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招かれざるモノ


噂を聞いたことがある。
源氏に神子がいるように、平家にも神子がいるのだと。
だがその神子は源氏の神子のような戦乙女ではなく、屋敷の奥深くにて平家の行く末を祈る比売神らしく、戦場においてそのような姿を見たことはなかった。
噂の出所はわからない。
だからこそ単なる噂の範疇を出なかったし、捕えた平家の武将や雑兵もそのような神子の存在を口にしたことはなかった。
だから九郎は信じていなかったのだ。
屋敷の奥深くで戦勝を祈るだけなら誰でもできる。
大方源氏の神子と呼ばれる望美に対抗するために作り上げた虚像であろうと、九郎はそう判断した。
元々女が戦場で戦うことには否定的な九郎だ。
九郎だけでなくこの時代に戦場で剣を持って戦う女性は滅多にいない。
そんな奇特な女は従兄である義仲の愛妾くらいだと思っていたくらいだ。
神子の存在を肯定するよりも、ただの一門の女だということにしたほうが合点がいった。

だが、その噂のみであった『平家の神子』が目の前にいる。
それも眩い輝きを身に纏った、誰よりも神々しい存在として。
その姿を前にして、平家の神子などただの噂だと言い張ることができなかった。
女神の如き美しさ、全身から放たれる神々しい気配、そして淡く発光する剣。
歴戦の猛者である九郎すら立っていることが困難な奔流の中心にあって、尚も嫣然と微笑むことができる少女を神子と呼ばずに何と呼べばいいのか、九郎は知らなかった。





「平家の、神子…」

その噂を聞いた時に最初に頭をよぎったのはの姿だった。
聡明で奔放で、平家の誰からも愛されていた姫君。
源氏の神子の名が売れるようになってきた頃に聞こえてきた噂に、戦の士気を上げるためにわざわざ神子を祀り上げるなど愚かなことよと笑いながらも、彼女の姿が脳裏から離れなかったのは、恐らく源氏の中で唯一弁慶だけが彼女の聡明さを目にしていたからだろう。
深窓の姫君そのもののようでいながら、瞳の奥には隠しきれない知性と教養があった。
自分と九郎の関係を察していたようにも見えたあの日の対面で、弁慶は確かに彼女に対して脅威を感じていた。
あわよくば命を奪おうと思ったことは紛れもない事実。
当時は知盛に邪魔されてしまったが、やはりあの時に手を下しておくべきだったかと悔いるのは、彼女が持つ神力を目の当たりにしてしまったからに他ならない。
まだあの時ならば間に合ったのにと僅かに歯噛みした弁慶に、の怜悧な視線が向けられた。
思考を読まれたのかと目を瞠る弁慶の前で彼女は弁慶を一瞥し、そして淡く微笑んだ。

「やはり貴方が武蔵坊弁慶。源義経の懐刀だったのね」
「…やはり気付いていたのですね」
「えぇ。貴方は有名だったから」

ふふ、と微笑む彼女は以前よりも遥かに美しい。
元から愛らしい顔立ちをしていたが、今のそれは正に神がかった美しさに魅了されそうになるものの、次いで発せられた言葉に弁慶は思わず息を呑んだ。

「それにしても、暫く見ない間に随分と禍々しい気を纏うようになりましたね。――貴方が大罪に手を染めてまで守る価値が源氏にあったのですか」
「な…」
「その罪も業も、もはや貴方の身一つでは贖えませんよ」

喉元に鋭い刃を突きつけられているのと同じ衝撃を弁慶は感じた。
言葉の内容は恐らく仲間には気付かれていないだろう。
だが、少なくとも彼女は気付いている。
自分が何をしたのか。――何を葬ったのか。
咎める口調でないのは同情か憐憫か。
己の身一つで贖えないと言われてしまうほどの大罪を犯している自覚はある。
償うつもりはあるが、その方法を弁慶は知らない。
冷酷な軍師の仮面が、今、僅かに綻んだのを弁慶は感じた。





これはまずい。
力の中心にありながら神子に護られているお陰で何一つ影響を受けない知盛が、唯1人この現状の危険性に気付いていた。
御座船は既に見えない。最初から後方に配置していたのだ。
有事の際は何を置いても退却するようにと言い含めておいたから、がこの場に現れた頃には既に撤退を開始していたはずだから、今頃は源氏の船が追いつかないほど遠くへ逃れているのだろう。
そして、の力によって強制的に退去した平家の船団も今頃は目的の場所へ到達しているはずだ。
平家の行く末は安泰だ。
還内府とが随分前から安住の地を探していたことは知っているし、そのめどがついたことも同じく知っている。
知盛はこの地で勝っても負けても命を落とすことに決めていたから先のことは興味なかったが、平家を救おうと奔走していた将臣とが見つけた地だ。
おそらく追っ手の心配など不要の場所なのだろう。
そうして残ったのは知盛とと――恐らくは将臣。
傷だらけの知盛を強引に治癒したことを考えればが将臣を見捨てるはずはない。
何かの意図あってのことだろうと思えば、容易に想像できるのが力を行使した後のの容態。
今この場でが昏倒するわけにはいかないのだ。
そこに考えが至ると同時にふらりと傾いだ目の前の身体。
咄嗟に抱き寄せれば意外なほど簡単に腕の中に収まった。

…」
「ごめん…支えてて。後少し…」

他には聞こえないほどの小さな声はとても弱弱しく、至近距離から見る顔には冷や汗が浮かび顔色も少々悪い。
僅かな力の行使でも数日間寝込むことが多い。
況してや最近のは極端に体力を落としていて、常に病と闘っているような状態だった。
それなのに、この力の奔流は知盛が見たどの状況よりも明らかに大事で、弱った身体にどれだけの負担を強いているのか想像することも恐ろしい。
まるで命の炎を燃やし尽くしているような姿に、知盛はその細い身体を支えるように、それでも周囲の者には慈しんでいるように見えるよう優しく抱きしめた。
咎めたい気持ちは勿論ある。
だがこれは彼女の戦なのだ。自分が手を出して台無しにしてはどれだけ恨まれるだろうか。
重衡ならばにどう言われようと止めただろう。
だが、知盛はの覚悟を認めた。
尤も最悪の事態になる前にやめさせるつもりではあるけれど。

そうしてようやく勢いの落ち着いた船の上で立っているのは知盛とのみとなった。
源氏の武将は神力の圧力に屈したのか膝を付き肩で息をするのがやっと、雑兵に至っては得体の知れない力を目の前で見せ付けられて戦意喪失している。
ふらりとよろめいた身体を知盛が支えた。
ありがとうと聞こえた声はやはりか細く、そろそろ限界がきているのだろうかと推測する。
の力の限界を知盛は知らない。
恐らく自身も知らないのだろう。
これ以上使わせるのは危険だと知盛は判断した。
以前よりも軽くなった身体を片手で抱き上げた。

「帰るぞ、
「待って。還内府のところへ行くのが先」
…」
「彼を残して退却できないのは分かってるでしょう」
「…我儘な神子姫だ」

苦虫を噛み潰したような知盛にがくすりと笑う。
その瞳が琥珀へと変わり、が新たな力を行使しようとしているのだと察した知盛はそれを制しようとしたが、その前に望美の悲鳴のような声が周囲に響いた。



、駄目!! それ以上力を使ったら死んじゃう!!」



不穏な言葉に知盛が望美へと視線を移した瞬間、目の前の景色が変わった。
僅かな視界の歪みと浮遊感。そしてほんの少しの眩暈を感じた時には既に舞台は新たな場所へと移動されていた。


「――今は止めないで。お願い」

目の前のいるのは満身創痍の将臣と剣すら構えていない頼朝。
そしてその傍らに控えて不敵な笑みを浮かべている妙齢の女性の姿。

「あらまぁ、またお客様? 随分と毛色の変わったお嬢さんですこと」

ころころと鈴が鳴るような笑い声を上げたのは頼朝の正室である北条政子。
艶やかで美しい女性ではあるが、その笑顔に獰猛さが見て取れる。
自分よりも遥かに血に濡れた存在だ、あれは。
まるで魔性のようにも見えるその姿に、武人としての知盛が警戒を強めた。
そんな知盛の腕からあっさりと抜け出したは、持っていた剣を構えて政子へと対峙した。

「初めまして、外つ国の神をその身に宿す御方」

政子の顔色が変わる。
は剣の切っ先を政子へと向ける。
途端に黄金を纏う剣に、政子が怯えた表情を見せた。

「貴女…」
「我が女神の命により、その身を封印させていただきに参りました」

硬い声と険しい表情に、知盛はようやくが戦場へ赴いた真の理由を知った。


  • 10.09.13