熊野と言えば、熊野三山。那智の滝。
勝浦の湊と数え上げれば切りが無い。
全てを見て回りたいという我侭はさすがに通用しなかったけれど、京にいる時とは比べ物にならないほど外出を許可されたさくやは終始上機嫌だった。
尤も傍らには常に知盛か重衝の姿があったのだが。
それでもすべての行動を規制されていた京とは雲泥の差だ。
さて、そんなは本日宿にて留守番である。
清盛達は熊野別当の許へ赴いている。
本当ならばも誘われていたのだが、おそらく酒宴が設けられているだろうと同行を断ったのだ。
熊野詣が本来の目的ではないということを察してしまったのは、現在の戦状況を考えれば簡単で、それでも明るい笑顔でそれらをまったく悟らせない清盛はさすがだと言える。
二位の尼も同行している家人達も、何一つ気付いた様子はない。
が気付いたのは、偏に歴史を知っているからに他ならない。
それにしてもここ最近の清盛は焦っているように見える。
1年弱ほどの付き合い。それでも出会った当初より物事を急いでいるように思えるのだ。
最初はの気のせいかと思っていた。
だがそんな折に出された南都征伐の命。
神社仏閣を焼き払うなどという命令、以前の清盛なら決して下さなかっただろう。
重衡や惟盛ですら最近の清盛の変貌に薄々気付いているようだ。
時間がないのは確かだ。
清盛の年齢は72歳。まもなく73歳になる。
現在の平均寿命はおよそ40歳。
元気に見えるが、すでに平均の倍近く年齢を重ねている。
大して敵将の頼朝は33歳。
まだまだ勢力は平家のそれとは比べ物にならないが、それでも木曽の軍を筆頭に勢いがあるのは確かなわけで。
況してや平家には清盛の後継者となれる人物がいない。
次期棟梁は宗盛だが、彼は善良だが政治的手腕が優れているわけではなく、清盛のようなカリスマ性を備えているわけでもない。
平家の礎が万全のものであれば問題ないが、戦乱の今では彼では力不足だ。
清盛もそれがわかっているから焦っているのだ。
これが悪い方向へ転ばなければいいけど、と小さくため息をついた。
文机に向かうは思案顔で文を眺めている。
拙い文字は、まだこちらの世界に来てから間がないため仕方ない。
むしろにとっては読みなれた文字。
書道の経験がない彼がこの文を書くのにどれだけ苦労しただろうと思うと微笑ましい。
本人に言ったら怒られるのだろうけれど。
文の差出人は将臣だ。
清盛の名代として西国に赴いている将臣からの定期連絡だ。
本来ならば清盛に直接届くべきはずのそれ。
の手にあるのは、清盛がこちらの世界の文字を読めないからだ。
「手習いはしているはずなんだけどねぇ」
確かに仮名と漢字の入り混じったこの文章は清盛に判読しろというのは酷だろう。
そのため将臣からの文は一度の元に届けられ、が清書して清盛に渡しているのだ。
勿論誰かに見られる可能性のある文に重要な事項は書かれていない。
それでも将臣が頻繁に文を寄越してくれるのは、もしかしたら外出すらままならないへの気遣いかもしれない。
が何の役にも立てないことを気にしているのを知っているから。
戦に関わることは将臣も反対しているけど、文の清書程度なら問題ない。
そう思っているから、将臣の手習いは一向に上達しないのだろうか。
将臣からの文では現在のところ平家側につく武将が多い。
細かい事情は知らないが、こうして外交の様子を知ることができればも多少なりとも安心できた。
それでも、憂慮は消せないのだけれど。
清盛の焦りと同様、も心中穏やかではない。
何しろは源平の歴史をすべて知っているのだ。
勿論のいた世界の歴史通りに進むとは思っていないが、それでも聞く限りほぼ同じ道を進んでいる。
そうなれば平家が滅亡する可能性が極めて高いということ。
「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり…か」
幾度となく読んだ平家物語。
それを目の前で再現させるつもりは毛頭ない。
そのために選んだ神子としての人生。
危険を伴わないわけではない。
それでも何よりも守りたいものがあるから、譲るわけにはいかなかった。
清盛が一族を守るように。
重衡がを守ると宣言してくれたように。
も皆を守りたいのだから。
そのために出来ることをするだけだ。
は将臣の文を丁寧に畳んで文箱に収める。
代わって取り出したのは真新しい料紙。
さらさらと紙の上を筆が動き、流麗な文字を残していく。
一言二言の短い文章。だけどそれだけで十分。
彼ならきっとわかってくれる。
「まあ、驚くだろうけどね」
戻ってきた時が楽しみだと、は笑った。
- 08.05.10