それはまさに泡沫と呼ぶに相応しい、一瞬の夢だった。
の繊細な舞と知盛の流麗且つ大胆な舞は、静かで厳かにその場を支配する。
それもそのはず、の舞の師匠は当代髄一の舞の名手である平惟盛だ。
桜梅少将とまで呼ばれているほど雅な彼は、宮中でも光源氏の再来と呼ばれるほどの美男であると同時に比類ない舞手としても有名だった。
そんな彼が己の持つ舞をすべて教えた愛弟子がなのだ。
平家髄一の舞手に教わったの舞が一介の白拍子に劣るはずもない。
の舞は見る者全てを魅了する。
平家の中でも天女の舞いと称されるほどの腕前はの美貌のせいもあって相乗効果を増し、見慣れた将臣ですら思わず感嘆のため息が出てしまうほどである。
市井の民にとってはまさに天上の舞にも相応しい美麗さだろう。
かすかに薫る荷葉の香りの発生源は翻るの髪から。
重衡が好んで使用していた荷葉。
こちらで再会した当初のは、確か梅花を使用していたはずだ。
将臣は香には詳しくないが、平家に仕えるのならそのくらいは勉強しろと経正に叩き込まれたので基本的な知識としては知っている。
が荷葉を使うようになったのはいつからか、そう考えてふと浮かんだのがを誰よりも溺愛していた重衡の姿。
重衡が好んで使用していたのが荷葉だった。
平安時代とは思えないほどスキンシップ過多だった重衡のお陰で、の梅花の香りが消えてしまうと不満を漏らしていたのが随分と昔のように思えてしまう。
実際は僅か半年ほど前のことだ。
重衡が行方不明になってから、は荷葉を使い始めた。
まるで重衡の不在を埋めるかのように香を変えた。
僅かに目を細めて舞うの姿はまるで夢の中にいるかのようだが、恐らくその想像は見当違いではないだろう。
が柳花苑を踊ったことがあるのはただ一度。
春の宴の夜、安徳帝から見たいとせがまれて重衡と共に舞った一度だけだ。
彼女の脳裏を占めているのは、おそらく隣で舞う知盛と良く似た、だが全く違う青年の姿。
(傷は深い…か)
戦場で姿を消した重衡。
死んだという報告はないし、源氏に捕らえられたという証拠もない。
だが、あの激戦の中で殿(しんがり)を務めた重衡が戻ってこないということがどういうことを示すか、分からない平家一門でもないしでもない。
一門というよりは家族のように深い繋がりを持つ平家だから、確たる証拠がない限り重衡の死を認めることはないだろうが、将臣は正直なところ重衡が無事でいる確率は低いと考えている。
勿論将臣とて信じたいという気持ちはある。
一門のためというよりも、彼の生存を願っていながらも言葉にすることができない「家族」のために。
そして、夜毎無事を祈っているのために。
触れたら消えてしまいそうなほど儚く見える今の姿は、祈りを捧げる姿に良く似ている。
あの春の宴を思い出しているだろうの舞姿は、何も知らない者から見れば神々しいほど美しいだけだが、事情を知っている将臣にしてみれば痛々しく映る。
おそらくは断りたかっただろう。
それでも断らなかったのは望美の希望を叶えるためだろうか。
それとも、重衡と共に過ごした時間を思い出したかったのだろうか。
将臣には分からなかった。
「すごい…」
まさにそうとしか言えなかった。
の舞を見るのは勿論初めてなのだが、まさかこれほどの腕前だとは思わなかった。
自分も舞を習っているからこそわかる。
技術も表現力も自分とは到底違いすぎる。
舞には自分の心が表れるのだという。
それでは柔らかく繊細で、どこか切なくなるような舞は何を思って舞っているのだろうか。
それとも誰かを想っているのだろうか。
夢見心地の表情で舞っている姿は正に天女。
のことを一番良く知っているのは自分だという自負があったが、こんな姿は見たことがなかった。
神々しいまでに美しい。
望美の知らないがそこにいた。
舞が終了すると同時に歓声と拍手が降り注ぎ、半ば夢うつつの状態だったはぼんやりとその光景を壇上から見下ろした。
望美が興奮したように顔を紅潮させ、将臣がよくやったというように笑みを浮かべていた。
柳花苑を舞ったのは随分昔だったから舞を覚えているか疑問だったのだが、どうやら目立つ間違いはなかったようだ。
成功したのだと分かった途端膝から力が抜けてしまったが、体勢を崩す前に知盛に支えられた。
「成功?」
「この歓声を聞けば、そのようだな」
くしゃりと頭を撫でられて、は嬉しそうに笑う。
天女だ女神だと寄ってくる観衆をかいくぐって2人の傍に戻れば、興奮冷めやらぬ望美が飛びついてきた。
「! もうっ、最高!」
「うわっ」
勢いついた身体を受け止めれば、ぎゅうっと抱きしめられた。
何だか凄くテンション高いけれど、どうやら喜んでくれたみたいなので良しとしよう。
「凄い、凄い! もう、すっごく綺麗だった!」
「あ…あはは、ありがとう…」
「何て言うの? そう、神々しいって言うか、怖いぐらい綺麗っていうか。とにかくこの世のものじゃないくらい綺麗だった! さっすが私の!!」
ぎゅうぎゅうと力の限り抱きしめられる。
感動してくれるのは嬉しいが、少々、いや、かなり痛い。
こちらの世界に来てから鍛錬を欠かさない望美の筋力は、それなりの武将の力と大差ない。
護身術程度しか身体を鍛えていないとは比べ物にならない。
そんな望美が興奮しているせいか渾身の力で抱きついてくるものだから、の腕は先ほどから悲鳴を上げている。
放して欲しいのが本音だが、喜んでいる上に無自覚な望美に言うのは憚られてしまい、結局望美の気が済むまで耐えるしかないだろうと覚悟を決めたその時、何だか懐かしい衝撃と共には望美の腕から解放された。
「いい加減にしろ」
不機嫌な声が頭上からしたと思い振り仰げば、そこには眉間に皺を寄せた知盛の姿。
どうやら望美の腕から奪い取られたらしい。
「邪魔しないでよ」
「いい加減にしろと、俺は言ったんだ」
「女の子同士のスキンシップじゃない。何を怒ってるのよ。怒りたいのはこっちなんだから」
「…有川」
「あー、はいはい。望美、そろそろ着替えて出立しねぇと日が暮れちまうんだけど」
「ぶー」
「あと、お前の馬鹿力で抱きついたらは潰れるぞ」
「ひどい。か弱い女の子の力だもん。そんなことないよ。あ、ちょっと知盛。を離してよ」
「…か弱い女の子は太刀ぶん回したり知盛と打ち合ったりしねぇよ」
ぼそりと呟いた一言はどうやら望美には聞かれなかったらしい。
というか知盛の肩に担がれているが気になってそれどころではなかったらしい。
まるで手荷物よろしく抱えられているの顔色は先ほどと比べると少々悪い。
まさか本当に自分の力が強すぎたのかと一瞬頭をよぎるが、そんなことないよねと自分の腕力を把握していない神子はその可能性を放り投げた。
「? 大丈夫?」
「うん、ちょっと、疲れたかな」
困ったように笑うの言葉は半分本音だ。
確かに望美の力いっぱいの抱擁は腕やら肺やらにダメージを与えはしたが、それよりも疲労による足腰のダメージの方が大きかった。
平家の屋敷では蝶よ花よと育てられて動き回ることが少なかった。
それでも一般的なお姫様よりは十分動いているのだが、ここ数ヶ月は大気の澱みも影響してかの体力は少なくなる一方だ。
熊野は京よりも大気は綺麗だが、だからと言って消費された体力はそう簡単には戻らない。
普通に動くぶんには問題なかったが、舞の披露はさすがにやりすぎたらしい。
望美から庇っているようで、その実はの疲弊を察していたのだろう。
言葉は少ないけれど知盛はこういう時にとても優しい。
「じゃあ、そろそろ別の場所に行こうか。あまり長居してると確かに遅くなっちゃうもんね」
「そうだね」
見れば日は既に高く、移動時間を考えればそろそろ宿に戻らなければ真っ暗になってしまうだろう。
望美の仲間も、いつまでも戻ってこなくては心配するはずだ。
こんな場所でばったり会うのは好ましくない。
「…あー、お前ら、いい加減この視線に気づかねえか?」
「え?」
将臣の何とも居心地の悪そうな声にふと顔を上げれば、そこには舞が終了しても未だに帰ろうとしない人々の姿。
頬を紅潮させた子供達、涙ぐむ年配の女性。と望美に熱い視線を送る若い男性。
老人にいたってはを天女様だと拝み出す始末。
「あ…」
どうやらやりすぎてしまったらしいと気づいた一瞬後、4人は戦場でも見せたことのないほどの素早い撤退を開始したのであった。
- 10.01.29