当然と言えば当然のことなのだが、は絶対安静を言い渡された。
起き上がることは許されない。
むしろ起き上がることができない。
何しろ軽く死にかけたのだ。
全身が衰弱していて足腰に力が入らないため、起き上がりたくても物理的に無理なのである。
これで心配が1つ減ったとは将臣の言葉だ。
の脱走癖は誰よりも良く知っているからこその台詞だが、はその言葉に反論するだけの元気はあるが体力がない。
食事は糊のような重湯から始まり、少ししてから三分粥に、そしてようやく先日雑炊になったばかり。
固形物はまだ胃が受け付けないのだ。
食事の支度は譲の仕事である。他人に任せるつもりは欠片もないらしい。
はそれほど好き嫌いがないので何でも美味しく食べるが、そんなに少しでも栄養価の高いものをと頑張る譲の姿はとても楽しそうである。
流石主夫。
望美やに尽くしている姿はこのうえなく幸せそうで、我が弟ながらこんなに家庭的で良いのだろうかと少しだけ心配になる。
「有川君ってクールでストイックで恰好いいよね」とか言って騒いでいた女子生徒に教えてあげたい。
いや、知ったところで譲の態度が変わるとは到底思えないが。
何しろ譲にとっての一番は何を置いても望美であり、同率で、次に家族で少し下に友人、そしてそれ以外である。
ちなみに騒いでいる女子高生達は完全にそれ以外のカテゴリーだ。優しくするわけがない。
別に譲はストイックでも何でもない。
彼とて悩める青少年だ。特に望美に関しては一途すぎるほどに。
今のところは譲の気持ちに気づいているようだが、望美は面白いほどに気づいていない。
いっそ哀れになるくらいだが、兄としてひと肌脱いでやろうという気にはならない。
オトコ心は複雑なのである。
そんな譲がベタベタに甘いのは当然ながら望美とのみであり、その次は女性である朔、野郎どもの優先順位は限りなく低い。
一応仲間だよなと思う将臣は間違っていないが、残念ながら譲のベクトルに仲間という文字は存在しない。
強いて言うなら友人とその他の間ぐらいだろうか。何とも微妙な位置関係だ。
そのため景時に裏切られても特に痛手を感じるでもなく、九郎が引きこもっていても鬱陶しいな程度の感想しかない。
ヒノエは勿論恋敵であるために、いつか誤射を装って矢を射かけてやろうと密かに企んでいるほどである。
彼らに比べれば、兄である将臣と知盛は多少当たりは柔らかい。
将臣は望美を挟んで微妙な立場にいるけれど、一応兄だ。
知盛は最初こそ警戒していたものの、に対する過保護なまでの愛情を見せられているため、好感度は何故か将臣よりも高い。
多分に望美に何の感情も抱いていないからだと思われる。
思い切り個人的感情に左右されていることを譲は自覚しているが治す気はない。
そんな譲は今厨房にて鍋の前に陣取っている。
何やら作っているらしいが大きな背が邪魔をして鍋の中身まではわからない。
たとえ見えたところで将臣に料理の腕も知識も限りなくゼロに等しいので、どちらにしろ何を作ってるかなんてわかるわけがないのだが。
「何作ってんだ?」
「蘇(そ)」
「蘇って、あのチーズみたいなやつか」
「そう。栄養価高いからね」
蘇とは牛乳を煮詰めて煮詰めて煮詰めまくった古代の食品だ。
材料は牛乳だけ。
ひたすら煮詰める時間と根気があれば作れるらしいが、結構な量を使う上にこれまた結構な時間がかかるので作っているところを見たことがない。
そういえば福原にいる時に何度か宴会でつまみとして出てきたことがあった。
高級品らしいそれはほんのり甘みを感じて中々美味しかったのを思い出した。
そうか、そうやって作るのかと感心している将臣は、元の世界でもカップラーメンしか作れない料理オンチだ。
ちなみに焼きそばはお湯を入れる時に間違ってソースを入れてしまうことがあるため、数回に1度は失敗する。
「兄さん、そんなとこにつっ立ってる暇あるんだったら鰻でも取ってきてよ。先輩に少しでも滋養のあるものを食べさせたいんだ」
何故鰻?と思わなくもないが、確かに魚より鰻の方が滋養が高いのは当然である。
ただし、この平泉に鰻がいるのかどうか将臣は知らない。ついでに譲も知らないはずだ。
山鳥を仕留めてくるのでは駄目だろうかと考えて、将臣はその言葉をすぐに飲み込んだ。
ここ数年、は肉を口にしていない。
元々肉より魚を好んでいたは、こちらの世界に来てから肉を食べる機会が少なく、どちらかと言えば菜食主義になってしまった。
神子だからという理由ではなく、単純に食の好みらしい。
魚介類なら食べるが肉は口にしないのだ。無理に食べれば体調を崩す。
折角獲ってきてもが食べられないのでは意味がない。
だから小さいままなんだと思うのは、肉料理を好む望美との体格の違いがはっきりしているからだ。
年は2歳の方が上なのに、外見の印象は誰がどう見ても望美より年下に見える。
今からでも成長は可能だろうか。いや、背は伸びないとわかっているけど、もう少しふっくらさせてもいいはずだ。
目を覆うほど貧弱な体型をしていないとは思うが、元々骨格が細いはただでさえ痩せて見えるのだ。
もう少し肉と体力をつけさせた方が良いと思うのは将臣だけでなく、を知るほとんどの人物の感想である。
ふむ、と頷いて将臣は釣竿片手に屋敷を出た。
目指せ、鰻釣り名人。
そんなことを言いながら川へ向かっていく後ろ姿を目撃した村人は、そっちの川に鰻はいないと言うべきかどうか迷ったと後に語った。
◇◆◇ ◇◆◇
安静にしていろと言われてはいるが、それを守らないのがである。
特に望美の外出が増えて一人になる時間が増えてくればくるほど、の退屈の虫はむくむくと起き出してくる。
ついでに言うなら焦燥感も湧き出てきている。
そうして何度となく寝具を抜け出し、廊下や庭先で譲や知盛に捕まるのも一度や二度ではない。
まあ少しは動かないと体力が回復しないからと屋敷内の行動は規制されなくなったのはつい先日のことだ。
寒くないようにと譲が用意してくれた温石を手に、は庭を眺めている。
体温調節がうまくできない身体は、常に氷のように冷たい。
そんな冷たい手を温石がゆっくりと温めてくれる。
「みんな、優しいんだから」
望美が頻繁に抱きついてくるのも冷え切ったの身体を温めるためだし、譲が滋養の高い食事を用意してくれるのもの体力を回復させるためだ。
朔も退屈していないかと良く顔を出してくれる。
には気づかれないようにしているのかもしれないが、毎日飲んでいる薬湯は弁慶が用意してくれたものだ。
九郎はどうにも合わせる顔がないと姿を見せないが、それでもの容態を気にかけているようだと朔から聞いた。
その気持ちが凄く嬉しい。
が彼らの厚意に応えるにはどうしたらいいのだろう。
健康になるのは難しい。
これは穢れが原因だから。
それでも京や福原にいた頃に比べれば、実はまだマシなのだ。
奥州は京から離れているからだろうか、土地の穢れが他の土地に比べて若干だが少ない。
勿論荼吉尼天による被害はこちらでも甚大で、驚くほど神の力が土地から消えているのは事実だが、それでも土地本来が持つ自浄作用はまだかろうじて生きている。
それでもいずれこの土地も穢れに負けてしまうだろう。
この屋敷内は驚くほど穢れがないが、門の外からは悪しき波動が伝わってくる。
望美は良くこの中を出ていけたものだ。
龍神の力が弱まっているから穢れを感じないのだろうか。
それでも身体に与える影響は大きいはずなのに。
今のにこの土地の穢れを祓うことはできるだろうか。
外に出ることは許されていないけれど、庭に出ればの気は土地を伝って他の場所へも届くかもしれない。
周囲に人の気配がないことを確認して、は裸足のまま庭に下り立つ。
足元から伝わってくる波動は弱い。
このままでは来年の作物へも影響が出るだろう。
が出来ることはそれほど大きなことではない。
それでも約束を交わしたのだから、些細な結果にしかならなくても動かなければいけないだろう。
懐から扇を取り出す。
舞扇にしては地味な銀色の扇。
こちらの世界に来てから最初に貰った贈り物。
何よりも大切なの宝だ。
扇をひらりと翻す。身体は覚えている。豊穣の舞、祈りの歌。
ゆっくりと口ずさみ、はひらり、はらりと舞を舞う。
どういう方法で神に祈るのが正しいのか、は知らない。
神子としての修業なんてしたことがないのだから。
でも、祈りが力になると女神は言った。
だからは舞を舞う。
維盛が教えてくれた舞には、平家の願いが込められているから。
ただ、ひたすらに――。
「安静にしているようにと言われていたのではなかったのか」
初めて聞く声に、は現実へと引き戻された。
冷ややかで抑揚のない、だがどこか気遣うような印象を与える声。
振り向いた先――そこにいたのは漆黒の髪を背中で束ねた、黒衣に身を包んだ彫刻のような男性だった。
- 11.02.10