「私は貴女を失いたくないのです」
そう言って愛を告げてくれた彼の人は、の元から消えてしまった。
は神子だ。
大いなる力と引き換えに、は己の命を神に捧げることを選んだ。
神子とはその身を神に捧げる存在であり、純潔であることが絶対の条件だ。
女神の神子となることを選んだは、誰かと結婚することはない。
勿論、子供の頃は当然のように結婚には憧れを抱いていたし、将来は自分も両親のように素敵な人と出会って仲睦まじい家庭を築けたらいいなとは思っていたのだけれど。
あの日。
本来辿るべき平家の末路を目にして、そんなささやかな願いは捨ててしまった。
突然現れたを異端視せずに養子として引き取ってくれ、惜しみない愛情を与えてくれた義父のために。
温かく優しい居場所を提供してくれた、大切な人達のために。
運命を捻じ曲げることになるだろうとわかってはいたけれど、それでもはそれを選んでしまったのだ。
代償は女神の願いを叶えることと――己の人生一つ。
払うもの以上に得るものが多いのだから後悔はない。
だから彼の求愛に応えることはできなかった――否、応えてはいけなかった。
本音を言えば嬉しかった。凄く。
彼は真綿で包み込むようにを愛してくれた人だ。
この人と一緒にこの先も生きていけることができるならどれほど幸せかなんて、想像するのもくだらないと思うほどに幸せな毎日を与えてくれた人なのだ。
好きにならないわけがない。
それでも、は神子として生きることを選んだ。
守りたいのは、これからも一緒にいたいのは一人ではなかったから。
大切な、本当に大切な家族。
血の繋がりなんて関係ないと言い切れるほど優しい一族。
そんな彼らをたとえ一人たりとて失いたくなくて――結果、は己を供物に差し出した。
身に溢れる力は強大で、平家のためにありとあらゆる力を貸してくれた。
運命がそのまま進めば間違いなく滅んでしまう人たちを救うために、は己が持つ知識と力を惜しみなく使ったのだ。
一族が無事に落ち延びられる土地を探し出し、食糧にも困らないように土地を肥沃なものへと変え、簡単に追手に見つからないように強大な結界を張り巡らせた。
平家の血を引く者が同行していなければ、そして彼らが歓迎されていなければ絶対に入ってこられないように強大な結界は、その土地に住まう土地神に協力してもらったものだから、たとえが命を落としても簡単に見破られるものではないだろう。
壇ノ浦から逃げ延びた一族は今頃その土地にいるはず。
彼らにとってその地が平穏であれば良いと思う。
持てる知識を全て使った。
だから後悔はない。
残るは女神との約束を叶えるだけ。
それだけだったのに。
最後まで一緒にいた将臣と知盛をあの地へ送れば、後は刺し違えてでも荼吉尼天を封じることができればそれでよかったのだ。
それなのに、できなかった。
駆けつけてきた望美。
彼女の泣きそうな顔があの日の自分を思い出させた。
置いていかれる哀しみは実際に同じ立場にならなければわからない。
あんな、身を斬られるような痛みを彼女に味わわせたくなかった。
甘いと言われれば否定できない。
だけど、どうしても選べなくて。
こんな好機は二度とないとわかっていながら、敵に背を向けてしまった。
女神との誓約を守れなかった。
だから――これは罰なのだろうか。
目の前で見知らぬ人間を見るような眼差しを向ける人物に、は己の罪を突き付けられたような気がした。
◇◆◇ ◇◆◇
驚愕に見開かれた琥珀色の瞳は、やがて薄暗い翳りを見せてそっと伏せられた。
長い沈黙の後で向けられた表情は、まるで貼り付けたような笑顔で、何故だかその笑顔に銀の胸がしくりと痛んだ。
「ここは、どこなのでしょうか?」
凛とした涼やかな声は神々しいほど美しいこの女性にはとても良く似合っているが、先ほどの小さな問いに含まれていた柔らかい響きはなくなっていた。
一瞬だけ見せた幼子のような姿は幻だったのだろうかと思ってしまうほどに、それは僅かでありながらも完璧に別のものへと変貌を遂げていた。
「私の友人達は、どちらに?」
再度問われて、銀は自分がこの女性の質問に答えていなかったことに気づいた。
客人に対して――それも見るからに高貴な身分である女性に対してあまり良い態度とは言えなかった。
「こちらは奥州の平泉にございます。ご同行の皆様はこちらの屋敷にお住まいですが、生憎現在は外出されていらっしゃるようです」
「…貴方は?」
「失礼いたしました。姫君におかれましては眠っておられたとのことでご挨拶が遅れましたこと、誠に申し訳ございません。私は奥州を治める藤原泰衡様の郎党で、銀と申します。龍神の神子様にお仕えするようにと主から命を受けております」
銀が告げると形の良い唇が「奥州…」と呟いた。
彼女は壇ノ浦で倒れたきり一度も意識を取り戻さなかったと聞いている。
目が覚めたら奥州では、流石に驚いても無理はないだろう。
人差し指を口元に当て、こてんと小首を傾げる姿は神々しい外見には似つかわしくないが、何とも愛らしさを感じるもので不思議と彼女には良く似合っている。
「御館――秀衡様におかれましては、九郎様一行はこちらの屋敷を自由に使って良いとのこと。必要とあれば薬師も手配いたしますので、姫君におかれましてはどうぞごゆっくりと――」
「躾の行き届いていない飼い犬が、この部屋に何の用だ」
銀の言葉を途中で遮ったのは、不機嫌さを隠そうとしない低い声だった。
いつの間に近づいてきたのだろう。
銀の背後にいる男は抜身の剣を銀に突き付けて立っていた。
武人としての腕はそれなりにあると思っていた銀だが、こうも見事に背後を取られたことに正直驚きを隠せない。
それほど人の気配に疎くはないのだが、相手がそれ以上に武芸に長けた人物なのだろうか。
「知盛さん」
「、か。目が覚めたのか」
「うん、心配かけてごめんなさい」
「いや、いい。お前に迷惑をかけられるのには、慣れている」
そう言って微かに笑みを浮かべる姿は、つい先ほど自分に対して殺気に近い気を飛ばしてきた男とは到底思えない。
そんな姿を見ていたら、不意に男が視線を向けた。
自分と同じ紫の瞳に剣呑な色が浮かぶ。
泰衡は自分と彼が良く似ているというけれど、銀は自分の外見に全く興味のないのでよくわからない。
だが、明らかに警戒の色を浮かべたその表情は銀のものとは全く違うはずだ。
紫紺の瞳にきつい光が宿る。
「ここには近寄るな。貴様にその資格はない」
声と同時に襖が閉められた。
明確な拒絶に銀は返す言葉がない。
確かに彼の言う通りだった。
銀は泰衡の郎党であり、彼の命令は「龍神の神子に仕えよ」と一言のみ。
白龍の神子が望美で、対となる黒龍の神子は朔。
彼女はそのどちらでもない。
だが、どうしてだろう。
彼女の傍にいたいと、そう思う自分がいるのだ。
心がないと泰衡に言われている銀が誰か個人に対してそのような感情を持つことは皆無に等しい。
望美ですら可愛らしいとは思うものの、顔を見たいと思うほどの気持ちではない。
「…様…」
初めて知った彼女の名前を、銀は小さく呟いた。
からっぽの心にほんの僅か、温かい風が吹いたような気がした。
- 11.02.06