Sub menu


微睡と悪戯


貴族の朝は早い。
寝起きは悪くないはずのですら、重衡のそれにはかなわない。
日が昇る前に目覚め、朝一番には出仕している。
夜は宴で深夜まで起きているというのに、平安貴族というものは見かけによらずタフな人が多いものだ。
女房に起こされる前に身支度を整え部屋から出ると、すでに重衡は出仕の支度を終えている。
直衣に身を包んだ姿はさすがに平家の公達。
優雅で上品。そんな彼が自分を妹として可愛がってくれていることはとても嬉しい。
だが――。

「おはよう、重衡さん」
「おはようございます、

ちゅ、と額に挨拶のキス。
この時代に挨拶で口付けする習慣はなかったはずなのに。
重衡が慣れているのか、それともの知る時代とはやはり違うのだろうか。
最初こそ慌てふためき狼狽えたものだが、さすがに1週間もすれば嫌でも慣れようというもの。
それでも気恥ずかしさは否定できないが。

「今日は管弦の宴がありますので帰りは遅くなります。私に気にせず休んでください」
「はい。重衡さんも身体に気をつけてね」
「私は大丈夫ですよ。が毎朝用意してくれる薬湯がありますからね」
「あれは、ただのお茶。薬湯ってほどのものじゃないの。別に変なもの使ってないし」
「そうですね。中々美味ですし、私は嫌いじゃないですよ」

の世界でお茶は珍しいものではなかったが、こちらでは薬膳の一種らしく、通常飲む習慣はない。
飲み物と言えば酒か白湯しかないという事実に驚いたが、母親に教わった野草の知識でお茶を作ったところ、平家の皆には好評だった。
薬湯となれば苦いだけの飲み物だが、数種類をブレンドして作る茶は、自分で言うのも何だがの世界のものと大差ないように思う。
最近は料理にも手を出し始めたである。
平家の姫が厨に入ることを誰もが口を揃えて反対したが、の作る料理が珍しいものであることと、意外に美味しいことを知ってからは反対する人も随分と減った。
それでもやはりあまり良い顔はされないし、何よりも端女の仕事を奪うわけにもいかないので、そう頻繁に厨に出入りすることはないのだが。

重衡を送り出してから、は未だに用意される気配のない牛車を見てため息を一つ。
牛飼童が困った顔を向けてくるのにどう反応を示してよいのやら。
とりあえず苦笑を返しては部屋へと戻る。
先程作ったばかりの新作を手に、は廊下を進む。

「本当に対照的な兄弟だこと」

ぽそりと1人ごちて、向かう先は東の対屋。
訪れる相手は、対屋の主。平知盛。
清盛の邸には、現在2人の息子が同居している。
西の対屋に住まうのは、と重衡。
そして対する東の対屋には、知盛。
成人して官位もある男子なのだから個人で邸を構えてもよいのだが、何故だか清盛の反対が強かったらしい。
遅くにできた子供だということもあるのだろうが、他の親族が近くに居を構えていることを考えると、やはり普通ではないのだろう。
意外に清盛は子煩悩なのかと考えれば、それも楽しい。
尤もこの広い邸に清盛と尼御前の二人暮しは寂しいものがあるのだろうということで納得はできるのだが。
の世界でも六波羅という大規模な敷地に平家一門が居を構えていたことは同じだが、知盛も重衡も別に邸を構えていたはずである。

「お父さん、確かそう言ってたし」

日本史好きが高じて教授になった父の言葉だから信じていい。
同じような世界。だが微妙に違う。
やはりこちらは異世界なのだ。
だからといって戻る方法がわからない以上、適応していくほかない。
幸いなことに、の待遇はとても良く、不満など1つもない。
過剰なお姫様扱いに閉口することはあるものの、それもまた愛情表現だと言われれば強くも出られるはずもなく。
日々着実に増えてくる贈り物を思い出して、は小さく嘆息した。

「いい人達、なんだよねぇ」

たとえその愛情表現が行き過ぎな感じがしなくても。



対屋が見えてくると、やはり廊下に何人かの姿。
やっぱりと嘆息すれば、の姿に気付いた女房の顔が明るくなる。
朝の早い公達には珍しく、知盛の寝起きは恐ろしく悪い。
女房が何度試みてもまったくの無駄。更には歴戦の武将である知盛に殺気を込めて睨まれてしまっては、どれほど熟練の女房であっても起こせるはずもなく。
役目一つ満足にできないと女房達が落胆していたのを偶然聞きつけたが、では自分が起こすと女房の仕事を代わってくれたのである。
が起こすとすぐに目覚めると、女房達の間では概ね好評である。
尤もがどんな手段で知盛を起こしているか、女房達は知らない。

「まったく、相変わらずなんだから」
「まあ、姫様。毎回申し訳ありません」

養女とは言え平家の姫君。
更には天照の神子と呼ばれる、平家の中でも随一の少女。
そんな尊い人物に自分の仕事を肩代わりさせることに抵抗がないわけではないが、起こす相手が相手である。
以前無理やり起こそうとした女房が機嫌の悪い知盛に剣を向けられたこともあるため、どう声をかけたらよいものかわからない。

「一度放っておいたらどうでしょうか。参議に遅刻すればさすがに義父上に怒られると思うし」
「まあ、そんな! 主をお起こしするのは我々の役目。主が遅参などなさいましたら、女房であるわたくしどもの名折れにございますわ!」

有能な平家の女房らしい言葉だが、にしてみれば官位を持った大人が1人で起きられないということがそもそも問題じゃないかと思う。
仕方ない、とは女房達の期待の眼差しを受けて格子をくぐる。
真っ暗な室内にかすかに見える寝姿。
は持っていた器を慣れた手つきで高杯に置いた。

「知盛さん。朝ですよ」
「………」
「今朝は天気もよくて気持ちいいですよー」
「………」

反応なし。
まあこれくらいはいつものこと。
は慣れた仕草でぱたぱたと格子をあげていく。
暗い室内が一気に明るくなり、眠り続けている義兄が眩しそうに寝返りを打つ。

「知盛義兄上ぇー。起ーきーてー」

布団を叩くとうっすらと瞼が開かれる。が、本人の意識は半ば夢の中。
これもまた日常茶飯事だ。
は先程の器を持ってきて知盛の鼻先に寄せると、わずかに眉が寄せられてその目が開かれた。
匂いに反応して目覚めるなんて、相変わらず猫みたいだ。

「…何だ、これは?」
「おはよう、知盛さん。モーニングティーです」
「もおにんぐ…何だそれは?」

嗅ぎ慣れない匂いにゆっくりと身体を起こせば、はその器を知盛に差し出した。
見た目は白湯に見える。が、不思議な香りがする。

「私の世界では、朝起きてすぐ飲むものなの。すっきりしていて目が覚めるんだから。まったく同じものではないけど、多分近い味だと思う」

ほら、と差し出されれば何やら見知った香りがする。

「…荷葉、か」
「当たり。私たちの世界ではミントティーって言うんだけどね」

無理やり口元へ持っていけば観念したのか知盛がそれを受け取る。
豪快に喉に流し込んで、かすかに眉をしかめた。

「…味がない」
「あ、やっぱり。そうだと思った」

くすくすと笑えば知盛の眉間に皺が寄る。

「…
「だぁって、こっちにはまだ紅茶がないんだもの。正確にはミントティーじゃなくて、ミント湯だったりして」

茶を飲む習慣が広まったのは室町時代から。あまり有名ではなかったそれを広めたのは茶の湯の巨匠・千利休。
この時代は茶葉こそ輸入されているものの、主に薬として用いられているものばかり。
ましてやこちらの世界で荷葉と呼ばれるミントは香に用いられるものだ。
飲み物としての習慣はない。

「でも、すっきりするでしょう?」
「まあ、な…」
「じゃあ起きてね。早くしないと本当に遅刻しちゃうよ。重衡さんはもう出ちゃったんだから」

手を引っ張れば意外にすんなりと身体を起こす。
普段の行動もそうだが、知盛はかなりのマイペースだ。
これでお役所仕事が務まるのか不思議だが、一応中納言という役職を得ているということは家柄だけじゃなく有能なのだろうと思う。
普段の姿を見ているだけでは想像もつかないが。

「ご飯はどうする? 食べてる時間あるの? 朝ごはんは1日の活力源なんだから、できればちゃんと食べてほしいんだけど」
「面倒、だな…」
「…怒るよ」
「クッ、ならば、食べよう。お前が怒ると、重衡が五月蝿い」
「ふふ、じゃあ用意してくるから、それまでに支度しておいてね」

上機嫌で部屋を出て行くの後ろ姿を見送り、知盛は小さく笑う。
初めて見たときはあまりの神々しさに息を呑まれた。
次に見たときは重衡の腕の中で子兎のように怯えていた。
そして今は自分にすら物怖じしない態度で接してくる。
見るたびに印象が違う不思議な少女。
清盛や重衡が可愛がるのもわかる。
今までに見たこともないような女だ。
この自分ですら、目が離せない。
誰かに執着するということは今までになかったけれど。

「まあ、退屈はしない、か」

それも、悪くない。


  • 07.05.07