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還内府という男


「還内府?」

聞き慣れない言葉には首を傾げる。
厨で聞こえて来た女房の言葉はおそらく人の名前なのだろう。
凛々しくて頼りがいがあるということから、おそらく男。
それも敬称を使っていることから相応の身分にいる男性だと推察できる。
内府と言えば小松内府重盛が有名だが、彼は既にこの世にいない。
いやでも『還』内府と言うくらいなのだから彼に関係がある人物だろうか。
何となく惟盛に訊ねるのは気が引けて知盛に訊ねれば、返ってきたのは端的な一言。

「あぁ、それは兄上のことだ」
「重盛殿が知盛さんのお兄さんってことは知ってるの。そうじゃなくて、今、この屋敷で還内府って呼ばれてる人いるの?」
「だから、あれだ。あれ」

興味なさそうに指を指し示す先にいるのは鎧姿の将臣と教経。
最近戦場へ赴くことが多い将臣は、先日清盛から鎧を贈られた。
紺糸威鎧と大太刀。
同じ年の幼馴染はこちらの世界に飛ばされた時間の関係で2歳年上になっていた。
今年で20歳。
ぐっと背も伸び髪の長く、立派な成人男性だ。
こうして鎧姿を見れば、ひとかどの武将に見える。

「あの鎧と太刀は、重盛兄上が愛用していた品だ。父上は有川は怨霊として蘇った重盛兄上だと思ってるのさ」
「それで還内府って呼ばれてるの?」
「呼び始めたのは源氏のやつらだ。兄上は別に名前を騙っちゃいない。だが還内府の名前を出せば敵は怯む。本心はともかくこっちにとっては好機だと思っているだろうよ」
「で、知盛さんが将臣くんを『兄上』って呼んでる理由は?」
「ク…、軽い嫌がらせだ」
「意地悪だね」
「愛情表現、ってやつさ」

有川将臣という人物をは誰よりも知っている。
人望が篤くて面倒見が良くて、少々調子に乗りやすい一面はあったけれど、こちらの世界に飛ばされてからそれもなくなった。
常に冷静な目で周囲を観察し、大局から物事を見る目は平家の誰よりも鋭い。
清盛が間違えるほどだ。
外見だけでなく内面もよく似ているのだろう。
いつも笑顔の将臣だが、自分が還内府と呼ばれることに対して不服はないのだろうか。
こっそりと近づき、ぽすんと背後から抱きついた。

殿?」
「お、何だ。甘えてるのか」

身長差は広がる一方だ。
昔は自分の方が高かったのにと思えば何となく悔しい。
大きな背中は知らない男性のようで、でも頭を撫でる手のひらの温かさは変わらない。
硬い鎧。こんなものを着て欲しかったわけじゃないのに。
腰に佩いた太刀。
重い鎧を身に纏った姿は将臣の覚悟を示しているよう。

「あのね、将臣くん」
「何だ」
「私は将臣くんの味方だよ」
「何だそりゃ」
「言いたかっただけ」
「…そっか」
「私はいつでも将臣くんの味方だからね」
「サンキュ」

ごめんねと言えない代わりに抱きついた腕に力を込める。
本当なら戦なんてない平和な時代にいたはずなのに、こうして巻き込んでしまった。
将臣をこちらの世界に呼んだのは自分ではないが、それでも戦う理由の1つはがここに留まっているからだということをは知っている。
言葉にすれば選んだのは自分だと言われるだけだから、はただ抱きしめることしかできない。
隣で教経が目を丸くしているが無理もない。
幼馴染にしては親密すぎる態度。
それに将臣もも疑問を感じていないばかりか、少し離れた場所にいる知盛ですら気にした様子は見られない。
教経が知るという人物は思慮深く控え目な平家の神子。
時に強い眼差しを向けることもあるが、普段はおっとりとして慎み深い良家の姫君でしかないのだ。

「有川…、お前の世界では幼馴染というのはここまで親密なのか…?」
「まさか。こいつは特別。意外と抱きつき魔だからな。妹みたいなもんだし。幼馴染っつったってお前たちのと変わらねえよ」

これで流れが変わればいい。
将臣は武力で敵を葬り、は知力で平家を勝利に導く。
平家劣勢と言われるこの情勢で、還内府という存在は正直心強い。
名前だけで敵が怯んでくれるのなら無駄な血は流れないですむだろう。
他人の名前を騙ることは褒められたことではない。
だがそれで平家が守られるのなら、将臣もも選ぶ道は1つだ。

それが、2人が望む未来のためなのだから。


  • 08.12.10