近づいてくる唇を止めることができなかったのは、間違いなく自分の落ち度だ。
まさか、と思っていたのだ。
まさか、ただの従者である『銀』が自分に触れてくるとは。
確かに彼はがただ一人、心を許した人物だ。
少なくとも、その身体は。
だが、それを受け入れるかと言われれば答えは1つ。
想いの通じ合わない抱擁を受け入れることはには耐えられない。
「…ゃ…っ…」
それでも相手は細身とは言え鍛えた大人の男性だ。
の抵抗なんてないにも等しい。
拒絶の言葉を許さないとでも言うかのように、銀はの唇を己のそれで塞ぐ。
深く、息すら奪うような口づけはにとって未知のもので、衝撃と困惑にじんわりと涙が浮かんだ。
だがそれすら相手を煽るだけにしかならなかったようで、逃げないようにと腰に回された腕できつく抱きすくめられた。
「姫君…」
低い声は熱を帯びていて、はこんな声を初めて聞いた。
彼は確かに強引なところはあるけれど、それでも一番に考えてくれるのはの気持ちで。
一度としての意に反する行動を取ったことなどなかった。
が寂しい時、不安な時にすぐ気づいてくれるのが彼で。
いつだって優しい笑顔でを安心させてくれるのだ。
――こんな風にの意思すら無視するような行動は、決して取らない。
違う。
は咄嗟にそう感じた。
やはり『彼』は『重衡』ではない。
少なくとも『の愛する重衡』ではないのだ。
抵抗のなくなった身体を彼は更に強く抱きしめる。
感情のすべてをぶつけてくる抱擁は、ただただ虚しかった。
「離れなさい、銀。私に触れることは許しません」
は震える声を悟られないように、そう告げた。
冷静を装った声が、激情に駆られそうになっていた銀の腕を止める。
「姫…君…?」
不思議そうな声。
は涙を拭い銀を見据える。
泰衡の友人であり、清盛が寵愛した平家の末姫という立場を見せつけるように。
「私に触れることが許されているのは、ただ1人だけ。貴方ではありません」
悔しかった。
『彼』じゃないのに、一瞬でも嬉しいと思ってしまった自分が。
もしかしたら記憶が戻ったのでは、と思ってしまった自分が。
そんなことあるはずがないのに。
一瞬の希望が砕けたのはすぐのこと。
『彼』はこんな目で自分を見ない。
こんな風に己の感情だけをぶつけてくるようなことはしない。
同じなのに、違う。
それが凄く悲しかった。
「私は平家の姫。軽々しく触れないでください」
明確な拒絶。
それはおそらく、の人生で一度としてなかっただろう。
傷つけたことがわかるからこそ、去っていく後ろ姿を見ることはできなかった。
力が抜けたように座り込んだの背後に新たな足音。
ゆっくりと歩いてくるその人物は、紫紺の瞳に呆れと憐憫を含んでいた。
「…馬鹿が」
いつもと同じ言葉、なのに表情は痛ましいものを見るようで。
彼らしくなくて、つい笑ってしまった。涙に濡れたままだったけれど。
「だから、言ったんだ。お前は弱い。一人で立っていられないほどに、な」
「…知ってる」
「知っていて気づかないふりをしていただけだろう。耐えられるわけがないんだ。お前が」
「そうだね」
銀を見た時から気づいていた。
彼の存在はを苦しめるだけだと。
死んだと思っていた重衡が生きていたことは純粋に嬉しい。
だが、厳密に言えば『彼』は『重衡』ではなかった。
器は間違いなく重衡のもの。
だけど中身は生まれたての子供というより、別の人格だ。
記憶を失くしたのではない。――奪われたのだ。
魂魄に穢れを植え付けられた彼は、もはや重衡でもなく銀でもなく、生きる『呪』だ。
いずれ消し去らなければならない。他でもないが。
できるわけがない。
愛した男をその手で葬ることができるほど、は強くない。
誰よりも弱く、だからこそ強くあろうとする。
身を捧げることは容易にできるくせに、誰かの血が流れることを極端に嫌う。
正に、神子にするには最適な人材だ。
そうでなくては、この国を統べる女神がわざわざ次元を超えて呼び寄せた挙句に己の神子にしようとなど思うものか。
「覚悟はしてたけど、やっぱりつらいね」
「覚悟など、お前には端から出来てなかったさ」
「そっか…」
自嘲するような笑みを浮かべ、頬を涙で濡らしていくが哀れだ。
彼女を犠牲にするだけの価値がこの世界にあるのか、知盛は前から疑問だった。
常世は美しいものではない。
滅ぶべきものならば、誰が何をしてもいずれ滅ぶ。
それこそたかが小娘一人の力を借りなければ滅ぶような世界なら、さっさと滅んでしまえばいいのだ。
知盛は涙で濡れた頬へと手を伸ばす。
そういえば幾度となくには触れているのに、このように触れたことは今まで一度もなかった。
頬を撫でていた手で彼女の瞳を覆う。
「知盛さん…?」
「夢を見せてやる。たった一夜の、儚い夢だ」
そう言って耳元で小さく囁く。
たった一言。彼女が最も望むであろう言葉を。
真似をするなんて簡単だ。
それだけの時間、知盛は2人を見ていたのだから。
「。私が傍にいますよ」
それは重衡が口癖のように囁いていた言葉。
誰かのために無茶をするを宥めるように、慈しむように。
その言葉の通り、何もかもから守るように彼は常にの傍にいた。
「…重衡さん…っ」
一瞬の硬直の後に縋りついて泣き出した少女を、知盛は優しく抱きしめた。
- 11.02.28