それはある日のこと。
連日のように通い詰めるキセキの連中にぶち切れたテツヤは、「貴方たちそんなに金と暇を持て余しているのならボランティアでもしてきなさい」と遊郭から叩き出し、かれこれ2か月ぶりの休暇を満喫していた。
「やっぱり人間たまには外に出ないとですよね。お天道さまって素晴らしい」
基本的に引きこもりだったテツヤだが、自主的に外出しないのと外出さえてもらえないのでは気分が違う。
たまには散歩だってしたいし買い物だってしたい。
何よりも近江屋の杏仁豆腐が食べたいです、とテツヤは彼らが戻ってこないうちに帝光苑からの逃亡を図ったのである。
勿論夕刻までには戻るつもりでいる。
営業時間までに戻らないと客としてやってきたキセキ連中がウザ――待ちぼうけを喰らうことになるので申し訳ない。主に従業員にかかる心労が。
だがしかし、そんな営業時間までまだ8時間もある。
遊郭は夜の仕事で、どれほど早い店であろうと開店は18時が決まりである。
それ以前の客は皆無ではないが(キセキのように連泊ということだって多い)、基本的には18時前の営業は禁止なのだ。
今はまだ10時。
近江屋は11時開店なのでどこかで時間を潰さなければいけない。
食が細いテツヤは他の店で腹ごなしという感覚がない。
別の店で買い食いをすればお腹がいっぱいになって杏仁豆腐が食べられなくなってしまうからだ。
そのため食い意地は人一倍張っているというのに一向に太る気配がない。
まぁ肉まん1個で6時間は満腹になっていられるほど燃費が良い身体なので、当然と言えば当然だろう。
ちまちまと間食しているのも足りない栄養を補うために必要なのだ。
主に菓子が消費されているのだけれど。
菓子では栄養が取れないのだよとテツヤに栄養満点高級松坂牛のビーフシチューを用意した緑間は、頑張るけれど一向に食が進まないどころか確実に青くなっていく顔色の変化に無理強いは危険と判断して、それ以来テツヤが食べたいものを食べたい時に食べればいという結論に落ち着いた。
医師としてどうなんだそれと思ったが、食が細いだけで病気ではないこと、自発的に食事を摂れること、好き嫌いがないことなどから栄養失調に陥る危険は少ないと診断した結果である。
成長に影響が与えそうだがテツヤは小さくても良し、むしろ腕の中にすっぽり隠れてしまうテツヤまじ天使という持論の下、気づかないふりをした。
まぁ、食が細い子なんて沢山いるし、目に余るようなら点滴をすればよいだけだ、と帝都一の名医は結論を下した。
仮に入院するような事態になっても自身が経営する病院で完全看護という名の下ずっと一緒にいられるそれ何て天国とか思っているのは秘密だ。
ちなみにテツヤが食べたいと言ったものは、キセキが我先にと買ってきてくれる。
甘やかしとか言ってはいけない。
客と従業員の立場が逆転してるとかも言ってもいけない。
お互いが納得しているのだからそれで良いのだ。
そうして久しぶりの休暇を満喫していたテツヤはある店の前で立ち止った。
和風の店が多いこの界隈にしては珍しい鮮やかな赤と黄色の看板が目に留まる。
何だろうこの店。
香ばしい肉汁の匂いと油の匂いが充満している。
正直肉の匂いはどうでもいいが、その中にかすかに感じる甘い匂いが気になる。
テツヤに搭載されている美味いものセンサーがキュピンと反応した。
本能に導かれるまま店に入ったテツヤは、「よくわからないけど、この甘い匂いがするやつ下さい」と無表情のまま頼んで店員をしばし固まらせた。
だがすぐにテツヤの言葉の意味に気付いたのか、店員がスマイル0円の笑顔で小さな紙の器に入った品物を差し出した。
甘い、甘い香りである。
羊羹ともシュークリームとも饅頭とも違う、蕩けそうな香り。
小さな口でストローに吸い付き、ちゅうと中身を吸い上げれば喉に広がるひんやりとした豊潤なバニラの香り。
神はここにいました。
テツヤは目の前の小さな器を凝視して心の中でそう呟いて天を仰いだ。
瞳はキラキラと輝き、周囲に舞い散る花びらの乱舞(幻覚)。
至高の一品との運命の出会いを果たしたテツヤは今までの影の薄さなどどこへ忘れていってしまったのかと思うほどの輝きっぷりである。
儚い美少年の満面の笑みに、店内にいた女性客がバタバタと倒れた。
次いで男性客が何故だか鼻を押さえて前屈みになったが、目の前の御馳走に夢中なテツヤは気づかない。
行儀よく椅子に座って頬を染めながらちゅうちゅうとシェイクを飲み続ける天使。
あぁ、ここが楽園だったのねと悶える女性たちと、うわぁあの小さなお口でぱくりとされたらもうそれだけで天国という男性客(何を?なんて聞いてはいけない。ここは全年齢)。
店内はまさに楽園と阿鼻叫喚の図が展開されていた。
そうしてテツヤはバニラシェイクSサイズを時間をかけて飲み干し、「美味しかったです、ご馳走様でした」と店員に挨拶して店を出て行った。
何て礼儀正しいのと店員は小さなお客様に笑顔を浮かべたが、彼が去って行った後の店内の惨状を見て、さてどうしたものやらとしばし悩んだのである。
余談だがこの時のテツヤの様子はたまたま通りかかった井筒屋の若旦那が目撃しており、そのまま帝光苑へと駆け込んでさつきに報告した。
彼は帝光苑一の遊女であるさつきの上得意客であると共に、自他共に認める桃黒クラスタであることを知る人は多い。
「テツくんがマジバのバニラシェイクを飲んでご満悦…っ?! いやぁん、テツくん可愛いいぃぃぃぃ!!」
さつきはそう叫んで興奮のあまり倒れた。
そしてさつきの声があまりにも大きかったために他の遊女にも知られることとなり、その後誰もが競ってバニラシェイクを買い与えることになるのだが、それはあと少し先の未来のこと――そう、多分5時間くらい。
- 13.03.15