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平家の神子


突然現れたのは、美しい娘だった。
髪は墨を落としたかのように艶やかに輝く漆黒で、肌は透けるように白く。
荒事など何一つ知らないような穢れのない姿は、多くの血が流れる戦場には何とも不釣合いで、その場にいた誰もが一瞬言葉を失った。
華奢な身体は鮮やかな衣装に身を包んでいながらも一目でそれと分かるほどで、そんなたおやかな女性が戦場に突然現れたことも理解できなければ、彼女が彼ら――源氏の軍勢に挑むように剣を構えていることも、又、理解できなかった。

…」

不本意ながらも彼女と剣を交えることとなった望美が喘ぐように目の前の女性の名を呼んだ。
渾身の力で斬りかかったのだ。
勢いは相当のものだったはず。
恐らく知盛ですらまとも受け止めるのは骨が折れるだろうその威力を、彼女――はいとも軽く受け止めていた。
武芸などとは無縁の細い腕。柄を握る指だってほっそりとして力があるようには見えない。
それなのに何故こうも簡単に受け止めているのだろうか。
驚く望美の前に、はにこりと笑う。
戦場には不釣合いなそれに、誰もが息を呑んだ。

「ごめんね、望美。貴女にこの人を殺させるわけにはいかないの」

そう言いながら交えていた剣で望美を押し返す。
瞬間、目に見えない風に襲われて望美は軽く吹き飛ばされた。
数歩たたらを踏んで何とか転倒は堪えたものの、が大して力を入れているように見えなかったものだから余計に衝撃の大きさに驚いた。

…」
「ごめんなさい。手加減の仕方がまだわからなくて」

まるで絵巻物に登場するような麗しい姫君の手にある細身の剣。
金色の輝きを放つそれは一見すると龍神の神子が持つそれに酷似していたが、柄の細工や刀身の輝き一つを比べれば望美の持つそれはのものに比べれば玩具に等しい。
武士として育ち多くの武器を見てきた者ならば、その剣が神剣と呼ぶに相応しい傑物であることがわかっただろう。
だがいくら腕に覚えがあろうと望美はまだ初心者で、身のこなしなどから相手の力量を計ることは出来ても、武器そのものが宿す力は見当がつかない。
気付いたのは龍神である白龍だった。

「天之尾羽張(あめのおはばり)…」
「白龍?」

望美が振り返ると、白龍はの持つ剣を指差して。

「伊邪那岐命が迦具土神を斬った剣。神を斬り魔を斬る唯一の剣と呼ばれてる。人の子が生み出す剣とは比べ物にならない力を持っているよ。たとえ神であっても使うことが許されていない剣…なぜが持っている?」

白龍の問いに笑みを浮かべるだけでは答えない。
が天照の神子だということを知っているのは平家でもごく一部。
そして彼女が天照大神から託された使命を知っている人物はいない。
そのため望美の友人であるが神の剣を手に知盛を庇うべく望美達と対峙しているという現実しか彼らにはわからなかった。

「久しぶりだね。望美、譲くん。できるならこういう場所で再会はしたくなかったんだけど」
先輩! 何で…」
「うん、ちょっとこの死にたがりさんを助けにね、来ました」

そう言って振り返った先にいるのは、勿論知盛だ。
瀕死の重傷とまではいかないがそれに近い状態で、見事なまでに全身傷だらけだ。
足元には血溜まりが出来ているし、かろうじて剣に支えられて立っているといった知盛の姿はは見たことがなかった。
僅かに眉を顰め、そしてぺしっと頭を叩いた。
それにぎょっとしたのは周囲ばかりで、叩いた本人は頬を膨らませているし、叩かれた本人はくつくつと笑っている。

「私が前に話したこと、覚えてるよね」
「ああ…覚えているぜ。お前がここに来たのは、俺を連れ戻すためか」
「正確には違うけど、死にそうになってるから連れ戻しに来たの。まったく、仕事増やさないでよ」
「俺の勝手、だ」
「本当に男の人って勝手。知盛さんも重衡さんも惟盛さんも、ついでに将臣くんもみーんな勝手。置いていかれる人の気持ちなんて考えてないんだから」

諦めたようにため息をついて、は知盛の頬にそっと触れる。
白魚のような細い指が頬についた傷を優しく撫でる。
滑るように触れた指先が離れたそこには、傷跡すら消えていた。
の指はそのまま知盛の頬へと添えられる。
至近距離で見詰め合うと知盛の姿はまるで恋人同士の逢瀬のようで、そんな光景を目の前で繰り広げられてしまい赤くなるのは周囲の人間――主に九郎で、知盛はその目を僅かに瞠った。
そこから感じる温かい波動と色を変えていく瞳に、何をされているかわからない知盛ではない。

「やめろ」
「聞こえません」
「俺は、望んでいない」
「だから、知盛さんの意見は関係ないの。私も勝手にするんだから」

事情を知らない周囲には、知盛の拒絶の理由もの言葉の意味も良く分からない。
だが知盛の身体が黄金の光に包まれていく様を目にしてしまえば、が何かしらのことを行っているのだということが理解できる。
何をしているかまでは正確にわからないけれど。

「お前は、馬鹿だ。御座船で守られていれば良いものを」
「うん、知ってる。でも、もう失うのは嫌なの。皆を守るには今しかないと思ったから」
「あいつが泣くぞ」
「生きてたら、ね」
「…馬鹿が」
「うん、知ってる」

知盛の手がの白い頬を撫でる。
それは懐かしい彼の手を思い出させるもので、は甘えるようにその腕に頬を摺り寄せた。
優しいぬくもり。
それは生きている証。
命をかけても守りたいと思っている、大切な人たち。
だから、迷いはなかった。

は望美の隣に立つ若武者に視線を向ける。
会ったのは一度だけ。
望美の迫力に圧されて戸惑っていた姿は純情な青年に見えたが、こうして武器を携えて立つ姿はやはり源氏の軍を率いるだけの迫力と威厳がある。
だが、威厳溢れる武将などは見慣れている。
滅びる一族を救うべく逆境にもめげずに奔走してくれた彼らに比べれば、兄から軍を預かっているだけの九郎などまだまだ覚悟が甘い。

「貴方が源九郎義経殿ですね。先日は挨拶もろくに出来ず申し訳ありませんでした。私は平家棟梁・清盛が末娘、と申します。過日は帝と二位の尼をお助けいただきありがとうございました。お陰で帝には傷一つ負われることなくご無事に平家の屋敷へお戻りいただくこと叶いましたこと、重ねてお礼を申し上げます」

優雅な仕草で膝を折り礼をする姿はまさに姫君そのもの。
だが九郎にはそんな姿よりも先ほどの言葉の方が衝撃的だった。
や子供の身なりで身分ある家の子息であろうことは推測していたが、年老いた尼と若い女性の3人で歩いていたあの子供が帝であることなど誰が想像できよう。
帝とは雲上人。どれほど幼くとも神に等しい存在であって、たとえ御簾越しでの対面ですら恐れ多いことだという認識が九郎にはあった。
こちらの世界での常識を知るはそんな九郎の様子を微笑ましそうに眺めていたが、徐々に増えてくる源氏の兵を前に僅かに表情を改めた。

「さて、この度の戦ですが、平家といたしましてはこのまま無益な犠牲が出ることを望みません。この上は速やかに撤退をいたしますので、どうか剣を収めていただきたく存じます」
「ば…っ、そのようなことできるわけがなかろう! 帝と三種の神器を取り戻すことがこの度の戦の目的。はいそうですかと兵を戻すことなどできぬ!」
「…では、仕方ありませんね」

静かに目を伏せ、そして再び開く。
その途端にの身体から発せられた神気に、その場にいた全員が立っていることが出来ずに膝をついた。

「な…何だ?!」
「足が…」
「動かない…?」

激しい力の奔流に抵抗ができない。
はただそこに立っている。全身に黄金の光を纏わせて。
同じ色に輝く剣を捧げるように頭上に翳す姿はただ人には到底見えない。

「九郎、あれを見てください」

弁慶の声に指さす方向に視線を移し――愕然とする。
合戦は海の上。敵も味方も己の船を所有している。
源氏がやや有利だとしても、状況を見れば未だ互角でその船の数は決して少なくない。
だが、その船の半分――赤い旗印の船だけが黄金の光に包まれて消えていくのはどういうことか。
船尾を返して撤退するなら追うこともできる。
だが、目の前で忽然と消えてしまっては追う術すら持たない。

「源氏に引く意思がないのであれば、こちらは強引に撤退させていただきます」

笑みすら含んだ涼やかな声で、この人間離れした事件を起こした人物が誰かわかった。
理解できない。常識では考えられない。
だが、それ以外説明がつかなくて――。

「お前は…何者だ?」

金色の光を身に纏う女。
何万という軍隊を船団ごとこの場から消してしまうほどの強大な力を持ち、立ち上がることすら困難な光の奔流の中心にあって、嫣然と微笑むことができる彼女は果たして人間なのだろうか。

「先ほども申しました通り、私は平清盛が末娘。ただ、平家では私のことをこう呼ぶ方もおります」

平家の神子、と。

そう告げる彼女は、神子の名に相応しい神々しさに包まれていた。


  • 10.08.23