一度は行ってみたいと思っていた場所。熊野。
突然の旅行で思いもかけず訪れることができたことは嬉しい。
賑やかな市。
活気溢れる周囲。
行き交う人々は皆笑顔で。
だが、はそれらを一瞥して首を傾げた。
「あらまあ、大変」
菫色の髪をした同行者の姿はどこにも見当たらない。
どうやら迷子になったらしい。
◇◆◇ ◇◆◇
迷子、というと聞こえは悪いかもしれない。
実際泊まっている宿の場所は分かっているし、それほど遠くへ出てきたわけでもないのだ。
敦盛とはぐれてしまったのは問題あるが、彼がどの辺りにいるかというのは大体わかる。
神子としての力とでも言えばいいのだろうか。
平家の誰がどの場所にいるか探ろうと思えば難しくないのだ。
はほんのわずか目を閉じる。
敦盛の気配はどこまでも清らかで。
それでいて凛とした少年特有の強さを持っている。
見知った気配を感覚の端で捉えて、は小さく頷いた。
大丈夫。敦盛は重衡と一緒だ。
気落ちしていなければいいのだけれど、とひっそりと呟いた。
教経が用意してくれた唐菓子と、二位の尼が用意してくれたお茶。
長旅で疲れているだろうからと誘われ、それなら大勢の方が楽しいからと皆を呼びにでかけた時は、まったく外出する気などなくて。
惟盛や経正に声をかけた時も、本当にすぐ部屋に戻るつもりだったのだ。
それなのにどうして宿の外にいるかと言われれば返す言葉もないのだが。
「だってねぇ、楽しそうだったんだもの」
近くで市があるようですよ、と言ったのは経正の所の女房だっただろうか。
琴を教わるために何度か足を運んでいた際に見知った女房。
少し年上の面倒見のよい女性で、も多少なりとも親しくしていた人だったから、ついつい言葉に耳を傾けたのが悪かった。
こちらは大陸と貿易をしているから、珍しいものも沢山ありますよと言われては黙っていられない。
むくむくと湧いてきたの好奇心を押さえることは、大人しい敦盛には到底無理な話で。
制止する敦盛にほんの少しだけだからとねだって歩いていった先。
そこは予想以上に賑わっていて。
京とはまた違う活気に嬉しくなって、気がつけば敦盛の存在などすっかり忘れてしまっていた。
その結果、はここに1人でいる。
あの心優しい友人を困らせるつもりは毛頭なかったのだけれど。
「敦盛さん、ごめんなさい」
とりあえず、敦盛がいる方向へと両手を合わせて謝った。
◇◆◇ ◇◆◇
熊野は神聖な場所だ。
伝承も神話も数多く、整然と整った京の町しか知らないには何もかもが珍しかった。
歴史好きのが浮かれるのも無理はない。
いつまでも見ていたい気もするが、さすがにそういうわけにはいかない。
そんなことをしたら戻ってから知盛と重衡にどれほど説教されることになるか、想像するだけで恐ろしい。
どうしてああも過保護なのだろうと思う。
は生粋の貴族のお姫様ではないし、ここ最近は神の加護を得たお陰で自分の身は自分で守ることができるというのに。
勿論率先して騒動に巻き込まれるようなことはしないし、普通に町を散策する程度なら1人で大丈夫だと思っている。
知盛や重衡に言わせればそういう問題ではないと言われるのが、どうにも納得できない。
義兄2人の気持ちなど、まったくわかっていないである。
歩いた先で発見したのは、一軒の露店。
見たこともない果物やら木の実やらがずらりと並んでいる。
好奇心に負けてふらふらと近づいた。
「おばさん、これ何?」
「おや、綺麗なお姫様だねぇ。これは棗さ。甘くて美味しいよ。ほら、一つ食べてみるかい」
「ありがとう」
気さくな店の主人に声をかければ、小さな木の実を渡される。
言われるままに食べれば、さくっとした爽やかな甘さが口の中に広がった。
「不思議。林檎みたいな食感」
「あぁ、確かに食べた感じは似てるかもしれないね。これは天日で乾かせば薬にもなるから重宝だよ。あと、若い娘さんには椿桃も人気があるよ」
「じゃあ、これとそれと…あとあれもください。干し杏みたいの。生憎お金を持ってないので、この簪と交換でいい?」
「交換って…、あんたこれ随分と上等な珊瑚じゃないか。これ一つで全部の品物と交換できるよ」
「ううん、持って帰れるだけの量でいいの。棗、美味しかったです。ありがとう」
見たことのない果物。
この時代に栽培技術があるとは思えないから、おそらく自生しているのだろう。
甘味の少ないこの時代。果物は最大の甘味料だ。
自生しているのなら、多分栽培もできるはず。
女性なら甘いものに目がないのは当然。
こちらの世界に来て何が哀しいかと言えば、圧倒的に甘いものが少ないことだろう。
ケーキやアイスなど問題外。
あるものと言えば果物か唐菓子。
唐菓子は所謂焼き菓子だが、砂糖をまったく使っていない。
小麦粉を練って油で揚げたようなものだから、菓子と呼ぶには少々物足りない。
こちらの世界では甘味は貴重で、以前聞いたところ砂糖はすべて輸入に頼っているのだという。
値段もとても高価な上、国内に入ってくる量も少ないらしい。
さすがの清盛でも存在しないものは用意できない。
では蜂蜜はどうかと思えば、こちらも養蜂技術がないため自然に取れる量しかないとのこと。
多少は手に入るが、それでもの世界とは雲泥の差だ。
そうなれば残された手段はたった一つ。
自分で作ればいいのだ。
「本当はサトウキビが欲しいんだけど」
砂糖の原料として栽培されるようになったのは江戸時代からだが、サトウキビ自体は奈良時代にすでに日本に渡ってきたはずだ。
どうにかして手に入らないだろうか。
「まずは食料の確保。あとは…」
おそらくすっかり機嫌を損ねているだろう身内への手土産も忘れてはならない。
多分こんな程度では機嫌は直らないだろうが、申し訳ないと思っているのも事実で。
何かないだろうかと新たな露店に目を向ければ。
背後でくすり、と笑う声がした。
- 08.03.17