「スコーンが食べたい…」
朝練の最中に小さく呟かれた声を拾ったのは、たまたま彼女の近くを通りかかった自分だけだっただろう。
両手にはテニスボールの入った籠。
黄色いそれを1つ手に取りじっと眺めている姿は正直言って異様ではあったが、そのボールと先ほどの彼女の発言がどうしても繋がらなくて長太郎は首をひねる。
まぁ、彼女が突発的なことを言い出すのは今に始まったことではないのだが。
これが3年の極一部の先輩(限定してしまえば岳人や芥川)だったら、朝食抜きで空腹なのだろうと思えなくもないが、声の主はである。
時折抜けているところはあるけれど基本的にはしっかりした性格をしているから、遅刻や寝坊ということは考えられない。
大方新しいレシピでも浮かんだのだろうと思い、そんな(ちょっと)不思議な姿に長太郎は微笑ましい視線を向けた。
そう、彼は失念していたのだ。
が色んな意味で有言実行な性格の持ち主だということを。
◇◆◇ ◇◆◇
2限の授業が自習になった。
数学教師が病欠したのである。
どうやら食中毒らしい。
軽度のものであるため入院するまではいかなかったのだが、それでも起き上がることはできなかったようだ。
20代後半独身の数学教師が食中毒で休むのは、実はこれで3度目である。
彼の健康のため、ひいては生徒の学力のためにも、是非とも数学教師には料理上手な彼女を作って安全な食生活を送ってほしいと思うのは、学力考査3日前という日程を考えれば当然だろう。
急遽自習になったものだから、プリントなんて気の利いたものが用意されているわけもなく、黒板にはこれでもかというほど大きな文字で『各自テスト勉強』と書かれている。
勿論守る生徒なんぞいやしない。
「武やん(数学教師:本名武田信幸。どこぞの戦国武将の血筋のような名前だが、れっきとした一般庶民である)、決して顔は悪くないし性格も悪くないのに、どうして彼女と長続きしないんだろうねえ」
「女運が悪いとしか言えないよな。確か前回の食中毒って彼女の手作り料理を食べたせいだって聞いたし、もしかしたら今回も新しい彼女の料理に中ってたりして」
「武やんの歴代の彼女、全員料理が壊滅的だって聞いたことあるよ」
「うわぁ、それは最悪。うちの教師達はさんの料理を食べ慣れてるせいか、下手に味覚肥えてるから、そりゃきついわ」
「でも恋人の料理だと残すわけにもいかないしなぁ…」
「頑張れ、武やん。男は根性だ」
今頃ベッドで唸っているだろう数学教師の姿を思い浮かべて、一部の生徒が合掌している。
そんな様子を視界の端に捕えながらも、長太郎の視線は活字を追うのに夢中である。
つい先日発売された本は、宍戸の薦めもあってか中々に面白い。
テスト前なのに余裕だと言われそうだが、普段きちんと予習復習を欠かさない長太郎にとって直前になって慌てて知識を詰め込む必要がない。
エスカレーター式の学校でありながらも都内有数の進学校である氷帝学園において、やはりテストでもそれなりの結果が求められるのだが、そこらへんはぬかりのない長太郎である。
今更焦る必要はないのだ。
そして、同じく日頃からきちんと勉強をしているために焦る必要のない隣席の人物はと言えば、自習の言葉を聞くや否や親友と教室を飛び出していってしまいここにはいない。
大方調理室だろう。
調理室のヌシとも言えるは、調理室の使用状況もきっちり把握済みである。
そんな長太郎の推理を証明するかのように、しばらくして届いた携帯メールに導かれるまま、長太郎は笑顔で教室を後にした。
扉を開ければふわりと漂う甘い香り。
テーブルの上に所狭しと並ぶ丸い物体の数は流石と言うしかない。
「相変わらず凄いね」
「あ、鳳君。読書の邪魔しちゃってごめんね」
「いや、美味しいものが食べられるなら大歓迎だよ」
「チョタは育ち盛りだもんねー」
楽しそうに笑う彼女達の前には色とりどりのスコーン。
「プレーン、チョコチップ、フルーツ、紅茶の4種類あるから好きなだけどうぞ」
「ちなみにドライフルーツは去年から漬け込んであるやつだから美味しいわよ。勿論マーマレードも手作り」
調理室は料理部の部室も同然だ。
基本的に部活動は週に1度だが、他の部活に頼まれて臨時で活動をすることも少なくない。
そんな彼女達のために用意された専用の冷蔵庫は業務用サイズ。
差し入れなども多いせいか、その中には豊富な食材がつまっているのだろう。
そう、思いたって急にお菓子が作れる程度には。
それにしても凄い量である。100個は軽い。
確かに簡単で手軽に作れるスイーツだが、それにしても多過ぎやしないだろうか。
の作る料理は美味しいし、その中でもスイーツは多くの生徒が争うほど人気が高いが、如何せん只今の時間は授業中である。
授業をさぼって(自習だが)お菓子作りは決して褒められたことではない。
それでも教師陣への差し入れを欠かさない彼女が咎められることは、限りなくゼロに近いのだが。
用意された椅子に座り、料理部お手製のマーマレードジャムをつけて食べるスコーンは文句なく美味い。
市販品と何ら遜色のない(むしろ市販品より格段に美味しい)それは、朝練でカロリーを消費した身体にはいくらでも入るだろう。
だが流石に100個はきつい。
「ところでこれ、確実に余ると思うけどどうするの?」
「んー、先輩達にメールしたから休み時間に届けにいくつもりだし、クラスの皆にも配るから大丈夫だと思うよ。残ったら職員室に差し入れする」
「武やんにも届けよっか。美味しい食べ物に飢えてるだろうし」
「…望月、今の先生にそれは酷だよ」
幼馴染の無邪気な発言に、長太郎は恐らく数時間後にはベッドの中で最愛の彼女と美味しい料理のどちらを選ぶか究極の選択を迫られているであろう数学教師に心の中で手を合わせた。
- 10.06.23