空気が重い。
いや、実際空気に重量なんてないのだから気のせいなのはわかっている。
だがそれ以外にこの状況をどう表せというんだと内心で言い訳をしているのはルルーシュ・ランペルージ16歳。
学校に内緒で担任教師と結婚という契約を結んでいる以外は、ごく平凡だと思い込んでいる女子高生である。
ちなみにルルーシュを平凡だと思っているのは本人だけで、多くの生徒の間では「完璧な美貌と頭脳を持つ高嶺の花」だと認識され、またごく一部の生徒には「何でも人並み以上にできるけど、恋愛に対しては化石のように鈍い友人」と認識されている。
余談だが約1名の生徒からは「揶揄うととんでもなく可愛い私の幼馴染ちゃん」と認識されているのだが、これは本人は知らないほうが幸せだろう。
そんな自分に関する認識がとんでもなく間違っているルルーシュだが空気を読むことには長けていたために、今この場の空気が下手な発言を許さない類のものであることを十分すぎるほどに理解していた。
本日の気温は30℃。だが室内は冷暖房完備なために空調はいつでも快適25℃を示している。
なのに何でこんなに空気が冷たいんだと思うものの答えは簡単。
冷気の発生源は目の前の男性だからだ。
楽しいランチタイムを台無しにしてくれたスザクの発言によって午後の授業が遅れることになり、そのことについて担任教師からはとんでもない説教をいただいた。
それはもう午後の授業が自習になるくらいのもので、ついでにレポート30枚というルルーシュにとっては大したことないが罰としては中々の重さであるそれにちょっとばかり凹んでいたのだが、事態はそれだけではすまなかった。
どこに住んでいるのと煩いスザクを何とか撒くことに成功し、さて帰ろうと普段使っている昇降口ではなく教師専用の昇降口に赴いたのだが、そこでばったり会ってしまった担任教師兼保護者兼夫である星刻によって拉致られ、現在こうやって自宅マンションのリビングで顔をつきあわせているのである。
時刻は午後4時半。
夕飯の買出しもまだなら、星刻に至ってはまだ勤務時間内である。
学校どうしたなんて聞きたいが、聞いたらいけないような気がするルルーシュは間違っていない。
ちなみに星刻は正面で長い足を優雅に組んでいるが、ルルーシュはソファーの上に正座である。
日本人には馴染みの深い正座だが、ブリタニア人であるルルーシュにとっては馴染みがあるものでもなく、子供の頃幼馴染のスザクの家に遊びに行った際にお茶の作法を学んだ時以来である。
正座が説教をされる時に使用されることもあるということを知ったのはつい数時間前だ。
知らなければ普通に座れたのにと思い脳裏の幼馴染にどうしてくれようと思ったのだが、自主的に正座を行ったのはルルーシュである。
この件に関してだけはスザクに罪はない。
それよりも今すぐにどうにかしなければ目の前の男である。
どうしたらいいかわからないから困っているのだが、とりあえず謝ったら許してくれないかなぁとか思っちゃうあたりルルーシュとしても相当困っているようだ。
何より足が限界だ。
そして時間も心配である。
そろそろ夕食の用意を開始したい時間なのだ。
ルルーシュの料理は手が込んでいるものがほとんどだ。
なので毎日、料理には少々時間をかけている。
本日のメニューは牛タンのシチューと手作りパン、エビとアボカドのサラダとコンソメの冷製スープと決めていたのだが、今から材料を買って調理となると確実に普段の時間よりも遅くなる。
タンシチューは煮込む時間が重要なのだ。
少なくとも3時間は煮込んでおきたい。
妥協? 手抜き? そんなものはルルーシュの辞書に存在しない。
そろそろ調理を始めなければ夕食の時間に美味しい料理を出すことが出来なくなる。
まぁもっとも原因は目の前で不機嫌な顔をしている星刻にあるのだから多少遅れたところで文句を言わせるつもりはないが。
じんじんと悲鳴を上げる足の痛みを紛らわせるように料理へと思考を向けていたルルーシュは、目の前の星刻が無言で近づいてきていることに気付かなかった。
長い指がルルーシュの顎を軽く上向かせる。
至近距離から見据える深い色の瞳。
その瞳に先ほどまでの不機嫌な色はない。
ゆっくりと近づいてくるそれを綺麗な色だなぁなんて呑気に眺めていられたのはほんの僅かな間だけで。
(え?)
チュ、と小さな音をたてて離れた唇に何が起こったか理解するには衝撃的すぎた。
今、こいつ、何をした?
呆然とするルルーシュの唇に、星刻がもう一度触れた。
今度は先ほどよりもしっかりと。
ふわりと鼻腔をくすぐる星刻愛用の香水。
近すぎて焦点が合わないけれど、視界に映る僅かに伏せられた長い睫。
何か今、とんでもないことが自分に起きている気がする。
「成る程」
大きな目が瞬きを繰り返す様を吐息が触れる距離で眺めていた星刻は、何かに納得したように頷いてその手を離した。
そんな満足した顔の星刻とは逆に、ルルーシュの脳内は絶賛パニック中だった。
今、リビングで、星刻が、ルルーシュに、口付けをした?
最後が疑問系になってしまっているのは現実を直視したくないルルーシュの願望である。
確かに星刻とルルーシュは夫婦ではあるけれど、それはあくまでも形式的なものであって実質は同居人というか居候というか、つまりまぁ色恋とはかけ離れた存在であったはずなのだ。
日に一度は星刻に抱き寄せられたりキスされたりしているのはこの際なかったことだ。
あれは単なるコミュニケーション。深い意味なんてないだろう多分。
ということは、あれ、これもコミュニケーションの一環? いやまさかあはははははー(自棄)。
目の前の星刻に変わった様子は見られない。
先ほどの不機嫌顔が普段の表情に戻っただけだ。
言葉もないルルーシュを楽しむかのように軽く笑う。
まるで何でもないことのようなその態度に、ルルーシュの負けず嫌いに火がついた。
精神的衛生と妙なプライドから、ルルーシュはその出来事を脳内から振り払うことを選択する。
うん、何もなかった。
さっきのは気のせい。
人はそれを現実逃避と呼ぶ。
「…さて、料理でもするか」
が、そのあまりにも衝撃的なあれこれによって、綺麗に忘れ去られてしまったのが自身の足の状態。
「ほわあっ!」
限界まで痺れた足がいくら軽いとは言えルルーシュの体重を支えられるはずもなく、膝からかくんと力が抜けて受け身も取れずに床にダイブしたのは必然の結果と言えよう。
目の前で床に崩れ落ち、その後ピクリとも動かないルルーシュに星刻が首を傾げる。
「どうした?」
「あ…足…」
「足?」
「あっ…やっ…触るな!」
捻りでもしたのだろうかと足首に触れると、目に見えてルルーシュの身体が震えた。
涙目で震え起き上がる気配の見えないルルーシュに、星刻はルルーシュの身に何が起きているか察した。
そういえば家に来てからずっと正座していた。
慣れない足にそれはきついだろう。
「くそ…計算外だ…こんな…」
「無理して正座なんかするからだ」
「うるさいっ。星刻が不機嫌なのが悪いんだろうが!」
完璧な八つ当たりだが、痛みに耐えているルルーシュは気付かない。
そしてそんな姿でも強気なルルーシュの姿に、星刻が面白いと口の端を歪めたことにも、哀しいことに気付かなかった。
優秀な頭脳には、残念ながら星刻に対してだけ学習能力というものだけが欠けているようだ。
「なるほど。では私がしばらく君の足代わりをしよう」
「え……ほわああぁぁぁ!!」
胡散臭いほど爽やかな笑顔を浮かべた星刻はそう言うなりおもむろにルルーシュの膝裏に手を差し入れ抱き上げた。
不意に浮いた身体と足に触れられたことによる激痛に悲鳴を上げたルルーシュは、脊髄反射のように目の前にある星刻の身体にしがみついた。
じんじんと痺れまくっている足は痛いを通り越してむしろ熱い。
触れることもつらければ動かすのにも激痛が走り、いっそ足を切り落としてしまいたい衝撃にかられるほどだ。
恐るべし正座。もう二度とするもんか。
そしてそんな状態のルルーシュが星刻に逆らえるはずもない。
「…星刻?」
相変わらず何とも言えない良い笑顔を浮かべている星刻に一抹の不安が浮かぶのは今までの経験上無理もないことで。
「その足では移動もままならないだろう。部屋まで運んでやろう」
「いらんっ。これから買い物に行って夕食の準備をしなくちゃなんだ。下ろせ!」
「そうか。では車を出そう。…あぁ、だが今から支度するとなると食事の時間は遅くなりそうだな」
「仕方ないだろう。予定が狂ったんだから」
「だが、それでは私が困る。今日は妙に空腹でね、時間が遅くなるのはあまり歓迎できないな。そうだ、今日は外食にしよう。ルルーシュの料理ほど美味くはないが仕方ないか」
「仕方ないって…そういう問題じゃないだろう。とにかく下ろせ!」
「車についたらな」
言いながら外へと出る星刻にルルーシュは慌てた。
マンションの最上階には星刻の住居しかないが、このマンションに住んでいるのは星刻だけではないわけで。
特にロビーにはセキュリティ万全な超高級マンションには欠かせない警備員もいれば、夕方の帰宅時間帯に家路に戻る人の姿も少なくない。
そんな中、絶世の美少女を腕に抱えた長髪の美青年の姿が目を引かないはずがない。
「暴れるようなら、この場でキスをするが」
その言葉にピタリと抵抗を止めたルルーシュではあったが、やはり晒される視線の中でできるだけ自分の顔を見られないようにと星刻の肩に顔を埋めたのは単なる自己防衛がなせる仕草だったのだが、そんな姿が恋人に甘えているように周囲から見えたのは客観的な事実である。
そしてそんな様子を目撃した人物から話は光の速さで広まっていき、黎星刻には溺愛する若い恋人がいるという噂がアッシュフォード学園に届くのは翌日のことで、シャーリーから話を聞いたルルーシュが卒倒するのは更にその翌日のことである。
- 10.08.18