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薄氷の攻防、その決着


ふわり、との髪が風に揺れる。
穏やかな海、青い空。
そこに余計な音は存在していなかった。
全ての音は対峙する2人の女性に集められ、2人の周囲は痛いほどの緊張に包まれていた。
船上には僅かな人影のみ。
一軍を率いる将の器を持つ人物のみが集まっているにも関わらず、彼らは吹けば飛んでしまうようなたおやかな女性を前に指一本動かすことができないでいた。

「さあ」

大きな剣を重さも感じない動作で前に構え、は玲瓏たる声で言葉を紡ぐ。

「生か死か、どちらかお選びくださいませ」

歌でも詠むかのように柔らかい声ではあったけれど、ひたりと向けられた視線にはそれ以外の選択肢を許さないという強い意志が宿っていた。
政子が息を呑む。
ただの小娘だと思っていた少女に、明らかに気圧されているのだ。
それを覇気と呼ぶなら確かにそうだろう。
政子は――否、政子の内にいる存在は長い年月を生きていたけれど、それでもこのような神気を帯びた覇気を持つ相手と対峙したことはこれまでに一度しかなかった。
その時は手も足も出なくて逃げてくるのがやっとで、傷ついた身体を癒すのに随分と長い時間を必要としたものだ。
何とか不都合なく動けるようになったのが最近のこと。
また同じ体験をするのかと思えば、ぞっとした。
目の前の少女は虫も殺せないような容貌をしているが、その実どんな手を使っても自分を倒そうとしているのは明白で。

「…私と戦うとしたら、あなたも助からないけど、それでもいいの?」

動揺を押し殺しつつも発した声は、少々固くなっていた。
若くて美しい少女。
僅かな人生しか過ごしていない彼女とて命は惜しいだろうと思いそう問いかけたのだが、政子の言葉に少女は鮮やかに微笑んだ。

「命とは、何かを為すためにあるものでございましょう」

あまりにも潔く紡ぎ出された言葉は、己の命などとうに捨てる覚悟を示していて、政子は己の浅慮に内心で舌打ちをした。
逃げるわけにはいかない。むしろ逃がしてもらえない。
だがこのまま対峙しても勝てるとは思えなかった。
目の前の少女はこの国を支える女神の恩恵を受けている。
彼女が持つ刀、《天之尾羽張》は数少ない神を殺すことが出来る武器だ。
大振りのそれを軽々しく扱っていることを考えても、その剣がに服従していることは確実。
女神の力を得ているだけでなく、神殺しの剣をも相手にするには危険が大きすぎる。
多くの怨霊を喰らい力を増したとは言え、あの剣の前では大した抵抗になるまい。
それほどに大きな力。
それこそ振るう本人の身すら喰らい尽くすほどの危険なものなのだ。
だが彼女が承知で使っている以上、最早どんな脅し文句も通用しないのだろう。
かと言って政子とて引くわけにはいかないのだ。
この戦いは源氏と平家の行く末を決めるもの。
ほぼ勝ち戦ではあるが平家を滅ぼさなければ源氏は――頼朝は心安らかに過ごせないではないか。

「…鎌倉殿のために、私も引くことはできないのよ」
「まぁ、それは偶然。私も引く気はありません」

ぞっとした。
たかが人間のくせにここまで政子を恐怖に陥れることができるこの小娘に。
確かに剣は脅威だ。
かすり傷ですら政子の身体に大きな打撃を与えてしまうのだから。
だが、それよりも何よりも、この少女が怖かった。
どこからどう見ても華奢で頼りない少女なのに、内包する神気はとんでもない。
どうして今までこの存在に気付かなかったのか不思議で仕方ないほどだ。
これは神子という次元ではない。
多くの神を殺してきた政子――否、荼吉尼天が恐れるだけの力を持つ彼女は、最早、神そのものだ。
たかが神子と侮っていた。
いや、たかが神子にすらこれだけの力を与えられるのがこの国の神なのか。
それでも目の前の相手に恐怖を抱いていることを知られたくないため何とか表情だけは平静を取り繕って、政子は何とかこの打開策を考える。
己の身を顧みずに神子になる運命を選び取った娘だ。
外見通り、内面も純粋で美しいのだろう。
真実そうであれば、政子にもまだ勝機はある。
たとえば少女を支えている銀髪の男とか、頼朝の命を狙いに単身やってきた還内府とか。
政子の視線に気付いたのか、は僅かに身体をずらす。――その身で背後の2人を隠すように。
成る程、自分の着眼点は間違っていないようだ。
だがまだ弱い。
もっと決定的になるような弱点があるはずだ。
そう思ったその先、こちらに近づいてくる人影に政子が気付いた。

!!」
「な……将臣?!」
「望美?! それに…」

神子に従うようにやってきたのは、彼女を守る八葉。
新たに加わった8名の、その命運を左右するのはか政子か。

「…余計なことを」

銀髪の男が呟いた言葉と舌打ちを、政子は聞き逃さなかった。
己の背後にいる男へと静かに目線をやる。
ちらりと一瞥。その視線を未だ還内府の正体を知って呆然としている源氏の御曹司へ向けるだけ。
政子の感情には聡い男のことだ。抜かりはないだろう。

「ぐ…っ!」
「うわぁ!」

案の定大きな音と共に2人の男が崩れ落ちた姿を視線に捉えて、政子はにやりと笑った。
反対に顔色を変えたのはだ。
背後を振り返れば、そこにいたのは血に濡れた将臣と九郎の姿。
政子は何もしていない。では…。

「よくやりましたね、景時」
「……いえ」

政子と頼朝の背後から姿を表したのは、望美の八葉であり仲間であったはずの梶原景時。
彼の持つ銃が硝煙を吐いている。
彼が狙ったのか。仲間であった将臣と九郎を。

「梶原景時…」

平家の人間でありながら頼朝に与した男。
対面したことはない。
望美から話で聞いていただけだが、洗濯と妹が大好きで戦が嫌いで、自分の手で誰かを傷つけることにいつも悩んでいるような優しい人だと。
そういう人ってかっこいいねと望美が嬉しそうに話していたのはそれほど前でもないのに。

「兄上!!」
「朔、こちらに来るんだ」

銃口をに据えたまま、景時が低く命じる。
朔と望美の顔は決して見ようとしない。
陰陽師の術も弾丸も、おそらく今のには通じない。
だが他のみんなは…。
政子がようやく笑みを浮かべる。
艶やかで綺麗だったが、その表情はひどく醜くには見えた。

「うふふ、お嬢さん。形成は逆転したようですわね」
「…荼吉尼天」
「勝負は結果が全て。お嬢さんの力は確かに大きいけれど、そちらにいる全員を守って戦えるのかどうかは、別。それとも、全員を見捨てて私との決着を優先するのかしら」

ころころと楽しそうに笑う姿は己の勝利を確信したもので、はぐっと唇をかみ締めた。
政子の言う通り、彼らを見捨てて攻撃に専念すればは政子を――荼吉尼天を倒すことができるだろう。
だがその結果失う命は大きい。
八葉は勿論、望美や知盛でさえ失ってしまうだろう。
ましてや望美はのためにやってきたのであり、敵対していても親友である彼女を見捨てることはにはできなかった。

「………わかりました。今回はこちらが引きましょう」

静かに目を伏せて、は己の手を一閃した。
途端に剣が粒子となって消えていく。
それはが戦いを放棄したことの表れでもあった。

「ですが、次はありませんよ。貴女を狩るのが私の使命。決して逃がしません」

それでもひたりと視線を政子に向けは毅然と言い放つと、仲間共々光に包まれ、そして船上から消える。
周囲から神子の神気が消えたことを確認した途端、政子はようやく解放された安堵から崩れるようにその場に倒れた。


  • 10.11.09