「よ…っと」
部屋の隅に置いてあった筝の琴を移動する。
1人でも大丈夫だと思って持ち上げたものの、意外に重量があっては焦った。
何しろこれはつい先日貰ったばかりの新品なのだ。
こちらの世界に飛ばされてからというもの宴続きの日々を過ごしていたせいか、自然と雅楽に興味を持ったにと経正がプレゼントしてくれたもので、にはよくわからないが周囲の反応から見て名品なのだろうと思う。
壊すことはおろか傷でもつけようものなら贈り主に対して申し訳が立たない。
半ば抱きかかえるようにして円座の前に置くと、安堵のため息をつく。
ここ最近の楽しみは楽と舞である。
特に舞はの性に合っているようで、時間があれば惟盛に指南を仰いでいる。
平家の養女となったは、元の世界にいたように気軽に外出をすることもできないため、京の町を散策するという楽しみはあっさりと潰えてしまったのだから、することと言えば手習いか女房達との双六や囲碁といった遊びしかない。
別に1人で外出しても問題ないだろうと思うのだが、どうやらこちらの世界では都の治安はかなり悪いらしく、供を連れての外出もあまりいい顔をされない。
平家に恨みを持つ者が多いのだというのが清盛の意見だが、重衡と知盛はどうも自分達以外の男と外出すること自体が気に入らないように思えてならない。
一見正反対のように見える兄弟だが、こういう時ばかりは一致団結するためにの反論が許されることはない。
ましてや最近平家の客分として知盛のところへ身を寄せている幼馴染の将臣でさえ、の外出に関しては大反対なのだから、この件に関しては孤立無援だ。
更に経正や敦盛、教経まで出てきて諭されてしまえば、勝てるはずがない。
仕方なく数日は部屋で大人しくしていたのだが、何もすることがないのがこれほど辛いとは思っていなかった。
見かねた経正から琴を贈られた時は、飛びつかんばかりに喜んだ。
実際抱きついたらすごい勢いで知盛に引き剥がされたのだが。
お陰でここ数日手習い以外に時間を潰す方法ができたので経正には大感謝である。
それから毎日琴の練習に明け暮れ、また経正の的確な教えの甲斐もあってか、ひと月もすれば人並み程度の腕前になっていた。
そうなると俄然楽しくなるもので、今では琴の練習が日課になっている。
は慣れた調子で弦を爪弾く。
昔から楽器を弾くのは好きだった。
琴はさすがに触ったこともなかったが、弾いてみれば何とかなるものなのだと我ながら感心する。
「まあ?! 姫様、申し訳ございません!」
琴の音を聞きつけたのだろう、部屋に入ってきた女房の美濃が申し訳なさそうに頭を下げた。
「別に平気よ。私1人でも運べたし」
「ですが、重うございましたでしょう。そのようなことに姫様のお手を煩わせるなど、姫様のお傍を離れたわたくしどもの落ち度ですわ。お許しくださいませ」
「気にしないで。急に弾きたくなっただけだから」
恐縮する女房に笑顔を向けてそう言うものの、後からやってきた女房も泣きそうな顔をしているためには困ってしまう。
平家の末姫という立場上、本来ならば女房に用意させればいいのだが、異世界で育ったは自分のことは自分でするということが身についているために、女房に用事をいいつけることはほとんどない。
にとってはそれが当然なのだが、やはりこちらの世界ではあまり歓迎されないことらしく、何度か重衡に注意を受けたことがある。
『女房には女房の役目というものがあるのです。彼女達の仕事を奪ってはいけませんよ』
やんわりとたしなめられはしたものの、重衡自身の作る食事をかなり気に入っているために、が厨に出入りすることまでは咎めない。
相変わらず知盛を起こす役目ものままだ。
つまり重衡や知盛の世話はがしても構わないが、自身の身の回りの世話はすべて女房に任せろということなのだろう。
勿論却下したのだが。
第一この邸には清盛の母屋を始め、清盛の正妻である時子が住む北の対屋や、知盛の住む東の対屋、更には重衡との住まう西の対屋があるのである。
更にあまり使用されることはないが他にもいくつか対屋がある。
はっきり言ってとんでもなく広い。
1人の手がかからなくても女房達には他にも沢山仕事があるのだから、注意される謂れはないはずだとは思う。
とは言っても重衡の言う通り、女房達の仕事を奪うつもりもないため、迷惑にならない程度には彼女達の力を借りているのだが。
それでも他の人に比べて女房達に用事をいいつける機会が少ないことも確か。
そのせいだろう、付きの女房の多くがどこか寂しそうに思えるのは。
傍仕えなのに仕事を言いつけられないということは、女房としてのプライドに関わるのかもしれない。
「それじゃあ、美濃。少しだけお腹がすいてしまったの。何かおやつある?」
が笑顔を浮かべてそう言えば、ようやく目の前の女房の表情が明るくなる。
「ええ、わかりました。今日は丁度能登殿がいらっしゃいまして珍しい唐菓子を持ってきてくださいましたの。お待ちくださいませ、今すぐに用意いたしますわ。万葉、持ってきてください」
「はい」
万葉と呼ばれた年若い女房がぱたぱたと部屋を退出していくのを見送り、はそっとため息をつく。
こちらでの生活にもすっかり馴染んだとは言え、こうして世話を焼かれることだけは未だに馴染めない。
この邸の人達はいい人なのだが、如何せんに対して過保護すぎるのである。
同じ異邦人である将臣はそんなことないのだろうか。
知盛の護衛として働く幼馴染の顔を思い浮かべる。
(相談しようかなぁ)
こういうことに将臣が頼りになれたためしがないのだが、相談相手が他にいないのだから仕方ない。
重衡に言えば「女房の言うことももっともだ」と言うに決まっているし、知盛に相談すれば「放っておけ」と言われるに決まっている。
清盛に言おうものなら「の手を煩わせるような女房は実家に戻せ」とでも言いかねない。
経正や敦盛には当分会えないし、心優しい惟盛に相談して悩ませるのも申し訳ない。
はにっこりと笑って美濃を見る。
「将臣君、呼んでもらえるかな」
◇◆◇ ◇◆◇
「で、俺に何とかしろと?」
「うん」
話を聞き終わった将臣がそう訊ねると、はあっさりと頷いた。
その無邪気な笑顔は相変わらずで懐かしくなるが、言っている内容も相変わらずとんでもないことで、将臣は乱暴に髪をかきあげた。
「あのさ、お前俺の立場ってわかってるか?」
「清盛義父上のお客様でしょう。そして、私の幼馴染」
「そう、俺はただの客分扱いなわけで、到底平家棟梁の子息に物言える身分じゃねえんだ」
「でも、将臣君知盛さんと仲いいじゃない。よく一緒に稽古してるし、重衡さんも『知盛兄上が他人に関心を持つのは珍しいことです』って言ってたし、言うこと聞いてくれるんじゃないかなと思うんだけど」
将臣の平家逗留が決まった時、部屋を提供したのが知盛だった。
どうやらそれは破格の扱いらしく、重衡はおろか清盛ですら目を丸くしていたのを覚えている。
「…お前さ、大事なこと忘れてるだろ」
「何を?」
きょとんと首を傾げるに、将臣は呆れたようにため息を一つ。
「俺はお前が外に出ることに反対だっつーこと」
「何で反対なの?!」
「だから散々言ってるだろうが! 外は危険なんだって! お前自分の身一つ守れないだろうが! しかもそんなお姫様な格好して外に出てったら、10秒で拉致られる! 賭けてもいいぞ俺は」
「そんなことないよ。何度か外に出たことあるけど、そんなに危険そうには見えなかったもん」
「それは知盛とか重衡とか教経とかが一緒だったからだ。あいつらを敵に回そうとする奴は今の京にいない」
が外出したのはわずかに2回。平家の勇将が傍についていてに何かを仕掛けようと企む者は1人もいない。
「そうだけど…でも大丈夫だよ多分」
あっけらかんと言い放つに、将臣が脱力感に襲われるのも無理はない。
(何だその根拠のなさは)
がっくりとうなだれつつ、目の前の幼馴染に視線をやれば、どこから出てくるのか自信満々のの顔。
昔からそうだが、どうもには危機回避能力が欠けている。
他人を疑わないと言えば聞こえがいいが、要は無謀。無鉄砲。
他人に振り回されることのない将臣を翻弄させる名人で、特にもう1人の幼馴染――望美とのタッグは最強で、将臣は幼い頃から2人のお守をしていたと言っても過言ではない。
ここが将臣達の世界なら多少の無理も通用するが、生憎ここは自分達の知る世界とはまったく別の世界。
近いといえば平安時代末期だが、向こうもこちらも治安が悪いのは同じ事。
追剥強盗は日常茶飯事で、道端に死体が転がっていることなど珍しくない。
間違ってもそんな光景をに見せたくはなかった。
にベタ甘の平家兄弟が譲らない以上、たかが居候の自分が口を挟める問題ではないのだ。
哀しいことに、そういう事実はには伝わらないのだが。
「いいからお前は大人しくしてろ。これ以上俺に余計な心配かけさせるな」
「だから、その心配を減らそうと思ってるんじゃない。私だって望美と譲君のこと心配なんだからね!」
告げられた内容に今度こそ将臣が目を見開く。
「おま…っ、望美探しにいくつもりだったのか?!」
「あ…」
しまったと口を押さえる姿が将臣の言葉を肯定していた。
無謀を通り越して危険極まりない。
「…」
「…何?」
「お前、絶対外出するな。誰が許しても俺が許さん」
「将臣君、横暴」
「危険だっつってんだろうが。俺が知盛から剣を教わってるのは何でかわかってるか。身を守るためだ。この京で人探しをするのはそれだけ危険だ。護衛を連れていない貴族は追剥の格好の獲物だし、ましてやお前みたいないかにも深窓の姫君ですって格好で外出してみろ。五秒で身包み剥がれるか売り飛ばされる」
「さっきは10秒って言ったくせに」
「うるさい。どっちも変わらないだろうが。ってことでこの話は却下。外出したければ清盛の許可でも貰うんだな。それ以外方法はねえよ」
平家棟梁の言葉を無視できるはずはないからなと将臣が告げれば、はぽんと両手を打つ。
「あ、そうか。その手があったか」
思い立ったが吉日とばかりに袿を翻して寝殿に向かうの後ろ姿を見送って、将臣はやれやれと首をすくめる。
「ま、無理だろうけどな」
知盛や重衡以上にを溺愛している清盛がの外出を許可しないという可能性は頭にないらしい。
おそらく不機嫌で戻ってくるであろう幼馴染の姿を思い浮かべ、将臣は高杯に乗せられた菓子を一つつまむと、八つ当たりはごめんだと言わんばかりにその場を離れた。
- 07.06.27