そうして月日は経ち、白い雪に包まれていた奥州に春の気配が漂い始めた頃、は大社にやってきていた。
あの日身体が軽いと感じたのは嘘ではないが、それまでに蓄積された疲労と穢れのせいで日常生活を送れるまでには至らなかったのだ。
更には弁慶によりの体調が全員にばらされてしまったために、般若の形相で怒った望美と笑顔で圧力をかけてくる重衡によってまたもや絶対安静を言い渡された。
が大丈夫と言っても最早信じてもらえず、医師である弁慶により床上げの許可が下りてようやく一般的な生活が送れるようになったのだが、それはあの日から実に2か月という月日が経過してからのことだった。
その間重衡はおろか望美もの傍から片時も離れようとせず、泰衡や弁慶が苦笑していたのは懐かしい思い出だ。思い出したくないけれど。
ちなみに知盛や将臣、ついでに譲はそれほど驚いていなかったのは当然と言えよう。
ようやく外出の許可が下りたのがつい昨日。
朝になって大社に出かけようと思ったのは、何となく気が向いただけの話だ。
「気持ち良い風」
頬を風が撫でていく。
それはまだ少し冷たさを残していたけれど、冬の凍える空気とは明らかに違う。
長い髪がふわりとなびいていくのを視界の端に捕らえて、は遥か南を眺める。
源氏の軍は撤退した。不可侵の条約を残して。
名代としてやってきたのは梶原景時。
今更どの面下げてというのは実妹である朔の言い分だ。
望美を裏切り、を危険な目に遭わせた張本人。
壇ノ浦の戦いで景時の介入さえなければ全てが終わっていたのだということを思えばどうしても視線はきつくなってしまう。
勿論それはかつて彼を仲間だと信じていた者たち全員の感情だったのかもしれない。
だが彼には彼なりに守りたいものがあったのだろう。
それは詰られているというのにどこか安心した笑顔を浮かべる彼の表情から察することができた。
何かを守るためには何かを切り捨てなければならないことはとて理解している。
二度と奥州の地を踏まないこと、そして九郎達の前に姿を表わさないことを条件に、彼はかつての仲間から許された。
安堵しながらも寂しげな表情を浮かべていた彼を、はどうしてか嫌いになれなかった。
いつか分かり合えれば良い。そう、感じた。
鎌倉では幕府が開かれたという。
それはの知る世界と同じ流れ。
だが決定的に違うものがある。
こちらの世界では平家も藤原家も滅んでいない。
全てはが望んだこと。
女神の力を借りても守りたかったものの多くをはその手で守りきったのだ。
何よりも大切な人の未来も。
「ねえ、重衡さん」
「何ですか、」
隣に視線を向ければいつでも見せてくれる笑顔。
彼が無事でいてくれたことが、何よりも嬉しい。
「そろそろ帰ろうか」
「そうですね。あちらでは今頃桜が満開でしょうか。こちらの桜も心惹かれますが、いい加減戻らないと父上が焦れて迎えに来てしまいそうですね」
「ふふ。ありそうだね。でも、奥州の桜も見てみたいなぁ」
「藤原家とは長い付き合いになるでしょうから、いつでも来られますよ」
平家の財力を支えているのがが栽培に成功した砂糖だということを知った藤原家は、継続的に砂糖を購入することを決めた。
この時代、砂糖は黄金と同じ価値がある。
況してや外国から輸入するとなると法外な金額になることを考えれば、良心的な値段で手に入る砂糖はとても魅力的だ。
将臣が探してきた新しい土地は肥沃で、温暖な気候も相まって他の農業も順調らしい。
このまま独立して他国と貿易でもしていこうと思っていたところだから、奥州からの提案は正直とても助かる。
「でも、やっぱり奥州の桜も見たいな。みんなでお花見したいの」
「お望みのままに、姫君」
婚約者の可愛らしい我儘に、重衡は笑顔で応じる。
はいつでも自分の感情を押し殺すようなところがあったから、こうして他愛ない我儘を言ってくれるのが嬉しくて仕方ない。
況してやそれが自分だけに与えられた特権なのだから、いくらでも叶えようではないか。
彼女が幸せでいる。それこそが自分の望みなのだから。
◇◆◇ ◇◆◇
「お花見?」
の言葉に代表して聞き返したのは望美だ。
というよりが望美に切り出したのだ。
この屋敷内での力関係が良く窺えるというものだろう。
「でも、まだ桜咲いてないよ」
暦の上では春とは言っても外の気候は冬のそれだ。
桜はおろか木々の芽吹きすら感じられない。
見つけた春の訪れと言えば、目の前で天麩羅となっているフキノトウだろうか。
探せば雪割草くらいはあるかもしれないが、それでも花見というには寂しすぎる。
もぐもぐと天麩羅を食しながらそう言えば、が笑った。
「勿論、桜が咲いてから。向こうに帰る前に皆でお花見したいなと思って」
「向こうって元の世界に戻るの?」
「ううん。平家のみんなの所」
は笑顔で否定する。
元の世界にも両親にも愛着はあるし一度は帰りたいとは思うが、再びこちらの世界に戻ってこれるという確信がない以上帰らないほうが無難だと思う。
生まれ育った世界は確かにあちらだが、は己が平家の一員だという自覚がある。
況してや重衡の元へ嫁ぐのだからが帰るべき場所は平家の元でしかない。
「成程。じゃあ、桜が咲いたらお花見しようね。お弁当持ってみんなでぱーっと騒ぎましょう」
「うん、楽しみ」
神子2人で話が纏まれば他の人の意見などないに等しい。
そもそも反対する理由もないし、仮に反対したところで却下されるのが目に見えているのだから。
そうして花見の日程や参加者などを話しながら食事は穏やかに行われた。
そして当日。
新年を迎える頃には奥州の桜は満開になっていた。
一番枝振りの良い桜の下に布を敷き、盛大に花見は執り行われた。
明日になればお互いバラバラの人生を進むことになるだろう。
九郎と弁慶は奥州に残り、を始めとして重衡・知盛・将臣・敦盛は南の島へと向かうことになる。
望美と譲はあちらの世界に帰るのだろうか。
白龍は天に戻るだろうし、朔は尼寺に行くらしい。
リズヴァーンはどうするのだろうと思えば、望美が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「そういえば、ヒノエ君はとうとう来なかったなと思って」
望美を守護する八葉の1人であり熊野水軍の頭領でもあるヒノエは、後から合流すると言っていたのだがいつまで経ってもやってこなかった。
彼には他に守るものがあるのだから仕方ないと思いつつも、それでも何の連絡もないのは気になる。
「仕方ないよ。湛快さんに怒られて自宅謹慎になってるみたいだから」
「湛快さん?」
「ヒノエ君のお父さんで熊野水軍の元頭領さん。豪快で楽しい小父さまなの」
「何で謹慎?」
「それは、平家との約定を勝手に破ったから、かな」
手に持っていた杯に口をつける。
は酒に強くないので甘酒である。
アルコール分はあまりないはずだが身体の中からほかほかと温まっていくような気がする。
ちなみに男性陣の多くは秀衡が差し入れてくれた酒を飲んでいる。
さすがに東北といおうか、とても美味しいらしい。
の言葉に隣で豪快に酒を煽っていた知盛が軽く笑う。
「あの小僧には良い薬だろう」
「一族を治めるという自覚のない半人前では仕方ないですね」
「お前は事情を知らないだろうが」
「どのような事情であれ、の願いを反故にするような当主なら必要ありません」
笑顔で毒舌な重衡はいつものことだ。
特にが絡むと容赦ないし、相手がヒノエなのだから優しくなるはずもない。
事情がわからないのは望美だ。
「えと、どういうこと?」
「実は壇ノ浦の戦いの前に、熊野は中立を貫いてくださいってお願いしたの。ヒノエ君はいなかったから湛快さんに頼んだのだけど、湛快さんは快く了解してくれたのにヒノエ君が勝手に水軍動かしちゃったのよね。だから、多分湛快さんに怒られてるんだと思うの」
「あぁ、それじゃ仕方ないよね」
ヒノエが水軍を率いて来てくれたから源氏は有利になったのだが、望美にとってとの約束を反故にしたことの方が重要らしい。
というか知っていたら水軍に協力は頼まなかっただろう。
望美のベクトルは常にが最優先だ。
「でも、もう終わったことだし、これからは熊野とも貿易をしたいからって手紙を出したから、今頃は解放されていると思うよ」
「それならいつか会う機会あるよね」
あっさりと告げた言葉に、が僅かに首を傾げる。
確かには今後も熊野と交流を持つだろうから会う機会はあるだろうけれど(重衡が許してくれればの話だが)、元の世界に戻る望美はどう頑張っても会えないと思う。
そういえば望美が今後どうするか聞いていなかった。今更だが。
「望美は奥州に残るの?」
「嫌だなぁ。がいないのに奥州に残るわけないじゃない。一緒に行くの」
「一緒にって…私たちと?」
「当然。だってもう離れたくないんだもの」
「…いいの?」
「勿論」
はこちらでの生活が長いから躊躇なくこちらに残ることを決めたが、望美はそれほど期間が経っていないはずだ。
あちらの世界に愛着だってあるはずなのに。
だが望美はあっさりと答える。
望美の最優先順位はいつだってが一番なのだから。
「嬉しい」
きゅ、と抱きついてきたに望美が満開の笑顔を浮かべる。
それを複雑な心境で眺めているのは有川兄弟だ。
どう頑張ってもこの2人の間に入れない。
ついでに言えば一緒に帰れると思っていた譲は更に複雑だ。
譲にとって最優先するのは望美であり、次点でだ。
一緒に行くのはやぶさかではないが、せめて一言くらい言ってほしいと思う。
「あとね、リズ先生も一緒」
言われた台詞に更に落ち込む。
確かに仲の良い師弟関係なのは認めるけれど…。
「あら、やっと一緒になるの」
「うん。ようやくプロポーズしてもらっちゃった」
この一言で譲が灰となったのは言うまでもないだろう。
望美とリズヴァーンとの関係は、と重衡の関係と良く似ている。
ありのままの望美を受け入れてくれる包容力。
どんな時でも望美の傍にいて望美を守ってくれるリズヴァーンに、望美が惹かれないわけがないのだ。
と望美は良く似ているから。
傍で守っていると言えば譲もそうなのだが、彼はやはり押しが弱いのだろう。
何せ望美に気持ちすら認識されていないのだから。
真っ白に燃え尽きてしまった譲を不憫だとは思うが、こればかりはにはどうすることもできない。
一日も早く失恋の傷が癒えれば良いと願うばかりだ。
だが、これからの生活を思えば自然と笑顔になる。
頭上には見事な桜。
それはいつか見た吉野の里を思い出させるが、それよりも更に美しく明るい未来を暗示している。
京を追われた時にはこんな未来が待っているとは思わなかった。
神子として戦った。そのご褒美なのだろうか。
だとしたらこの国の神は何て優しいのだろう。
はらり、と落ちてきた花びらを受けて止める。
盛りを過ぎた桜は、ゆるやかな軌跡でへと降り注いでいる。
うっとりと見上げるの頭には無数の花びら。
それを軽く払いながら、重衡は言う。
「まるで、桜の精のようですね」
いつかと同じ台詞に、は嬉しそうに微笑んだ。
- 11.11.27