熊野へと。
あの水軍の協力がどうしても必要なのだと決まれば、使者として遣わす人物は必然的に限られてくる。
平家の中でも重鎮、しかもそれなりの権力を持つ人物でなければならない。
熊野は源氏・平氏両家にとって縁の深い一族。
そして天下を手中に収めようとするにはどうしても味方につけておかなければならない強力な戦力だ。
では使者を誰にしようかと軍議の中で誰かが口を開いた。
「忠度殿はどうだ? 熊野は縁が深い場所だろう」
「いや、忠度殿は本陣を守っていただかねば。知盛殿では如何か」
「知盛は駄目だろう。あいつはおよそ使者という性格じゃねえ。それなら俺が行った方がマシだ」
「確かに還内府殿でしたら使者としては十分。ですがあそこは神域。還内府殿には少々居辛いのではないかと思われますが」
控え目ながら告げてくる声は、己を蘇った重盛だと信じて疑っていない人のものだ。
将臣自身は怨霊でもないし神域に入ったところで神罰が下るほど非道な行いをしているつもりもないが、事情を知らない者にしてみたら還内府が神域に入って祓われてしまっては困るというものだろう。
同じ理由で経正も却下されているのだから当然か。
だが、誰かが行かなければならない。
人材が不足しているのだから、ここはやはり将臣が適任だろうと口を開こうとして…。
「では、私なら問題ないのではないでしょうか」
軍議に割って入った涼やかな声に周囲が振り向いた。
◇◆◇ ◇◆◇
「殿…」
「」
振り返った先にいるのは、袿姿の。
根菖蒲という白地と濃紅色の衣装を重ねた姿は誰が見ても雅で、更にここ数年ではっとするほど美しく成長した姿は正に神の使いと言っても過言ではない神々しさだ。
本人は決してそれをひけらかすことはしないけれど、明らかに常人とは違う存在感に主だった武将ですら自然と頭を下げてしまう。
それらの中において居住まいを正すことなく部屋に入ってきたを面白くなさそうな顔で見つめているのは3人。
経正、知盛、そして将臣だ。
彼らがの姿をこうして見るのは、実に1週間ぶりだ。
福原を攻められた際、平家の民を1人でも逃がそうとしては知盛が止める間もなく力を行使した。
そのお陰で平家のほとんどが逃げ延びたが、元々弱っていたは疲弊して昏倒。
つい10日前に目を覚ましたばかりなのだ。
は流れるような仕草で将臣の前に座る。
ふわりと揺れる裾、衣擦れの音とともに漂う柔らかな香の匂い。
正にこの世のものならざる美を備えるようになってしまった幼馴染に、将臣の眉間の皺が一本増える。
少女から女性へと成長したは、そのあどけなさを女性らしいたおやかさに変貌させた。
肌は透けるように白く、背を覆う黒髪は闇夜の如く艶やかで。
憂いを帯びた眼差しは、かすかに伏せれば長い睫が影を落とす。
正に絶世の美女。
源義経の母である常盤御前は三国一の美女と讃えられたが、の美しさは天女の如き美しさだろう。
だがその頬が少しこけているように見えるのは気のせいではなく、それが一層彼女の儚さを際立たせている。
ただでさえ旅は危険なのだ。
況してや病み上がりだということを考えれば、過保護を自認している彼らがの言葉を歓迎できないのは当然で。
目の前に座るに将臣は首を振った。
「却下だ」
「では、どなたが使者に?」
「……」
間髪を入れずに訊ねられて、答えることができない。
将臣が行くべきだと思っているのは知盛と経正だけだ。
他の武将は還内府の不在を快く思わない。
それを言えばが出かけることも良しとは思っていないだろう。
だが彼らはをただの女性と思っていない。
神の力を授かった神子だからこそ、熊野を従わせることが可能なのではないかと、そう信じている。
現状が将臣にとって不利に働くのも仕方ないのだ。
それだけの奇跡を、は起こしているのだから。
「決まりですね」
扇で口元を覆ってにこりと微笑んだ姿に、周囲の武将が名案だとばかりに頷いた。
すっかりこの場の主導権を握られていることを将臣は感じた。
この場所に清盛がいれば間違いなくを使者にするなど認めないのだが、残念なことにこの場に清盛はおらず、決定権は将臣が持っているとは言え一族の総意を覆すことも、またできなかった。
長年の経験からこういうを言い聞かせることが難しいのは重々承知。
だがの体調を考えればこのまま大人しく休んでいて欲しいと思うのは当然で。
「…」
向けられた鋭い視線。
そこに含まれているのが非難の色だとわかっているのに、は笑う。
「人手が足りないのでしょう。使えるものは何でも使うべきよ。もう、何も出来なかったと後悔したくないの」
強い力を秘めた眼差しに、が何を言おうとしているかわかってしまう。
を止めることが出来るのはただ1人。
その人物は今、ここにいない。
(重衡…)
あの戦いで重衡と敦盛が戻らなかった。
捕らえられたという話は聞かない。
討ち取られたという話も、同じく聞いていない。
だが、戻らなかった。
何があっても戻ると約束した以上、戻れないのには理由があるはずだ。
だからこそ目覚めたは当然のように彼らを探しに行こうとした。
それを強引に止めたのは将臣と知盛だった。
布団から逃げ出さないように監視をつけ、少しでも力を行使しようとすれば強引に眠らせてでもそれを阻止した。
言葉にはしなくてもさぞや恨んでいるだろうと思う。
彼らとて2人のことは心配だった。
だがどこかに逃げ延びているにせよ捕らえられているにせよ、今の状況では探しに行くことすら儘ならないのだから、彼らにとっても苦渋の決断だった。
諦めたのかようやく大人しくなったのが1週間前。
身体はまだ本調子ではないはずだ。
顔色もまだ青白い。
だが、たとえ止めても無駄なのだろう。
横目で知盛を窺えば、眉間に皺を寄せていながらも言い返すことができずにいる。
反対したら単独で抜け出すに決まっているのだ。
面白くなさそうな顔をはぐるりと眺める。
ごめんねと言うように少しだけ眉を下げて、は立ち上がった。
「明朝、出発します。不安なら知盛さんを護衛に付けてくださいな。還内府殿」
否はなかった。
- 09.11.06