天照の神子。
そう呼ばれるのは初めてではない。
がこちらの世界に飛ばされてすぐ、清盛からそう呼ばれた。
光に包まれて現れたからそう名づけられたのかもしれないが、あまりにも大層な名前である。
自分を神子だなどと自称できるほど神経は太くないし、何よりもはごく普通の一般家庭に生まれ育った、ごく普通の少女だ。
異世界に飛ばされるというあたり普通とはかけ離れているが、それでもを構成するものは本当に平凡なものばかりで。
少し歴史に詳しいだけで、とても比売神に祀り上げられるような人物ではない。
そんなが天照の神子などという仰々しい名前を受け入れられるはずはなく、結局があまりに嫌がるためにその名前で呼ばれたのは実質1日か2日。
だからこそこちらに来てから1ヶ月以上経過してから合流した将臣が、のその呼称を知っているとは思わなかった。
思わず目を瞠れば、あぁお前は知らないんだな、などという意味深な言葉が耳に届く。
問いただそうとして顔を上げた途端、ぐらりと視界が揺らいだ。
貧血だろうかと思ったが、それにしては目の前の景色がどうもおかしい。
炎のはぜる音も逃げ惑う人々の悲鳴も、目の前にいる将臣の声すら一瞬で遠のいていく。
次いで白色に染まる視界。
幼馴染の姿を飲み込んだ霧は、すっかりを外界から隔絶してしまう。
「将臣君、どこ?」
臆病ではないだが、こうもいきなり1人にされてしまえば不安になるのも当然で。
言葉の続きも気になるし、何よりもどうやって戻ったらいいのか。
わけもわからず走り出そうとして、見えない何かに遮られた。
どうやらガラスのようなもので壁ができているらしい。
全力疾走でぶつからなかっただけましだと思えばいいのか。
とにかく前に進むことはできないわけで、そうなれば残された道は一つだけ。
前が駄目なら後ろに進めばいいだけだ。
はくるりと振り返り――絶句した。
そこには大海原が広がっていた。
◇◆◇ ◇◆◇
目の前の光景に、ただ呆然とするしかない。
京でないことは確実だ。
もっともこちらの世界のことに詳しくはないから、京から少し離れた場所にもこのような海があるのかもしれない。
だが、そう思うには既視感が強すぎる。
広がる海原。その上に浮かぶ沢山の船。旗は白。
対岸に浮かぶ船の旗は赤。
それが何を意味するか、が知らないはずはない。
「壇ノ浦…」
敵兵に単身突っ込んでいく教経の姿。
鬼神のように兵士を斬り捨てている知盛。
燃え落ちる平家の旗。
源氏に捕らわれるならばと海に飛び込む見知った女房達の姿。
優しげな尼に抱かれた幼い男児。物語通りなら、あれが安徳天皇だろうか。
敵将と切り結んでいる将臣が最前線にいた。
多勢に無勢ながらも必死で戦い、1人でも多くの仲間を助けようとしている。
こちらの世界に飛ばされた時には剣など振るったこともなかったのに、今彼はその手で沢山の敵を斬り捨てている。
人を傷つけることは罪だという世界で育った将臣が、生きるために人を殺している。
自分のためではなく、大切な仲間のために。
何もできない自分がもどかしかった。
やがて諦めたように将臣が動きを止めた。
一斉に襲い掛かる源氏の兵達に幼馴染の姿が隠されていく。
助けようと思わず伸ばした腕の先、満足したように口元に笑みを浮かべた将臣が小さく呟いたのがわかった。
――じゃあな
現実ではないとわかっているのに、それは妙にリアルで。
大勢の兵士に囲まれた将臣の身体がぐらりと傾いでいくのを、は見ているだけしか出来なかった。
堪えられない涙が頬を伝うのは、哀しさか。それとも憤りか。
これが運命だというのなら、何と残酷なのだろう。
「彼らを助けたいか?」
不意に聞こえた声に振り返れば、いつの間にか背後に人の姿があった。
見たことのない女性。
だが、普通とは到底呼べない。
何しろ海上に浮かぶの隣に並んでいるのだ。
肩に止まっている三足の烏。身に纏う神々しい気配。
誰、と聞かなくてもわかる。
「天照大神…」
「さすがだ。我が神子よ」
あぁ、とはようやく合点がいった。
マンションの階段から転落したはずのがこちらの世界へやってきたのは、やはり偶然なんかではなく。
何もかも目の前の彼女が仕組んだことなのだろう。
この夢を見せているのも。
「我が力を望むか?」
彼女が何を望みに何を求めるか、それはわからない。
ただ、確認している時間がないのは事実。
そして、に拒否権がないことも。
「望むわ」
怖いのは、何もできずに大切な人を失ってしまうこと。
ただ、それだけ。
- 07.12.22