細心の注意を払ってきた。
欠片でも悟られることのないよう、気取られることのないよう。
何故なら、彼はとても目が利く人物だから。
用心するに越したことはない。
故郷を離れてからどれだけ経っただろうか。
高野山を破門された僧兵くずれとして、それなりに武勇は知られていた。
清盛が最初に声をかけたのも、おそらく悪名を馳せていた自分に興味を持ったからだと思っていた。
近づくには絶好の機会だった。
無関心を装いつつ、彼の興味を自分に向けさせることは難しいことではなかったし、彼の信頼を得ることも、時折呼ばれて一緒に碁を打つことも嫌いではなかった。
腹の探り合いも面白かった。
親子ほども年が離れているのに、時折自分よりも子供みたいなところがあって。
そんな彼と言葉遊びをすることは楽しく、彼の傍は居心地がよく、勧められるまま彼に召抱えられるというのも悪くないと思ったことも、正直一度や二度ではない。
それでも、自分には野望があった。
野望というよりは、望み。希求。
それを叶えるためだけに、今自分は生きている。
己のためではなく、彼の――そして民のために。
気取られてはいけないのだ。
そのために、最大限の注意をしてきたのだから。
それなのに――。
『弁慶…五条……。牛若丸…』
彼女の言葉に思考が止まった。
深窓の姫君だと思っていた。
多少元気はいいけれど、それでも普通の貴族の姫君で。
父や兄の庇護の下で安寧と生きている少女だと。
知的な眼差し、明るい仕草。
実際に会ってみて噂との違いに驚いたけれど、それでも弁慶は彼女のことを政治や社会の情勢など何もわからないただの姫君だと思っていた。
病床の彼女の口から漏れた、小さな囁き。
清盛ですら気付いていないことを、彼女が知っているとは思わないけれど。
それでも、明晰な頭脳は目の前の少女を危険だと判断した。
熱に浮かされた細い身体。
浮かぶ汗を拭えば、聞こえてくるのは安らかな寝息ばかり。
先程のうわ言はもはや聞こえない。
問いただしたい思いはある。
だが、それよりも危険な芽は早く摘んでしまえと囁く自分がいた。
細い首。
そこにほんの少し力を込めるだけで、この鼓動は簡単に止まるだろう。
今なら病のせいにできる。
彼女は父も兄も病床に近づけさせようとしなかったから、回復していると思っていても病状が急変することなら珍しくもない。
そうすれば危険は回避できる。
勿論、役立たずの薬師である自分はただではすまないだろう。
だが、それでも天秤にかければ危険なのはどちらか明白で。
罪のない少女を手にかけることに躊躇いがないわけではない。
だが大義と秤にかけられるほど、弁慶に取って目の前の少女の存在は大きくもなく。
殺生を厭う気持ちもすでにない。
自分の目的のためには、これから先もっと多くの血が流れるのだから。
何かに魅入られるように、白い首筋を見つめた。
吸い寄せられるように伸びた手は、優しく額の汗を拭うだけに留めておいて。
「何か、用ですか? 知盛殿」
獣のような警戒心をむき出しにしている背後の男性に、弁慶は声をかけた。
◇◆◇ ◇◆◇
の病状が回復に向かっていると将臣から聞いたのは、2日前。
それならば顔くらい見せてもよさそうなものなのに、部屋は依然として御簾に遮られたまま。
何度となく見舞いに訪れてはみたものの、姿はおろか声さえ碌に聞けなくて。
正直苛立ちを隠せなかった。
池に落ちたを見た時、初めて背筋が凍りついた。
無事を確認したものの、逸る鼓動は今までに感じたことがないほどで。
清盛も重衡も右往左往していたけれど、それは自分も同じことで。
翌日から高熱を出して寝込んでしまったに、加持だ祈祷だと騒いでいる清盛と同様に、率先して滋養のよいものを取り寄せてはみたものの、すっかり怒ってしまったによって出入禁止を言い渡されてしまい、ここ数日部屋に近づくこともできなかった。
これ以上病人を怒らせるのもよくないだろうと一応我慢していたのだが、やはり日に一度はあの顔を見ないと落ち着かない自分がいて。
今なら眠っているだろうと思って部屋に忍び込んだのは、そんな想いが押さえきれなくなったから。
我ながら、確かに情けないとは思っているけれど。
それでも清盛や重衡でさえ会えない彼女に、誰よりも先に会いたいと思う気持ちはどうしようもなく。
彼女が目覚めた時、傍に自分がいたら一体どういう顔をするだろうかと考えてみると、楽しかった。
だが――。
そうした悪戯心で忍び込んだ妹の寝所には、彼女1人だけではなかった。
清盛が気に入っている薬師。
知盛に言わせれば胡散臭いことこの上ない、僧兵上がりの優男。
何かを企んでいるのはわかっていた。
目的もなくこの屋敷に出入りするような物好きには到底見えなかったから。
この男が何を企み何を望んでいるかなどどうでもよかった。
邪魔になれば斬る。
ただそれだけの話だ。
だが、この男の目的がなのだとしたら話は別だ。
彼女は自分の――平家の物。
何人たりとも手を出すことなど許しはしない。
ゆらり、と殺気がゆらめいた。
一歩踏み出せば簡単にその首など落とすことができると言わんばかりに刀に手を伸ばしてみると、振り返りもせずにくすりと笑う声がした。
「女性の部屋に無断で侵入とは、いくら妹姫と言えどあまり褒められたことではありませんよ」
向けられる殺意に気付いていないはずはないのに、目の前の薬師からは相変わらず穏やかな声が聞こえてきて。
その余裕が面白くない。
「女の寝首をかく男よりは、幾分ましだと思うが」
「嫌ですね。そんなことはしてませんよ。僕だって命は惜しい」
「どうだか、な」
ひょいと肩をすくめる優男に、やはり喰えない男だと認識を新たにする。
今は膝の上に置かれている左手。
それが明確な意思を持っての喉元に向かっていくのを、知盛は確かに見ていた。
だが、たとえどれだけ詰問しようと、この男は飄々とかわしていくに違いない。
清盛が認めただけの男。
そう簡単に尻尾を掴ませはしないだろう。
一歩踏み入れようとすると、それに気付いた弁慶はさっと立ち上がる。
わずかに眉を上げてみせれば、浮かんだのは穏やかな笑み。
「兄君が傍についていたほうが治りがよさそうですね。僕は退散します。後で薬湯を用意するよう女房殿に話しておきますね」
引き際を心得ている。
そう感じずにはいられないほど、弁慶の退出は鮮やかだった。
内心を悟らせないよう、又、己の進退を塞がれないよう、あっさりと引いた男に感心よりも警戒心が先に立った。
すうすうと穏やかな寝息を立てるに、ついこぼれるのは呆れたため息。
「無防備、すぎだぜ。…」
聞いていないとは知りつつも言わずにいられないのは、果たして兄心だけなのか。
知盛にはわからなかった。
- 07.11.07