どれほど策を労そうとも、意味の成さないことがある。
磐石に敷いた布陣も、常識を覆す奇襲を前にしては無力だった。
結果。
平家は窮地に追い込まれた。
後方から鬨の声。
一瞬にして周囲に動揺が走ったのは至極当然。
今まで還内府が率いた軍は連戦連勝だった。
数では圧倒的に劣る平家が今まで互角の戦いをしてこれたのは、紛れもなく彼の策があってのこと。
未来が読めるようだと揶揄したのは誰だったか。還内府は皮肉げに笑うだけで答えなかったが。
その彼の策が破られたことは俄かには信じ難いこと。
すぐさま知盛の下へ伝令が走らされた。
状況は現在互角。だが遅くない時間で戦況は決するだろう。平家の敗北へと。
「陣を退くぞ」
将臣の声。は異を唱えることができなかった。
◇◆◇ ◇◆◇
殿を務めると言ったのは重衡だ。
奇襲を受けて統率の乱れた軍が完全に撤退するまで自軍を守らなければならない重要な任務は、確かに重衡程の実力者でなければ難しい。
知盛は別働隊、還内府は福原へ急行しなければならないのだから人材は限られている。
歴戦の将と謳われた教経は本人が望んだにも関わらず、相手が義経となると冷静を欠くだろうという還内府の提案によって認められなかった。
忠度は同行していない。残るのは重衡しかいないのはわかっているのだが、それを良しとしない者が1人。
怪我人の手当てをしている最中に聞かされた事実に、は陣を飛び出した。
向かうのは源氏の赤い旗が見える最後方。
見慣れたくない――けれど見慣れてしまった甲冑姿の義兄に抱きついた。
「私も残る」
「駄目です」
の主張を重衡が切り捨てる。
受け止めてくれる腕は優しいのに、の言葉を聞き入れてはくれない。
延々と繰り返されている攻防は、一向に進展が見られない。
お互い譲るつもりがないのだからそれも当然だ。
普段からに甘い自覚のある重衡だが、たとえ万の願いを叶えようともこの願いだけは聞き入れることはできない。
殿は戦の中で最も危険な場所だ。
しかも今は源氏が奇襲に成功して勢いに乗っている。
数で劣る上に勢いにも押されている今、下手をすれば全滅する危険だってあるのだ。
ただでさえが戦に同行することに反対だった重衡が、どうしてこの願いを聞き入れることができるだろうか。
泣きそうな顔をされても譲れないものは譲れないのだ。
…心が痛むのはこの際無視する。
「貴女は自分の立場をもう少し把握したほうがよろしい。平家の神子は戦女神ではない。慈悲の心を持つ、たおやかな比売神です。もとより戦場に出られるような御立場ではありません。御身がどれだけ平家にとって大切なものであるか、少しは学んでください」
「それを言うなら重衡さんだって平家にとって大切な人でしょう」
「私と御身では比べ物になりませんよ」
冷酷に言い捨てられての顔がくしゃりと歪む。
そんなことないと言い切らないのがの聡明なところだ。
神子として平家の旗印になることを望んだのは他ならぬ自身。
還内府の存在と同様に、彼女の存在が今の平家にとってどれほどの希望になっているか知らないではない。
剣1つ碌に振れないが残ったところで戦力にはならないことも。
武芸を知らない少女が刀を持ったところでいきなり強くなれるわけでもないし、の運動神経はそれほど優れていない。
それでも残ろうとするの意図は見え見えだ。
確かには剣を握ったことのない少女だが、その身の内には歴戦の武将ですら敵わないだけの力を有している。
神の力――それを使えば確かに犠牲は最小限で済むだろう。場合によっては誰一人死なずに済むかもしれない。
だが神力の行使はに多大な負担を強いるし、これほどの大きな戦で戦況を変えるほどの力を行使したがどうなるか想像に難くない。
誰が愛しい少女にそれほどの負担をかけられるだろうか。
彼女の役目は他にあるのだから。
「還内府殿」
おそらくすぐ傍にいるであろう人物の名前を呼べば、苦笑とともに現れた見慣れた顔。
さすがは幼馴染。彼女の行動はすでに把握済みか。
その手がの肩に置かれたのを確認して重衡は踵を返す。
「彼女を連れていってください。福原の民と共に、安全な地へ」
「――あぁ、わかった。お前も戻ってこいよ」
「ふふ。約束はいたしかねますが」
「重衡…」
「勿論、最大限の努力はしますよ」
死ぬつもりは毛頭ない。
だが、この命1つで一族が救えるのなら安いものではないか。
平家には清盛以外にも還内府と神子がいる。
彼らが平家を安寧の地へと導いてくれると信じている。
惜しむらくは、己の手で大切な少女を守り抜くことができなくなることか。
「重衡さん…」
泣きそうな声。それでも涙は見せないだろう。
彼女は自分の立場をよく理解している。
戦の前に告げた言葉。
妻に、と願ったそれ。
答えを貰わなかったことが、今となっては救いだ。
彼女を己に縛り付けずにすむのだから。
砂を踏む音。早く行ってほしい。
「戦が始まる前の言葉――忘れないで」
「!?」
思わず振り返る。振り返ってしまった。
黒曜石のような眼差しが重衡に向けられている。
「…?」
泣きそうな顔で微笑む。
多分、それが今の彼女の精一杯。
零れた涙。何よりも尊い彼女の想い。
「待ってるから。だから…きっと帰ってきてね」
笑みがこぼれた。
源氏の大軍がどれほどのものだ。
今の自分に敵うものなどいるはずがない。
「それが貴女の願いなら、百万の敵に囲まれようとも必ず戻ってみせましょう」
- 09.06.26