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止められない決意


妻に、と。
そう望まれたことは正直嬉しい。
初めて会った時から彼はずっとの味方であり、誰よりも信頼できる保護者であった。
特別な感情を抱いていたかと問われれば、おそらく否定できないだろう。
それでもは重衡の言葉に答えを返せなかった。
理由は自分が一番よくわかっている。



カサ、と草を踏む音がした。
振り返らなくても分かる。
大気に穢れが増えてからの力は以前よりも衰えたが、それでもすぐ傍にある気配を間違えることはない。
それだけ馴染んだもの。
かけがえのない大切な家族として。
気配を殺すことには長けた彼がこうして音を出すのは、にその存在を気づかせるため。
だからは振り返る。
普段なら戦を前に高揚しているはずの顔が、今はどこか険しい。
不利な状況であればあるほど生き生きと輝く彼だから、その表情が冴えない理由は自分にあると見て間違いないだろう。
過保護で、意地悪で、でもとても優しい人だから。


「見てた?」

聞くのも愚問だ。
大方の姿が見えないため探しに来たのだろう。
面倒臭いと他人任せにしそうなところだが、やはり彼はには甘い。
それとも単独行動を起こしてそうで放っておけなかったのか。
カシャン、と鎧の音が静かな空間に響く。
咎める顔。それは何に対してなのか。心当たりがありすぎる。

「お前は…愚かだ」
「うん、自覚してる」
「護られていればいいものを…死に急ぎたいのか」
「死ぬつもりはないわ。皆と一緒に生きていたいから。むしろ、死にそうな人を引っ張り戻すのが私の役目かな」

ふふ、と笑えば眉が顰められた。
彼は気づいているのだろう。の目的に。
重衡といい知盛といい、どうしてこうも簡単に見破られてしまうのか。
は感心する。
これが歴戦の将の器というものなのだろうか。
瞳に咎める色が浮かんでいるのを知りながらは笑う。

「誰も死なせたくないの」

甘いと言われるかもしれない。
この戦国の世、敵を殺さなければ自分が殺される。
不殺を貫いたところで、敵がいなくならなければ戦は終わらないのだ。
戦えない以上、その先に待っているのは滅亡。
それがわかっていながらもは殺すことを選べない。選びたくない。
だからこそ手に入れた神の力。
平家を護るために存在する神子。
己の身を供物とすることで、は護る力をその身に宿したのだ。
それほどの覚悟をは持っている。
重衡の想いも知盛の言葉も、の決意を覆すことはできない。

「お前がいなくなれば、皆が悲しむ」
「でも、平家は続く。誰も死ななくて済む」
「平家の未来など、時の流れが決めるものだ」
「時の流れに逆らってでも変えるよ。未来なんて」

強い眼差し。それは神子となる以前から変わらない。
女など運命に翻弄されるだけの弱い存在としか思っていなかった知盛にとって、はまさに不可解な存在だった。
護りたいと訴える姿は神々しいまでに美しいが、それはあくまでもの本質であって、神の力を持っているから故の驕りではない。
弱いくせに強く、だからこそ性質が悪い。
駄目だという言葉を聞き入れないのだから。

「重衡も、可哀相にな」

天女に恋をした男の末路は哀れなものだ。
どれほど希おうとも、その身はいずれ天に帰ってしまう。
それがわからない重衡でもあるまいに。
否、知っていて尚手に入れようと願うのか。
あの弟なら有り得ることではあるが。

笛の音が聞こえる。重なるように琵琶の音。
敦盛が同行しているのか、と知盛は呟く。
と同じく優しい性根の従兄弟。
座敷牢から出ることを是としないあの男が自ら進んで参戦したとも思えないが、彼も又自分と同じく平家の男だ。
護るべきもののために立ち上がったのだろうか。

間もなく戦が始まる。
後方に控えるがいつまでもこの場所にいるのはよくない。

、もう戻れ」
「…そうだね」

柔らかな髪を撫でる。
背を覆う漆黒の髪。染み1つない白い肌。
平家の宝よと人々は褒め称える。
神に愛されし神子よと崇め奉る。
その身に神の力を宿す、平家の守り神。
だが、知盛にとって目の前の少女は愛すべき妹でしかない。

「死ぬなよ」

それだけを告げると、知盛は踵を返した。

「死なないよ…まだ、ね」

広い背中に向かって呟かれた言葉は、知盛の耳に届くことはなかった。


  • 09.04.27