青年は平重衡と名乗った。
その名前に驚いたのは、歴史と古典に興味があるには無理もないことで。
(平重衡って言えば…)
平安時代後期、帝の外戚として権威を振るったあの平清盛の五男。
文武に秀で平家物語でも活躍が多い、あの三位中将ではないだろうか。
(お父さんってもしかして清盛とか…なんて馬鹿なことあるわけないか)
脳裏に浮かんだ可能性をあっけらかんとして否定してみるものの。
世の中そんなに自分の思うようにはいかないのである。
◇◆◇ ◇◆◇
「父上が貴女にお会いしたいと仰せでして」
そう言われて連れてこられたのは、同じ敷地内にある邸だった。
どこまで続くか分からない塀は、それだけこの敷地が広大だということで、の世界の住宅事情とは比べ物にならない。
そういえばの世界でも平安時代の貴族の屋敷はとてつもなく広いイメージがあったけれど、その中でもこの屋敷は別格だろう。
重衡が住んでいるのは西の対屋と呼ばれる部分。
通常貴族の屋敷は他にも寝殿、北の対屋、東の対屋があるはずだから、やはり想像もできないほど広いことは間違いない。
(迷子にならないように気をつけなきゃ)
お世辞にも方向感覚が優れているとは言えないである。
本当に迷ったら洒落にならない。
「あの…、重衡…さんのお父さんって、どんな人ですか?」
何と呼べばいいのだろうかと逡巡していると、「どうぞ重衡とお呼びください」と言われたが、いくら何でも遥かに年長の、しかも身分もありそうな男性をつかまえて呼び捨てにするわけにはいかず、の着付けをしてくれた美濃という女房が呼んでいたように「重衡様」と呼んでみたのだが、これが何故か大却下を喰らってしまった。
「御身は私などよりも遥かに尊い身分でございますれば。どうぞ、私のことは重衡、とお呼びくださいますよう」
それが重衡の言い分なのだが、だからと言ってはいそうですかと恩人でもある重衡を呼び捨てに出来るはずもない。
そう言って呼び方を変えないでいれば、今度は見事に黙殺される始末。
散々ごねた上で何とか譲歩してもらったのが今の呼び方だ。
「父上ですか?」
「はい。名前とか身分とか、えと偉い人みたいなので、前もって知っておけば緊張しないかなと思うんですけど…」
「そのようなことお気になさらずともよろしいのですが…。ですがそうですね、これからお会いするのですから名前くらいは教えておいたほうがよろしいかもしれません。私の父の名は、平清盛。平大相国と呼ばれることもあります」
「やっぱり…」
は天を仰いだ。
一体自分が何をしたというのだろうか。
見知らぬ土地へ飛ばされて、転がり込んだのが平重衡の邸で、その父親である平清盛がどうしても対面したいだなどと。
悪い夢でも見ているようだ。
「何にも悪いことしてないんだけどなぁ…」
途方に暮れたように呟けば、目の前の男性は相変わらずの穏やかな笑みで。
困ったように小首を傾げれば、大きな手のひらで頭を撫でられた。
「ああ、失礼。貴女があまりにも愛らしくて、つい…」
「………」
実際かなり好みの外見ではあるのだけれど、まったくときめかないのは随所に披露される甘い台詞のせいだろうか。
恋愛未経験者には刺激が強すぎる。
は俯いた。
ひどく疲れる行程であることは間違いない。
◇◆◇ ◇◆◇
仰々しい着物――これは所謂十二単というやつではないだろうか――を着せられて、重衡にエスコートされるまま廊下を進んでいく。
話に聞いていたが、やはり十二単は重い。
ずっしりと肩にかかる重みに耐えながら歩くために、自然速度は遅くなる。
更に履き慣れない袴のせいで何度となく躓きかけて、とうとう見かねた重衡に手を取られた。
そうやって重衡に支えられるように歩いていたのだが、寝殿に着くなり現れた人の多さに思わず足がすくんだ。
何しろが目覚めてから会った人物は重衡と女房の美濃、2人だけ。
多くの公達、女房、更には庭に控えている警護の兵たちの姿は、やはりには馴染みのないもので、普通の少女であるがこの状況に対応できなくても無理はない。
緊張した面持ちで足を踏み出そうとしないの様子に気付いた重衡に抱き上げられたことすら、突然の成り行きに固まっていたはしばし気付かなかった。
勿論すぐに我に返り、自分で歩けるからと抵抗したが「役得ですから」という言葉であっさりと却下されてしまった。
この男、どうやら見た目以上に食わせ者かもしれないと思ったものの、今自分が頼れるのはこの青年だけなのは事実で。
結果、周囲の視線にいたたまれなくなりながらも、は重衡の腕の中でじっと耐えていた。
「怖がることはありませんよ、光の姫君。我ら一門御身をお守りすることが使命にございますれば、決して御身を傷つけたりはいたしません」
宥めるような優しい声に顔を上げれば、そこにあるのは温かい笑顔。
目覚めた時から、この笑顔は少しも変わらない。
嘘を言っているようには見えなくて、は眼差しを受け止めてこくんと頷いた。
そんな様子は傍から見ている者にとってどう見えたのか。
「まあ、なんと愛らしい」
「ご降臨なされた時は神々しく感じられたものだが。何、随分とあどけなくていらっしゃる」
「花のような比売神さまではいらっしゃいませぬか」
「重衡殿と並ぶと、美男美女で絵巻物のようじゃ」
端々から聞こえてくる声は当然の耳にも届いているが、緊張しすぎていて理解までには至らない。
「お待たせいたしました、父上」
ふわりと下ろされて顔を上げれば、目の前に初老の男性がいた。
眼光の鋭い、厳つい雰囲気を持った老人は、だがを前にするとその眦を下げた。
意外にも優しい笑顔に、あれほど強張っていたの緊張がすとんとほぐれる。
「おお、ようやく目覚めたか。大事無いか?」
「あ…はい…」
「それはよかった。何しろ突然現れたと思いきやすぐに倒れてしまわれては、事情を聞くに聞けぬから心配したぞ。重衡がどうしてもとせがむで、仕方なくあれに世話を申し付けたが、何ぞ不自由などなかったか?」
「あ、いえ、特に不自由は…。むしろよくしてもらっています」
「そうかそうか。不自由があればいつでも申せ。衣でも調度でも何なりと揃えてしんぜよう」
「あ、ありがとうございます」
にこにこと笑うその姿はどう見ても上機嫌で、自然との警戒心もゆるむ。
と同時に拍子抜けをしてしまったのも事実。
何しろの知る平清盛と言えば、あくまでも残された資料のみではあるが、あまり良い評判のなかった人物だ。
政敵を追い落とし専横を強いて、平家の全盛期を築いた男。
それがまさか、こんな孫との会話を楽しむ好々爺のようだとは思わないではないか。
「時に、そなた。名は何と申す」
「、…です」
「? そなた貴族か?」
「いえ。全然、普通の一般市民です」
父親はそれなりに名の知れた大学教授だが、母親はごく普通の専業主婦。まさに絵に描いたような一般市民だ。
「なるほど、神々の世とはかくも現世と違うものよ」
「神々の世?」
「違うのか? そなたのいた世界であろう。ならば神の世界ということになろう。のう、。いや――天照の神子よ」
「はあ?」
にやりと笑って告げられた言葉が、には理解できない。
アマテラスとは、日本神話に出てくる天照大神のことだろうか。
では神子とは…。
「私が、神子ですか……?」
「そなた以外に誰がおる?」
「えと、でも……」
「そなたは平家の宴の席に降臨せし比売神ぞ。光とともに現れし神の子じゃ。のう皆のもの」
あちこちから是という声が響いて、は今度こそ凍りついた。
どうやら知らない間に比売神に祀り上げられてしまったらしい。
- 07.04.11