風が強かった。
ただでさえ冬の寒い時期、視界を遮るように吹きすさぶ風は否が応にも行軍で疲れた男たちの体温を奪っていき、陣地を張り終えた時には皆寒さで凍えていた。
酒を振舞って寒さを凌ごうとしても、かすかに温まった体温は冷気に晒されてすぐに熱を奪われてしまう。
このままでは凍死してしまうだろうと判断した重衡が、火を灯すことを許したのはつい先ほど。
これほどの強風だ。危険を伴うことだけれど、他に身体を温める方法がないのだから仕方がない。
決して火の側を離れないこと。
燃え移りそうなものがある場所は避けること。
そう言い含めておいたけれど、どれだけ注意してもほんの少し炎がはぜただけで燃え広がる危険性はかなり高い。
今はまだ大丈夫だが、風の向きなどいつ変わるかわからない。
風向きが変われば森が炎に包まれるのは必至だ。
「どうか、このまま…」
重衡は空を仰ぎ呟く。
それはまさに神頼みでしかなかった。
陣幕の内で重衡が今後の作戦を練っていた頃。
知盛は1人森の中へと足を踏み入れていた。
明日の作戦は重衡に任せておけば問題ない。
本能的に戦う知盛と違い、重衡はいつでも冷静。
敵の行動を二手も三手も先読みする重衡の戦略はいつも完璧だ。
兵は重衡の采配に従い、知盛はいつも通り目の前にいる敵を倒すことにのみ専念すればいいのだ。
それはお互いが信頼しているという証拠。
平家には歴戦の武将が多いけれど、知盛が無条件で自分の背中を預けられるのは重衡だけ。
教経も確かに武勇に秀でているけれど、どちらかと言えば知盛と同じ性質だから、血気に逸り足を引っ張られないとも限らないのだ。
自分と違い思慮に長けている重衡だ。
最善の策を練ってくれるだろう。
南都の僧侶達を皆殺しにするのは構わないが、おそらく重衡はそれをしない。
平家の中でも特に信仰心篤い重衡が、僧侶を相手に戦うことを望んでいないのは知っている。
だが棟梁である清盛の言葉に逆らえるはずもなく、また、彼らの愚かな行為を庇い立てできるわけでもなかった。
知盛としては戦ができるのならば誰を倒そうとも構わない。
ましてや重衡のように信仰心が篤いわけでも、経正のように慈悲深いわけでもない。
知盛にとって早く戦を終わらせることができれば何でもよかった。
早く京に戻ることができればそれでいいのだ。
知盛は眠ったままだった義妹の姿を思い出す。
行ってらっしゃい、という声を聞かなくなってからどれぐらいだろう。
それはほんの1週間ほどのことだったが、随分と長い間聞いていないような気がする。
風邪をこじらせて寝付いてしまったは、ここ数日のあいだに熱も引いたようで、寝姿を見ても随分と安らかそうに見えた。
よく眠っているため起こすのも偲び難く、結局出立の朝までと会話をすることは叶わなかった。
もっとも戦に行くなどとは言えるはずもないから、丁度よかったのかもしれないが。
「…」
貴族の姫君らしくなく、元気な義妹。
元気が過ぎて池に落ちたのはつい先日。
誰もが肝を冷やし狼狽した。
それでもあのように臥せってばかりいる姿を見せられるよりは元気な方がいい。
戦が長引かなければ、1週間もせずに戻れるはずだ。
所詮僧侶。
生粋の軍人である知盛や重衡を相手にどれほど抵抗できるだろうか。
勝敗は目に見えている。
あの塀の向こうに自分を高揚させてくれる強敵がいるとも思えない。
勝敗の歴然とした戦いなど、何が面白いだろう。
望むのは命を賭けた戦い。
木曽の軍とは比べるべくもない戦を、どうして楽しめるだろうか。
「つまらん、な」
感情のこもらない瞳を寺院へと向ければ。
視界の端にひらり、と金色の蝶が舞った。
ひらひらと漂いながら森の奥へと進んでいく蝶は、以前にも見たことのある姿で。
それが現れた日を、知盛は忘れていなかった。
月夜の管弦の日、舞台に現れた金色の蝶。
そして――。
「……」
確証があったわけではない。
ただ、闇夜に輝く小さな蝶はどう見ても不釣合いで。
つい、吸い寄せられるように目で追えば。
深い森の中。
それは突然現れた。
- 08.02.02