眠れない。
時刻は深夜を過ぎようという時間。
そろそろ眠らないと本気で朝起きられないと思うのだが、どうしても眠くならない。
身体が疲れていないわけではない。
むしろ戦に出陣している将臣に代わって雑事を取り仕切っているのだから疲労は日々蓄積されて身体は重くなるばかりだ。
況してや戦場に赴いている家族の心配など、精神的な疲労も蓄積されているのだから、の疲労は戦場にいる彼らと大差ない。
それでも眠れないのは気持ちが高ぶっているわけではない。
(みんな、無事かなぁ…)
戦場にいる彼らが傷を負っていないだろうかと考えてしまえば不安で眠ることができない。
戦況は圧倒的に不利だと言われているが、の作戦と将臣や知盛らの戦績によって五分に近い状況まで持ち直している。
源氏の先発部隊である木曽軍との戦も、の知る歴史とは違う結果をもたらしている。
将臣にも知盛にも重衡にも怪我はないと聞いても、実際に見て確認したわけでないの不安は消えない。
だから眠れない。
ここ数年で何度目になるかわからない不眠症を患ってしまったことは、この屋敷の誰にも話していない。
勿論それを他人に悟らせるようなこともしていないつもりだ。
「重衡さん…」
今までに不眠に陥ったとき救いの手を伸べてくれる重衡は現在戦地に赴いていて、どんなに早くても帰参は明日の夜になる。
戦地からも体調に変化がないか文を送ってくる重衡だから、が不眠に陥っているとわかれば心配するだろう。
日々白くなっていく顔色は、そろそろ誤魔化しが効かなくなっている
化粧をすれば可能だろうが、元々は化粧をしないものだから、逆に一発でばれてしまう確率の方が高い。
「…あぁ、もう、どうしよう」
袿を頭から被っても睡魔が襲ってくるはずもなく、ごろごろと床の上で転がってみるがそんなことをしても何の解決にもならないことは本人が一番よくわかっている。
諦めたようにため息を一つ。
こうなったら眠くなるのを待つしかない。
数時間でも眠れればまだ大丈夫。
彼らが戻ってくるまでに元気なふりくらいはできるはずだ。
渡殿に出て階に座れば相変わらず見事な月夜。
庭に置いてある舞台は以前の宴の時のものか。
戻ってきたらまた宴を催そうという誓いのためか、普段ならば撤去されているはずの舞台がそのまま置かれている。
宴が好きな平家。
美しいものが好きで雅やかなことが好きで。
がやってきた3年の間にどれだけの宴を開いただろう。
少し高い舞台には上る。
階段は外されているから少しだけ力を使った。
ふわり、と舞台に降り立つ。
この程度なら大丈夫。影響はない。
肩から落ちそうになっていた袿をかけ直して、扇を広げる。
白地に桜模様の扇は惟盛からの贈り物だ。
の雰囲気そのものだと贈られたそれはの懐から離れることがないほどの気に入りの一品となっている。
静かに翻る腕、夢見るような眼差し。
舞の腕は一流だ。
無駄のない動きには一分の隙もない。
の舞は空気に溶けるようだと称したのは誰だったか。
静かで静謐で、まるで大気に溶けてしまうように儚い。
美しいが触れたら消えてしまいそうに繊細な舞はの人柄をそのまま示しているようだと言われた。
自身は自覚がないが、誰もが口をそろえて言うのだから多分そうなのだろう。
口ずさむ歌はの世界のものだ。
こちらの世界での歌もいくつか知ったが、今のの心境を表すのはやはり慣れ親しんだ元の世界の歌が感情を込めやすい。
静かな祈りを込めた歌は、不思議とこの世界の舞にあっているように思うのは気のせいだろうか。
歌い終えて扇を閉じれば、聞こえてきた拍手の音。
「重衡さん…?」
まだ帰路の途中にいるはずの重衡が、甲冑姿のままそこにいた。
「うそ…幻…?」
「幻ではありませんよ。が呼んでいるような気がしたので急いで戻ってきたのですよ」
「だって、予定では明日の夜って…」
「貴女に会いたくて飛んできた、と言ったら信じていただけますか」
重い甲冑を苦にもしていない身軽な動作で舞台に上がってきた重衡は、零れ落ちそうなほど見開かれたに優しい笑みを浮かべながらそっと頬に触れた。
「私がいなくて寂しかったですか?」
「……っ!」
耳元で囁けば一瞬で朱に染まる少女。
己の我侭をすべて押し隠して、本人ですらそれに気づいていない。
月夜でもわかるほどこけてしまった頬。
おそらく満足な睡眠など取っていないだろう。
それでもの美しさを損なうことがないのが不思議だ。
出会った当初はあどけない少女だったも3年という月日を経て美しい女性へと成長した。
それでも純粋な心根は以前のまま。
誰よりも一緒にいた時間が長い重衡だからわかる、の心の葛藤と不安。
寂しい、と思うことすら自分に許さない程強い。
だけれどもすごく不器用な女性だ。
幻と思うほどに想ってくれているのならば、一言言えばよかったのに。
戦が終わったのは3日前。事後処理をしていた関係で帰参には数日かかったが、が早く帰ってきてほしいと言えば何を置いても帰ってくるのだが。
頻繁に送られてくる文はこちらを心配するものばかりで、の私見など少しも入っていなかった。
はストレスが体調に出るタイプだ。
まず食欲がなくなる。そして眠れなくなるのだ。
それでも動くことをやめないから、精力的に動くを見て誰もがだまされる。
だまされないのは昔から知っている将臣と知盛、そして重衡だけだ。
今回はその3人ともが出陣することになったから、誰もの不調に気づけないだろうと案じた通り、目の前のの表情は隠せない焦燥が浮かんでいる。
「まったく…」
「え…ちょ…えぇっ?!」
諦めたようなため息をひとつついて、を肩に担ぎ上げた。
色気がない抱き方だが、普段の狩衣ならまだしも甲冑姿で普段の抱き方をすれば甲冑が当たって痛いだろう。
平均よりも小柄な身体は片手で支えても苦にならないほどの軽さだ。
少し痩せてしまったらしく、腕にかかる負担は今までに比べて少ない。
「し、重衡さん。自分で下りられる!」
「駄目です。また眠っていないのでしょう。足元がふらついてますよ」
「それは久しぶりに舞って疲れたから」
「聞こえませんね」
「重衡さんってば」
「大人しくしていないとただでは寝かせませんよ」
「…っ!!」
支えるための手に力を入れれば、小さな身体はぴたりと止まる。
相変わらずにはこの手の脅しのほうが効くらしい。
それに先程のの様子を見ればそろそろいつものアレが来るだろう。
かくんと大人しくなった身体。
くったりと体重をかけて寄りかかってくる様子はよく知ったもの。
人肌が気持ちを落ち着けてくれるのは知っているが、相変わらずの反応は顕著だ。
「皆は無事ですよ。明日の午後には到着します。兄上も将臣殿も傷ひとつ負っていません。もちろん私も」
「…しげひらさん」
「だから、眠ってしまいなさい。不安は、もう、ありませんよ」
「…うん、ありがとう。…ねえ、しげひらさん…」
舌ったらずな話し方は普段よりも幼い。
だがそれが可愛いと思う。
「何ですか、」
「……おかえりなさい」
「ただいま帰りました」
やがて聞こえてきた寝息に重衡は小さく笑った。
- 08.11.22