太陽が海に沈み、空が夜色の帳に包まれる。
まもなく花街の門が開かれる時刻となり、入口には多くの男性客が集っていた。
花街は広いとは言え、人気の遊女はかなり早い段階で客に呼ばれていってしまうので、どうしても目当ての遊女を買いたいと思う男が急ぎ足に店に向かうのは当然のことだ。
懐には高額でないけれど一晩遊ぶには十分な金子が入っている。
そこそこ位の高い遊女を買えるのではないかと思える金額を手に、男はさてどの店に行こうかと迷う。
先日上京してきた男は花街の仕組みを知らない。
田舎には遊郭らしき場所はなく、せいぜい宿場の飯炊き女くらいしか商売女はいなかったから、花街の豪勢さには驚くばかりだ。
軒を連ねる見世では赤や黄色の飾りが揺れて、燭台の灯りに照らされる女性の美しさは最早幻想的だ。
どこを見ても男が通っていた宿場の女とは比べものにならない美しさで、更にこちらを見つめてにこりと微笑む姿の何と妖艶なことか。
ゆらりと手招きをされただけで吸い寄せられてしまいそうになる程だ。
だが、せっかく来たのだからもっと良い遊女を買いたいと男は思っていた。
それとなく聞いてみたところ、帝都では『帝光苑』という店が一番だということだった。
店も従業員も超一流。
そして当然のことながら女性達の美しさはこの世のものとは思えない程だと言うから、男なら興味が湧かないはずがない。
おそらく一等地に建てられているはずと高台へと足を向け、そうしてそこに燦然と佇む豪奢な建物を発見した。
和洋折衷の外観はどこぞの大使館級の豪華さであり、店の前で客の応対をしている従業員の立ち居振る舞いは自分達とは比べものにならないほど洗練されている。
他の店のように遊女が顔見世を行うこともなく、一見すると遊郭には見えないが、そこが遊郭であることは間違いないというように多くの男が従業員に導かれて中に入っていく。
男もそのまま進もうとして、この店の相場がいくらか知らないことに気が付いた。
これほど豪華な店なのだ。
きっと値段も相当張るに違いないと、応対に出た従業員に値段を聞いてみると、やはりその額は一般的な遊郭の軽く十倍以上。
地元の宿場でも値切って女を買っていた男が奮発して入れるレベルではなく、当然のことながら持っていた路銀全部をはたいても最下層の遊女ですら買えない金額だった。
恐るべし花街と思いながら、自分に見合った店を探そうと高台を降りていく途中で、男は一台の車とすれ違った。
埃一つついていない黒塗りの高級車。
車自体がかなり高価なもので、男の田舎では誰1人として所有している者はいなかったというのに、その車は間違いなく最高級の品質だということがわかる。
車は帝光苑の正面で止まり、後部座席から大柄な男が降りてきた。
従業員が平身低頭の対応をしているということは、帝都でも有数の資産家なのだろうか。
男と並んでも高いと感じた従業員より頭一つほど大きな男は、見た目はぼんやりしているけれど、もしかしたら相当の権力者なのかもしれない。
手に持っているのは大きな箱。
大柄な男に似合わない可愛らしい箱は、もしかしたら目当ての遊女への土産なのだろうか。
「どちらにしろ、俺には入れませんけどね」
帝光苑の暖簾をくぐって中に入っていく後ろ姿を見送って、男は小さくため息をついた。
あぁ、人生ってやっぱり不平等。
そんなことを思いながら、それなりの値段の遊女と楽しい一夜を過ごした男は、別世界と思われた帝光苑でどのようなやり取りが行われていたかなんて、当然のことながら知らないのである。
「黒子くん、ちょっといい?」
そんな風に呼び止められたのは、就業時間も終わり部屋に戻ってまったり本でも読んで過ごそうかと思っていたテツヤだった。
柔らかな声は女性だとすぐに分かる。
帝光苑で女性の地位は高い。
それは経営者が女性ということもあるが、身体を張って働いているのが女性なのだから労わって当然という従業員一同の理念の賜物でもある。
そんなわけでテツヤは足を止めて振り返った。
自分を「黒子」と呼ぶ女性は1人しかいないというのも理由の1つであるが。
そしてその予想は間違っていなかったらしく、そこに立っていたのは支配人だった。
その表情はあまり優れない。
テツヤには甘い支配人だが、彼女がこのように困った表情をしているのを見るのは珍しい。
「どうしましたか?」
「…これ、見覚えある?」
そう言って差し出されたのは一切れのタルト。
芸術的なまでに薄くスライスされた白桃がタルトの上部に綺麗に並んでいる。
見た目にも美味しそうだと思わせるそれは、テツヤの記憶が間違っていなければつい先日ご馳走になった試作品だったはず。
もう商品化されたのかと思ったテツヤはこくりと頷いた。
これは是非買いにいかねばなりますまいと心の中で呟いたのは流石の支配人も気づいていないようだ。
それにしても、このタルトはどうしてここにあるのだろう。
しかもお皿に乗ってご丁寧にフォークまで添えてある。
これに紅茶がついていたら間違いなくいただきますな状況なのだが。
「このタルト、支配人が買ってきたんですか?」
「まさか。私はそんなに暇じゃないの。買いに行かせることはあるけどね」
「ですよね」
あはははと笑いながら告げられた言葉に、それでこそ支配人です流石とテツヤが呟いたのは悪くない。
帝光苑の支配人は敏腕経営者であると同時に、結構な独裁者でもあった。
テツヤは被害に遭ったことないが。
「これはね、あるお客様から渡されたの」
「はぁ」
「『このタルトがわかる人が、俺の探してる人だしぃ』とか言ってたんだけど」
「そうですか」
何だか聞き覚えのある口調なのは気のせいだろうか。
「他の従業員どもは誰も知らなかったのよね。まぁ、お客様が言う外見に該当するのは1人しかいないから聞くまでもなかったんだけど」
「……はぁ」
「ちなみに、このタルト、何だかわかるかしら」
「『Fontaine du solei』というお店の店長さんが作った新作でしょう。僕が食べた時は試作品でしたけど」
「…うん、やっぱり君なんだよね。わかってたけど。わかってたんだけどっ」
「支配人…?」
頭を抱え込んでしまった支配人にテツヤは首を傾げる。
どうでもいいがタルトが皿から落ちてしまいそうなのが気にかかる。
落としたら勿体ないですよと言いたい気持ちはぐっと堪えた。
流石にこの状況には相応しくないので。
何とか皿のギリギリに引っかかっていたタルトは床に落下することなく再び水平に保たれた。
愛する甘味の末路ばかり気にかけていたテツヤは、支配人が何かを覚悟したように自分を見ていることに気付くのが若干遅れた。
すぐに気づいていたら得意のミスディレクションを使ってでも逃げたのにと嘆くには少しだけ時間が経ち過ぎてしまった。
がし、と手首を掴まれる。
女性の小さな手でもがっしりと掴めてしまう細い手首に支配人が一瞬だけ羨ましそうな顔をするが、すぐに表情を経営者のそれに戻して言った。
「黒子くんが先日遭った紫髪の長身の男性はね、キセキの客の1人で紫原様って言うの」
「そうですか」
またもやキセキ。
滅多に会えないレアな人種じゃなかったのかと思うテツヤは間違っていない。
何しろ年に数回しか会えないというキセキの客のうち3人はテツヤの顧客なのだ。
テツヤは遊女ではないというのに言っても聞かない2名と、自称主治医となった1名は、多忙なはずなのに最低でも週に1度はやってきている程。
年に1〜2回しか来なかった設定はどうなっていると詰りたくなっても仕方ないだろう。
そしてそんなキセキ遭遇率がハンパないテツヤなので、残りのキセキにいつ遭っても可笑しくないというのがテツヤの本音である。
まさかあの親切なケーキ屋の店長がキセキだとは思ってもいなかったが。
「彼は先日店で出会った可愛らしい水色の髪の子を探しにやってきたの。自分と彼しか知らないこのタルトを見せればきっと気づいてくれるって言って、何故か私にこのケーキを持たせてね。まるでシンデレラみたいね羨ましいわ」
「し、支配人…。顔怖いです」
「やかましい。ということで、黒子君は特別室に行ってらっしゃい。あ、勿論他のキセキの方同様に手だけは出さないように言ってあるけど、何かされそうになったら殴ってでも蹴ってでも噛みついてでもいいから逃げてきなさいよ。紫原様に手を出されたら黒子くん壊れちゃうわ」
何だか最後にとっても不穏な言葉を聞かされたような気がするが、テツヤはそれを気のせいだと脳内からさくっと消去して、支配人に言われるままに特別室へと向かった。
先日買った本をようやく読めるかと思ったのにと思えば残念だが、しょせんは従業員。
雇用主である支配人の言葉にテツヤは逆らえない。
だが、先日の美味しいケーキの製作者に会えるのだと思いながら特別室へ向かうテツヤの足取りは若干軽かった。
すっかり見慣れてしまった特別室の扉を前に、テツヤは小さくため息をついた。
慣れてしまったと思う自分が嫌だ。
と言っても週の半ばはこの特別室に泊まり込んでいるような気がするので、見慣れたという以外にどう言えば良いというのか。
それにしてもとテツヤは思う。
キセキの客は毎回やってきてはテツヤを指名しているが、女性を買わなくて良いのだろうか。
いや、彼らは見た目も財力も申し分ないから遊郭でなくても女性に不自由したことがないから良いのだろうか。
それにしても、何で彼らは揃ってテツヤを指名するのか、解せぬ。
まぁ聞いたところでまともな返答が返ってこないので問い詰めるのは諦めている。
以前、黄瀬に理由を訊いてみた。
「そんなの黒子っちに傍にいてほしいからっス」
と笑顔で告げられた。
その後、青峰に訊いてみた。
「テツと一緒に寝るの、気持ちいーんだよな。細いけど抱き心地いいし、何より良い匂いがするんだ」
軽いセクハラが混じってた。
最後、緑間にも訊いてみた。
「おは朝は絶対なのだよ。…別にお前の体調が気になるというわけではないからな」
ツンデレいただきました。
緑間に関しては、テツヤの体調が微妙に悪い時に来てくれてるので正直助かっている。
では、今この扉の向こうにいる男性は、何故テツヤを指名したのだろう。
そう思いながら開いた扉の先にいたのは、やはり先日お世話になった背の高い男性。
見上げるほどの長身だが、ソファーに凭れて座っているためテツヤの首は痛くならない。
「あー、やっぱり黒ちんここだったぁ」
おっとりとした口調でテツヤを見るなりそう言う彼は、先日と同じく自然体だった。
黄瀬や青峰、緑間といったキセキと呼ばれる人が持つ独特の存在感はない。
勿論その体格のせいで威圧感はあるし、一般人と同じかと聞かれれば否としか言えないのだが、少なくともつい先日甘味について熱く語った相手であるため、「甘味仲間」という先入観しかテツヤにはなかった。
「先日ぶりですね、紫原くん。君がキセキのお客様だなんて知らなかったのでびっくりしました。その節は無礼な態度を取ってしまって申し訳ありません」
「いいのいいの。ぶつかった俺が悪いんだし〜。それにキセキって呼ばれるのも何でかわからないし、俺は俺だから今までと同じに話してくれるといいな」
「そう言ってもらえると助かります。何しろ、田舎から出てきてまだ日が浅いので、どこでボロが出るかわからないんですよね」
「そうそう。普通でいいし」
そう言って照れたようにはにかむテツヤに、紫原がおっとりと笑う。
紫原は知らない。
テツヤは一般の客よりキセキに対しての対応の方が乱暴だということを。
「それで。今日僕を指名した理由って何ですか? 知っての通り僕は遊女じゃないので、君を愉しませることはできないんですけど」
「ん〜、女は面倒だからいらないし。黒ちんと一緒にお菓子食べてる方が楽しいから」
「えと、それだけのために、ここを借りたんですか?」
「そうだけど?」
忘れてはいけない。
帝光苑で遊女を買うのは時間単位であっても目玉が飛び出るほど高額なのだ。
一晩買うとなれば中流家庭では家計が傾き、ひと月通いつめれば大店の身代すら傾くと言われるほどの超がつく高級店である。
特別室の利用料金を見た者は、郊外に一軒家を買って愛人を囲った方が安いと断言するほどであり、実際この部屋を利用する者をテツヤはキセキ以外知らない。
彼らの金銭感覚はどうなってるんだと言いたいが、従業員であるテツヤにとってそんなことを言ったら支配人に怒られるから絶対に言わないが。
実際言ったところで「何がいけないのか?」と不思議そうな顔をされたという現実がある。
「…まぁ、いいです。それで、今日はお菓子を食べに来たということでよいですか?」
「ん〜。正確には、黒ちんにまた試食してもらいたくて」
「試食? この間の白桃のタルトは絶品でしたよ」
「あれはもう商品化したからいいの。次はこれ」
「こ、これは……っ!」
紫原が差し出した箱の中には、季節の果物をふんだんに使用したタルトと、薄くスライスしたレモンが飾られているタルト、そして生クリームに覆われたシンプルなタルトが入っていた。
「どれもそこそこの美味しさなんだけど、何かが足りないんだよね。部下はこれでいいって言うけど俺としてはちょっと不満なので、黒ちんの意見が聞きたいの〜」
「…僕でいいんですか? 僕、専門的なことは全然わかりませんよ?」
「だって、黒ちんの味覚って確かだし」
言いながらタルトを一切れフォークで刺し、テツヤの口の中に放り込む。
舌先に転がる果物の甘みを、シロップに加えられたレモンの酸味が引き立ててとても美味しい。
タルトのさくさくとした食感が加われば、これはもう絶品としか言えないだろう。
「美味しいですよ。普通に」
「普通じゃ困るんだよね〜。一応『帝都一』の看板掲げてるしぃ。で、どう?」
「果物は旬のものを使ってますし、果物本来の甘さとシロップの甘酸っぱさも丁度良いと思います。タルトの生地もさくさくしていて食感も良いですし…。難を言えばチーズクリームより普通にカスタードでも良いのではないでしょうか」
「ふ〜ん、じゃあこれは?」
今度はレモンのタルトが一切れ放り込まれた。
こちらは先ほどのものより甘さ控えめで、これまた美味しい。
ただ――。
「これは、一切れ食べるとちょっと飽きるかもしれませんね。ナッツなどを上に散らしてアクセントを出してみたらどうでしょう。もしくは間にレモンのジャムを挟むとか」
「ふむふむ。んじゃ、最後にこれ」
「ちょ、むぐ――」
強引に口に押し込まれてテツヤが喉を詰まらせる。
けほけほと咳き込みながら、それでも最後の一つを咀嚼した。
シンプルだからこそ素材の味が試される一品である。
「――生クリームがちょっと甘いですね。女性は好むかもしれませんが、僕はちょっと胸焼け起こすかもです」
「成程ね。さっすが黒ちん」
「いえ、この程度でしたらいつでも大歓迎です。――それに、部屋を取らなくてもお店まで行きますよ?」
試食ということは市場に出ない菓子を思う存分食べられる絶好の機会だし、紫原の作るタルトはどれも素晴らしく美味しい。
紫原が無駄に金を使ってテツヤを買う必要などないように思えるのだが、テツヤの提案を紫原はあっさりと却下した。
「駄目ー。だってさ、店だと黒ちんとゆっくりできないじゃん。ここなら邪魔な店員来ないし、黒ちんと2人でいられるし」
「わわ、紫原くん?!」
テツヤの腕を掴んで抱きしめた紫原は、お気に入りの人形でも抱きしめるようにぎゅぎゅっとテツヤを抱き込んでいる。
良く緑間がする体勢なので特に抵抗はないが、まだ会って2回目の男性にやられるのは若干照れる。
もっとも緑間も会ってその日に抱き枕にされたのだが。
「黒ちんてちっさくてふわふわしてて、抱っこしてると気持ちいいって聞いてたから」
「……ちなみに、どなたから?」
「みどちん」
「みどちん、とは…」
「あれ? 黒ちん知らない? 黒ちんの常連だと思うけど。ツンデレの眼鏡のお医者さん」
「あぁ、緑間くんですか」
成程、だから抱き枕なのかと納得した。
「みどちんってね、あぁ見えて結構独占欲強いんだよ。だから教えてもらえるとは思わなかったんだけどね。何でも俺と黒ちんは話が合いそうだからだって」
「確かに、甘味に関しては物凄く話が合うと思います」
「俺もー。だから常連になろうと思って」
「…………は?」
会話のキャッチボールができていないと思うのは気のせいだろうか。
だがテツヤの疑問に答えるつもりがないのか、紫原はそのままテツヤを抱きしめたまま寝台に寝転がった。
「むっ、紫原くん?!」
「おやすみ〜」
「え? ちょ、僕まで、えぇぇ?!」
一瞬で背中から寝息が聞こえてきてテツヤは逃れようと暴れてみるものの、がっしりと抱き込まれた身体はびくともしないためあっさりと諦めた。
体格の違いはどうにもできないし、そもそもこの部屋に呼ばれたということは、テツヤは紫原に指名されたのだ。
キセキと呼ばれる彼らが時間単位でテツヤを買うとは思えないので、最低でも朝まではテツヤの所有者は紫原である。
後は眠るだけだったしとテツヤはそのまま瞼を閉じた。
背中に体温を感じて眠るのも慣れたなぁと思っているテツヤは、自分のその感覚が男としてどうなんだということには幸いなことにまだ気づいてはいなかった。
まぁ、気づいたとして何が変わるというわけでもないのは知らない方が良いかもしれない。
そしてテツヤに莫大な資産を持つ顧客がまた1人追加されたのである。
- 13.03.25