運命とは変えることができないのだろうか。
平家は敗戦を続け、西へと落ち延びていく。
兵の数は少数ずつではあるが確実に減り続け、兵の疲弊も少なくはない。
救いは平家に助力してくれる地方豪族の数が予想以上に多かったことと、が兵糧の管理をしていたお陰で備蓄は相当の余裕があることだ。
それでも兵の数が減れば戦力差は明らかであるし、今後も負け続けてしまえば豪族の協力も得ることができないだろう。
そのため、多くの人はわかっていた。
ここ――壇ノ浦が決戦の地であることを。
◇◆◇ ◇◆◇
遙か前方で赤と白の旗が交錯している。
現状では互角。
教経の船が源氏の船に奇襲をかけているため、どちらかと言えば平家有利にも見える。
このままだと平家の勝利が掴めるかもしれない。
だが、源氏には油断できない戦力が残っている。
源九郎義経と、源氏の神子。
そして、どうしても無視できない、源氏に味方をしている異国の神の存在。
彼らがいる限り、どれほど優勢であろうと楽観はできなかった。
は交錯する旗を見ながら祈りを捧げる。
今回の戦に際して、は御座船で待機を命じられた。
将臣も知盛も最前線で戦うのだ。
を連れていけるはずもなく、又、を守る余力もない。
御座船には安徳帝もいる。
平家にとって旗頭である帝を源氏に奪われるわけにもいかず、の他に御座船での待機を命じられたのは宗盛と経正だった。
実際御座船には兵力はそれほど控えていない。
平家の総力をあげて戦に挑むという証拠であるし、もし御座船まで源氏が攻めてきたら全員入水する覚悟だからだ。
帝や二位の尼に仕える女房にはその旨を話してある。
その上で戦に同行するか否かを尋ねたのだが、の思惑に反して平家を後にする者は皆無だった。
確実に勝てる戦ではない。
状況は常に不安定で、この戦に負ければ全滅は免れないということも話してある。
それでも逃げ出さなかった女房達は、もしかしたら一兵卒よりも胆力があるのかもしれない。
そんなことを思いながら、は小さく笑った。
ふわりと風が頬を撫でる。
僅かに変わった風は戦局の変化を知らせるものだった。
前線に赴けないは、ここまで封印していた神子としての力を解放していた。
御座船の端に膝を付き、祈るように両手を組んでいたの瞳がゆっくりと開かれる。
先ほどまで前線の様子を窺っていたために、眼前に見える光景に一瞬戸惑いを覚えたが、数回瞬きをすることでそれを打ち消した。
風が吹く。
春の暖かい風の中に、ほんの少し血の香りを漂わせたそれは、決して良い兆候ではなかった。
知盛のいる船へと近づいてくる一行の存在を感じ取ったからかもしれないし、その一行に熊野の人間を見つけてしまったからかもしれない。
これから激変してしまうであろう戦場へと、は厳しい視線を向けた。
明らかに少なくなった平家の旗。
小さくなっていく命の輝き。
不自然に膨らんでいくおぞましい空気。
肩からずり落ちた袿をかけ直し、はゆっくりと立ち上がった。
船の上は揺れる。更に神力を行使し続けているために感じる疲労は意外と大きい。
それでもこれが最後なのだから止めることはできないし、そのつもりもない。
背後に感じる気配。
慣れたそれに視線だけ向けると、険しい表情をした清盛の姿。
「」
「お義父様」
「そなたの健気な姿は美しいが、痛々しくて見ておられぬ。重盛や知盛は必ず勝利を手に戻ってくるゆえ、そなたは少し休むがいい。ここ数日ろくに眠ってもおらぬだろう」
の身を案じる声に、だがは静かに首を振った。
おそらくあと数時間で戦は終結する。
その時にこの場に残っているのは平家か、それとも源氏か。
「私、平家が好きです。素性の分からない私を拾ってくれて、末姫として慈しんでくれて。皆優しくて。大好きなんです」
ふわりと微笑うその瞳は黄金。
が清盛の前で神の力を使ったことはなく、その姿を知っているのは知盛と重衡のみ。
この世界に招かれた時の姿に、清盛の瞳が見開かれる。
平家の比売神。天照の神子。
神の化身のように美しいを呼称する言葉は、決して外見のせいだけではなかったことを今更ながらに思い出した。
最愛の末姫から発せられる神力に、清盛ですら圧倒され声が出ない。
「だから」
は言葉を続ける。
ここ最近見せていた儚い笑顔ではなく、強い意志を秘めて。
「私、運命を変えてきます」
一瞬で爆発した神気に清盛が目を閉じ、そして次に開けた時には愛しい末姫の姿は霞のように消えていた。
◇◆◇ ◇◆◇
平家の劣勢は拭えない。
源氏の神子が率いる一団は予想以上に早い時間で知盛の元へやってきた。
細い少女のどこにこれほど潜んでいたのかと思うほどの覇気に、知盛はにやりと笑う。
戦っている瞬間。それこそが生きていると実感できるときだった。
それ以外のことは興味がない――そう、あの少女の存在以外は。
誰よりも優しく、慈悲深く、そして弱い少女。
重衡を失い、敦盛を失い、多くの命が消えていった。
ここで将臣と自分が命を落としたら、はどれだけ悲しむだろうか。
負けるつもりはないが、知盛はこの戦で命を落とすだろう自分を確信していた。
源氏の神子は強い。
振るう剣に一切の迷いがないのは覚悟を決めた証。
鋭い刃のような神子の瞳を見て、知盛はうっすらと笑う。
自分が認めた唯一の剣士。
の幼馴染だと言う少女は、同じ神子でありながら剣を手に自らを血で染める戦女神だった。
甘い考えを持ちながらも飢えた獣のような目で自分を見据えるその瞳は結構気に入っていた。
驚くほどの速さで成長していった源氏の神子。
対決するのが楽しみだった。
その結果、自分が負けることがあろうとも、全力の勝負が出来るなら悔いはない。
振り下ろされる剣の軌跡を目で追いながら、知盛は御座船にいる少女を想う。
おそらく平家は負けるだろう。
だが御座船は逃げ延びるはずだ。
戦が始まると同時に将臣が南へ逃げるように指示していたはずだから、今頃は敵の手の届かない場所にたどり着いているだろう。
彼らがいる限り平家は続く。
少女も死ぬことはない。
(泣くなよ…)
やがて来るだろう衝撃に静かに目を伏せ――そしてその衝撃がいくら待ってもこないことに気がついた。
潮風が芳しい香りを運んでくる。
嗅ぎ慣れたそれは荷葉の香。
まさかと目を開けたその先に見えるのは、自分へと振り下ろされている刀を受け止めている白刃。
尋常ではない輝きを放っているそれを握っているのは――。
「…」
黄金に輝く剣を手に、もう1人の神子が立っていた。
- 10.06.05