Sub menu


天に祈る


夜半になって強まった風は、小さな炎を一瞬にして森を包み込むほどの業火へと変貌させた。
見張りを怠らないようにと再三指示を出しておいたが、やはりこの風だ。
恐れていたことが現実となってしまった。
慌てて消火活動を行うものの、所詮自然の脅威に勝てるはずなどなく、火の勢いは増すばかり。
やがて東大寺・興福寺と炎は飲み込んでいき、目の前の光景はまるで阿鼻叫喚の地獄絵図のようだ。

「このようなこと…」

このままならば放っておいても平家の圧勝に終わる。
だが、それはあってはならないことだ。
清盛は征伐を命じたけれど、焼き討ちを命じたわけではないのだ。

「火を…! 一刻も早く火を止めるのです!!」

運の悪いことに、ここは森の中。
火を止めるための水も碌に確保できず、手をこまねいて見ているしかできないのが口惜しい。



「重衡さん!!」
「兄上と、…?!」

燃え広がった炎を少しでも消し止めようと指示をしているところに突然現れたのは、京にいるはずの義妹。
走ってきた勢いのまま懐に飛び込んできたを抱きとめれば、それが幻ではないとわかったものの、どうしてここに来たのかという疑問は解決しない。

「火は? 東大寺は全焼しちゃったの?」
「いえ、そこまでは…。ただ門扉には既に延焼しているようで…」
「そう…。ならよかった」

安堵したように呟くの声は重衡の耳には届いていない。
小刻みに震える指先。
それは寒さのせいではない。
他でもない、この自分の手で、寺院が焼失などという事態になってしまうことが、恐ろしい。

「大丈夫だよ。重衡さん」

震える手をきつく握り締めてくれたのは、自分よりも小さな手だった。

?」
「焼き討ちなんて汚名、着させないから」

じっと見上げてくる瞳は、琥珀。
炎に照らされているせいではないそれは、一度だけ見たことがあった。
驚いて知盛を振り仰げば、心得たような知盛の顔。
この瞳を見るのは初めてではない。
と初めて会った夜、眩い光と共に現れた平家の比売神。
神々しい美しさと、黄金に輝く瞳が今も脳裏から消えない。

…」
「女神が力をくれたの。皆を守る力。だから大丈夫。大丈夫にするの」

この国を統べる女神から、全権の力を与えられた。
の力は、この国を守る力。
国に仇なす者を葬るための、戦う力だ。
運命を変えることを条件に、はそれを享受した。

運命を変えること。
それは平家を滅亡から救うことだ。
そのために、この南都焼き討ちはどうあっても防がなければいけない。
大きな歴史の流れ。
変えることは容易ではないけれど。
この力があれば、それも可能なはず。

祈るように両手を合わせ、は静かに目を閉じる。
身の内に感じる力を引き出すのは簡単だ。
問題なのは制御することだけ。
逸る心を抑えつつ、は静かに祈る。

(お願い……っ)

の身体から黄金の光が溢れてくる。
目を開けていられないと感じたのは一瞬のこと。
淡い燐光を放つ姿は夜目にも鮮やかに映って。

「―――!」

やがてポツリ、と頬に雫が落ちた。

「雨、だと…」

風は強いが雲ひとつない星空。
それが一瞬にして暗雲に覆われている。
折からの強風が更なる雨雲を連れて、周囲に恵みの雨を降り注いだ。
小さくなっていく炎。
時折雨に負けないようにと勢いを増す箇所もあったが、少しずつ小さくなり次第に鎮火していった。

明らかに自然の力ではないそれ。
誰の仕業か、なんて聞かなくても分かる。



天照の神子。



そう呼んだのは確証あってのことではなかった。
あの日現れたがあまりにも神々しかったこと。
黄金の光を身に纏っていたこと。
何よりも、人智を超えた登場の仕方から、誰ともなく囁かれた言葉だったのだが。

それが間違っていなかったことを、重衡はこのとき確信した。


  • 08.02.12