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桃源郷は炎に消えて


暖かい場所。
信じていた世界。

失うのは、こんなに簡単だ。





呪詛の対象は清盛だった。
誰が、という疑問はこの際どうでもいい。
平家を恨む者は数多い。
摂関家も源氏も平民も、そして後白河法皇ですら清盛の権勢は歓迎できるものではなかったし、事実細かい勢力争いなど日常茶飯事だった。
それを上手く回避していたのは清盛の力量だし、そう簡単に失脚できないだけの磐石な布石を打っていたからでもあった。
その清盛が殺された。
表向きは病死ということになっているが、清盛の病が仮病なのはこの屋敷に住む者全てが知っている事実で、清盛の亡骸を見て病死と判断する人物などいない。

問題はこの後どうするべきか、ということである。





   ◇◆◇   ◇◆◇





「都を出るべきです」
殿?!」

不思議そうに目を瞬かせたのは宗盛だ。
今後どうするかという評定の儀に現れた平家の養い姫は、失礼だとは思いますがと前置きをしてそう切り出したのだ。

「呪詛に穢された地に帝を置いておくわけにはいきません。この地は既に収拾がつかないほどに穢されています。女御様が病に倒れたのはそのせい。遷都でも引越しでも何でも構いません。ここは、速やかに福原へ移るべきかと思います」
「ですが準備が」
「準備ならば義父上が既に済ませていたはず。荷物など後から運ばせればよいでしょう。まずは帝と女御様をこの穢れた地から離すことが何よりも優先です」

の力でも、そう簡単にこの穢れは消せない。
渦を巻くように屋敷を取り囲んでいる怨嗟の念。
屋敷を守護していた力は霧散し、少しずつではあるが人体にも悪影響を及ぼしてきている。
まず最初に倒れたのは女御である徳子だ。
彼女は本来屋敷の奥深くから姿を現さないが、その日偶然にも清盛の部屋に姿を見せていた。
居心地の悪い宮中から戻ってきた当初は引きこもりがちだった彼女も、住み慣れた屋敷に戻ってきた気楽さもあってか、ようやく昔のように朗らかな笑顔を浮かべるようになったと、久しぶりの親子の語らいを楽しんでいた矢先に起こった今回の惨事。
御簾越しとは言え尊敬する父を目の前で失った恐怖と哀しみは、ただでさえ細くなっていた神経をすり減らすには十分だったらしく、あの日以来彼女は起き上がる気力すら失くしてしまった。

次に不調を訴えたのは帝である。
敬愛する祖父の死、そして母の病と、幼い子供の精神には多大な負担をかけた。
何よりも呪詛の影響で屋敷内には昼夜を問わず魑魅魍魎が跋扈するようになってしまったため怯えているのだという。
が気づいて祓うものの、圧倒的に数が多くその数は減ることがない。
そのですら呪詛の穢れの影響には無関係ではなく、むしろ神の巫であるために穢れには人一倍敏感だ。

本来ならば清盛の葬儀が終わるまではここにいるべきなのかもしれない。
だがそうなれば呪詛の影響は修復できないほどに平家を蝕むだろう。
京から応龍が失われるほどの呪詛。
それが政敵1人を滅した程度で終わるはずがない。
更には清盛の死が源氏に伝わるのも時間の問題だ。
幸い源氏が出兵したという報告はまだ入っていないが、既に彼らの元にも情報は届いているかもしれない。
そうなれば一刻の猶予はない。
摂関家であれ源氏であれ、彼らを迎え撃つにはこの場所は不向きだ。

比売神と呼ばれているものの、実質は平家の末姫と何ら変わりのないが突然告げた内容に、居並ぶ公達からは困惑の色が浮かぶ。
元々女性が政に口を挟むことなどありえないことだ。
特には見るからに良家の子女と言った風情で、これまでも政や戦に口を挟んだことなどなかった。
だからこそ清盛の死後、一向にまとまらない評定の儀にが乗り込んできたことが信じられない。

「時間がないのです」

強く見据えた視線を受け止めたのは、がただの姫君ではないと承知している人物達で。
ややして決意したかのように紫の瞳が伏せられた。

「――移るぞ」

まず立ち上がったのは知盛。次いで重衡も優雅に席を立つ。

「そうですね。牛車の用意を。帝と女御を福原へお移し致します。教経殿、護衛をお願いできますか?」
「あ、あぁ」

向けられた瞳にわけがわからず教経が頷けば、では早急にという静かな声が振ってきた。
状況が掴めないまま、だが歴戦の将としての勘が事態の重さを察して立ち上がった。

「知盛殿?! 重衡殿に能登殿まで…」

「俺は西国に連絡を取る。行動は迅速に、だろ?」
「ありがとう。兵力も勿論だけど、兵糧の確保だけはお願い」
「任せとけって」
「ま、将臣殿まで?」

客人扱いではあるが、清盛の懐刀としての評価が定着した将臣ですら、の言葉に何一つ異を唱えることなく動いていく様に、周囲の動揺は大きくなる。
平家の次期当主は宗盛だ。
本来ならば宗盛の許可を得ない行動など平家の総意とはみなされないのだが、知盛重衡教経と続いて席を立ってしまっては反論することすらできない。
況して指示したのが『平家の神子』であれば尚更。

宗盛は下座に座る少女に目をやる。
小柄な少女。
人好きのする笑顔は今は隠され、多くの視線を浴びながらも毅然と宗盛を見つめている。
膝の上に置かれた手は緊張のせいだけではないだろう、きつく握り締められていて。
涙の跡が残る眼差しは、自分達では理解できない強い決意を称えていた。

「皆、我らが神子の言う通りにせよ」
「宗盛様…」
「そなたは我らが守り神。そうであろう?」
「…ありがとうございます」

普通の少女だと思っていた。
だが、彼女は清盛が認めた比売神。
神の世界から遣わされた神子の言葉に逆らうことが得策とは思えない。
彼女が平家を思う気持ちに偽りがないことくらい、目をみればわかるというものだ。

「して、ここはどうなさるつもりか?」
「――炎による浄化を」
「貴女にお任せしよう」

深々と頭を下げる少女に、宗盛は優しい眼差しを向けた。





   ◇◆◇   ◇◆◇   





住む人のいない屋敷というのは、こうも寂しいものなのだろうか。
数日前は多くの人に溢れていた清盛邸。
今は物音一つしない。
運べるだけの調度品は移動させた。
大きな家具は置いていくしかない。
引越しというよりも夜逃げのようだと思ってしまうのは仕方ない。
実際夜逃げも同然なのだから。
静まり返った邸内。水音一つしない庭。
多くの花が競うように咲き乱れた庭園は、屋敷を取り巻く瘴気によって既に枯れている。
廃墟のように見えてしまうのは、それだけこの地が穢れているからだ。
呪詛は龍脈を通して広がり、わずか1日しか経過していないにも関わらず京の町へと侵食を始めていた。
応龍の加護を失った京は、おそらくこれから衰退の一途を辿るだろう。
全ての穢れを浄化することは不可能だ。
それでもこの穢れを放置するわけにはいかない。

「火之迦具槌神――」

の声に応じるように、目の前の屋敷が炎に包まれる。
この国を創生した二神が最後に産み落とした神。
その業火を以って、どうかこの穢れた地が浄化されますように。

思い出は沢山ある。
愛着がないはずがない。
春の訪れを知らせてくれる梅の木も、大輪の花を咲かせた桜も。
時間があれば散策した庭も大好きだった。
池に落ちて大騒ぎになったことも記憶に新しい。

すべてがに優しかった。
大切な思い出の地。
離れたいわけではない。

それでも。



「さようなら」


  • 08.09.08