Sub menu


白銀の予兆


吐く息が白い。
季節はすっかり冬へと移行し、上空から降り注ぐ雪景色も珍しくないようになってから数日。
弁慶は諸々の雑事を一手に担いながらも、ある部屋の様子が気になって仕方なかった。

逃亡に逃亡を重ねた結果、弁慶を含む源氏平氏の両一行はようやく平泉へと腰を落ち着けた。
その道中はお世辞にも楽なものではなかった。
頼朝から差し向けられた追手はそれこそ息をつかせぬほど執拗なものであったし、袂を別ち敵となった景時の策はお互いの手の内を知り尽くしているからこそ潜り抜けることは困難だった。
そこに因縁の相手との同行である。
良好である方がおかしい。
特に九郎は平家に対して並々ならぬ嫌悪を抱いているようであったし、平家は平家で源氏と同行することを諾としているわけではなかった。
それでも両者が同行しているのは、源氏の神子である望美が平家の神子であるの傍を離れようとしなかったからに他ならない。
源氏の功労者から一転して逆賊の汚名を着せられてしまった源氏にとって、望美の脱退は正直厳しい。
望美が同行しなければ必然的に譲も離脱するだろうし、白龍とて望美と一心同体だから当然望美と一緒に行く道を選ぶだろう。
朔とて望美と対の存在だ。
兄が九郎と決別したことを考えれば望美と離れて九郎を選ぶとは思えない。
そうなれば残るのは九郎と弁慶の2人だけで、いくら武勇に秀でているからとて、たった2人で逃げ延びられると思うほど楽天的にはなれなかった。
反発する九郎を宥めるのは正直骨が折れたが、還内府である将臣と知盛は意外にも九郎ほど反発はしなかった。
彼らは九郎よりも現実的だ。
助かる方法がより高いからその方法を選んだのだ。
決して仲間意識が芽生えたからではない。

弁慶は南の部屋へと視線を移した。
ぴしゃりと閉められた襖は弁慶の入室を頑なに拒否しているように見える。――否、事実拒んでいるのだろう。
その証拠に弁慶がその部屋へ入ることは許されていない。
なぜならあの部屋はが眠る場所だからだ。
平家の至宝とも言われた末姫の寝所に、源氏の軍師が近寄れるはずもなかった。
一度は殺めようとした女性。
だが彼女の眼差しは常に知的で深い色を湛えていて。
その慈悲深い眼差しは罪に濡れた己にはまぶしすぎた。
やがて扉が開いて菫色の髪の少女が現れた。
相変わらずその表情は浮かない。

さんは…」

問いかけに僅かに首を振るだけで答える彼女の落胆はいかばかりだろうか。
あの時、船にいた全員を引き連れて空間を移動するという奇跡を行った女性は、源氏の追っ手の届かない遥か彼方へ自分たちを飛ばした。
人間には到底不可能な所業。
勿論それはいくら神の神子として多大な力を与えられていようと負担が大きいことは変わりなく、逃亡劇からほどなくしては意識を失った。
力を使えば当然のように反動が出るのだろう。
ふらりと傾いた体を支えた知盛の表情は最初こそ動じないものだったものの、腕の中の存在が苦しそうに喘いでいるのを確認した途端、血相を変えたのだ。
弁慶の脳裏に六波羅での騒動が思い出される。
まだ無邪気な姫君にしか見えなかったが、兄弟達の過保護ぶりに嫌気をさして部屋を飛び出し庭の池に落ちたのは、まるで昨日のように鮮明に覚えている。
あの時の清盛を始め、知盛や重衡の慌てぶりは普段の彼らを知っているからこそ驚愕するしかなかったが、まさにその時の再現かのように知盛が慌てていた。
胸を押さえ、苦しそうに喘ぐ姿はかなり危険な様子に見えた。
将臣も望美も血相を変えて駆け寄ったが、医療の知識のない彼らがいくら集まったところで何ができるわけでもない。
助けてもらったという恩もあると己を言い聞かせ彼女の容態を看ようとしたその刹那。

『――や…っ…』

うっすらと開いた視界で己の姿を確認した途端、彼女は苦しげな息の下から弁慶の手を跳ね除けたのだ。
憎まれている自覚はある。
彼女にとって何よりも大事なものを、弁慶は奪ってしまったのだから。
だが、こうもあからさまに拒絶されるとは思わなかったために驚愕は大きかった。
やがてかくん、と力なく倒れた彼女はほんの僅かな時間ではあったがその呼吸を止めてしまい、慌てた将臣が心臓マッサージを行って何とか呼吸を取り戻したのだ。
弁慶は将臣が何をしたかわからなかった。
譲から呼吸の止まってしまった人間を蘇生させる方法だと説明を受けたが、では彼女は心の臓が動いていなかったのかと思えば自分でも分からないほどの焦燥感が胸に溢れてきた。
その後のは生命の危険さえ去ったものの相変わらず昏睡状態で、船や馬による逃亡の最中でも意識を取り戻すことはなかった。
こうして平泉に腰を落ち着けることができ治療に専念できるようになったものの、相変わらず眠り姫の如く目覚める気配はない。
これほど酷い状況になったのは初めてだと呟いた将臣の声が忘れられない。
平家の神子。
慈愛深い比売神だという噂こそ聞いていたものの、実態は噂のように慈悲深いだけでなく、それこそ源氏の神子などよりも遥かに強大な力を持つ神の巫だった。
強すぎる力は反動を生む。
弁慶は大きな力を扱いきれずに目的を遂げるだけではなく京の息吹を断ってしまったことを考えれば、彼女に返ってくる反動はどれだけのものだろうか。

「ねえ、弁慶さん」

無意識に閉ざされた襖を凝視していれば、その視線に気付いたのか望美が声をかけてきた。

「私ね、源氏のみんなが大好きだよ。突然現れた私達を助けてくれて力になってくれて、凄く感謝してるの。それは本当」
「望美さん…?」

向けられる視線は静謐だが、言葉の意味が理解できなかった。

「でもね、私はの親友で、のことが何よりも一番大事なの。いざという時になったら何よりもを優先する、絶対に」

だから、と望美は続ける。

「だから弁慶さんがに何かしようとするなら」



絶対に許さないから。



咎めるでもなく非難するでもない望美の視線に、弁慶は答えることができなかった。





   ◇◆◇   ◇◆◇





「譲君、いる?」
「先輩?」

厨房で食事の支度をしている時に声をかけられて振り向けばそこにいたのは幼馴染兼想い人でもある望美で。
1日のほとんどの時間をの部屋で過ごしている望美が自発的に厨房にやってくることは正直非常に珍しい。

「どうしましたか? お腹すきましたか? もうすぐ食事ですけど、干し柿とかならありますよ」
「ううん、そうじゃないの。お腹はちょっとすいているけど、ごはんまで我慢できるから大丈夫」
「じゃあ…」
「うん。果物とかあったらジュースにできないかなと思って。あ、もちろん今すぐってことじゃなくて、が目覚めてからでいいんだけど…」
「そういうことでしたら柑子――蜜柑があるはずだから用意しておきますね」
「ありがとう」
先輩は…」
「まだ眠ったまま。前みたいに苦しそうじゃないのが救いってだけで、いつ目覚めるかは将臣くんにも白龍にもわからないみたい」
「そうですか…」

望美は同じ神子だから多少はわかる。
は完全なガス欠状態なのだ。
器にあるだけの神力を使い切ったために動くことができない。
望美はそれほど神力に頼ってこなかったから体験したことがないが、それでも何度か白龍の力を借りた時に感じた疲労を思い出した。
全身から力が抜けていくようで身体に力が入らなかった。
の容態はそれよりも更に重症な状態だろう。
このまま命を失うことはないが、いつ目覚めるかはの回復次第だ。
どれだけ望美や将臣が願っても、こればかりはわからない。
それにしても、一体はどのようにしてそれだけの強大な力を身に着けたのだろう。
神子なんて、なろうと思ってなれるものではない。
況してや白龍が言うには、を加護しているのはこの国でも最高の位にいる女神だという。
どこで出会い、何を求めているのか。
それは同じ神子であっても知ることができない。
恐らくのことだから平家に関することであることは間違いないのだろうけれど。

「あ、そういえば先輩」

考え込む望美に譲が今思い出したといった様子で声をかけてきた。
顔を上げると何とも微妙な表情の譲。
訊ねていいものか躊躇うなんて珍しい。

「何?」
「いや…あの人、一体何者なんでしょうね」
「それは私も知りたい」

望美も何と答えてよいのかわからない。
逃亡中に出会った人物。
銀の髪と紫紺の瞳を持つ、知盛と瓜二つの青年。
名を「銀」と名乗ったが、それは勿論本名ではないだろう。
将臣と知盛、そして敦盛には心当たりがあるみたいだが、生憎望美は平家の武将について詳しくない。
素性の知れない人物であることは確かだが、泰衡が護衛にとつけてくれた従者を断る権限は望美にない。
ただ、そうなるといずれ銀は彼女と対面することになる。
望美の護衛なのだから、遅かれ早かれと会う機会は訪れるはずだ。
知盛と同じ外見を持つ『銀』という人物。
彼を見て、は一体何を思うだろうか。
それは非常に気になることだった。


  • 10.12.06