなと言っても勝手に来るのだから仕方ないと言い張るには、テツヤはまだ幼く世の中の仕組みを知らない。
選ばれた人間、未来ある男の将来を潰す脅威となることを排除しようとする赤司はおそらく正しいのだ。
このままでは帝光苑は潰されるだろう。
おそらく赤司にはそれだけの力がある。
そうなれば多くの従業員や遊女が路頭に迷うことになるし、帝光苑という特別な店が君臨していることで遊郭のパワーバランスが保たれている以上、それは遊郭にとってもよろしくない。
となればテツヤが取る行動は1つしか残されていない。
一度は田舎に戻ろうかと思ったこともあるのだ。
幸い数年は働かずに暮らせるだけの蓄えもある。
テツヤが店を出れば全てが丸く収まるのだとしたら安いものだ。
「僕が、店を辞めます」
「テッちゃん?!」
「黒子くん?!」
赤司の瞳が面白そうに細められた。
「だから店には手出しをしないでください。僕がいなければキセキの方々は帝光苑に来る理由はないはずです」
「――君は聡明だ。僕は君のような正義感の強い子は大好きだよ」
「僕は嫌いです。こんな卑怯なやりかた――っ」
最後に思い切りイグナイトかましても良いだろうかと拳を握りしめた途端、テツヤの身体はぐいと引かれた。
いきなりの行動にバランスを崩して赤司の胸に倒れ込んだテツヤは、そのまま唇を奪われた。
何故にこの展開この状況で口づけになるのかと、テツヤの思考は固まった。
触れるだけの口づけをあっさりと解放し、赤司は硬直しているテツヤを担ぎ上げた。
「ということで、この子貰うから」
テツヤと同様に硬直している支配人と副支配人へそう告げると、赤司は来た時と同じく悠然とテツヤを抱えて帝光苑を後にした。
茫然としたまま車に乗せられたテツヤが正気に戻ったのは車が動き出してから数分後。
下ろせと暴れるテツヤに、赤司の秘書が差し出したのは浪漫亭の蜂蜜プリン。
食べ物に罪はないしと受け取ったテツヤを嬉しそうに眺める赤司に、先程まで見せていた威圧感の片鱗はない。
プリンに舌鼓を打つテツヤを愛しそうに撫でる赤司に、あれ、一体何が起きたんだっけと思うテツヤはきっと間違っていない。
とりあえず、そんな感じでテツヤは唐突に帝光苑から姿を消したのであった。
足取りも軽やかに帝光苑にやってきたキセキがテツヤ退職の報告を聞いて号泣するのはお約束である。
- 13.04.24