日頃からドジだドジだと思っていたけれど、まさかここまでとは思わなかった。
氷帝学園テニス部部長、跡部景吾。
半泣きで見上げてくる小動物を前に、開いた口が塞がらなかった。
◇◆◇ ◇◆◇
は知る人ぞ知る有名人である。
小柄な身体と大きな瞳が印象的で、料理が好きというごく普通の少女。
そんな彼女が有名になった理由は、氷帝学園内で不定期に催される人気アンケートで、『お嫁さんにしたい女子生徒ランキング』No.1をぶっちぎりで独走しているということもあるが、本当の理由はそれだけではない。
彼女が今年の春からテニス部マネージャーに就任したということが最大の原因だ。
元々男女問わず人気の高い彼女は、料理部顧問という学生としては異例の役職に就いており、その役職に就くまでの経緯からすでに各方面には名前が知られていたのだが、決してマネージャーを入れようとしなかったテニス部が正レギュラー全員の意向でマネージャーに(半ば強制的に)就任させたことで、校内で知らない生徒はいないほど有名になってしまった。
料理を作れば超一流、掃除も洗濯も熟練の主婦並の腕前を見せ、彼女の家事能力ははっきり言って中学2年生の持つレベルではない。
そんなだが、最大の欠点があった。
彼女ははっきり言ってとろい。
運動神経が鈍いというよりは、もはや運動神経というものを備えていないのではないかと思うほどに鈍い。
普段からおっとりマイペース。
家事一般は完璧だが、こと運動に関してはいっそ哀れなくらいに何もできない。
50メートル走のタイムは10秒台。
亀の方が早いのではないかと思う。
1000メートル持久走をさせれば酸欠で倒れ、球技をさせればもれなくつき指をし、陸上競技をさせればトラックで転ぶ。
笑い事にもならないほど、には運動神経がない。
『女子マネージャーと一緒にテニス』という甘い期待を抱いていた忍足の野望が粉々に砕けたある事件は、テニス部で未だに語られるほど有名である。
1日に1度は転ぶ。
むしろ走らせればほぼ確実に転ぶ。
そのためマネージャーはどんなに忙しくても走ってはいけないという、多忙を極めるテニス部にありえない法則までできてしまったほどだ。
だが、周囲の認識とは違い、彼女の運動神経を見誤っている人が1人いた。
自身である。
「大丈夫だと思った」という根拠のない理由で何度となく無茶を繰り返し、そして結果として周囲の人に助けられている。
悪気がないから性質が悪い。
更に外見に反して意外に頑固な性格をしているために、(にとって)理不尽なことには一切従わないという一面もあるから、何度諭しても直ることがない。
これがの我儘ならば怒ることもできるが、が無茶をするのは大抵部員達のためであることが多いので、彼らも強くでることができないのが現状だ。
そんな彼女を助けるために、常に彼女の傍にはテニス部員の姿がある。
彼らの涙ぐましい努力の甲斐あってか、の身体に生傷ができる回数は格段に減った。
だが、時折目を離した隙にとんでもない事態に陥っていることがある。
今がまさにその時だった。
天気がよかったためにコートに水を撒いたまではよかった。
その際ふざけた部員が水場ではしゃいでいる姿も確認している。
初夏とはいえ、この頃の暑さは殺人的なものがある。
休憩中の遊びを咎めるほどうるさい部ではないし、また跡部も暇ではなかった。
グラウンドには大きな水溜りが出来ているが、このぶんではすぐに乾くだろう。
テニスコートからは離れているし、部活には何の支障もないはずだ。
だが、跡部はその時失念していたのだ。
氷帝学園マネージャーが、とんでもなく鈍いということを。
まるで二流のコントのようだと跡部は思った。
休憩用のドリンクを持ってきたが、水溜りで豪快にこけた。
大量のドリンクを運ぶには、彼女はあまりに小さすぎる。
そのため彼女の傍には必ず誰かついているのだが、つい先程まで練習に明け暮れていたために姿が消えた彼女に気付くはずもなく、休憩の声とともに大きな荷物を持って歩いてくる彼女に気付いた時には手遅れだった。
見事なまでに泥だらけのを前に、さすがの跡部も何を言えばいいというのか。
呆れていると言えばこれ以上ないほど呆れている。
だが今にも泣きそうなに追い討ちをかけるのも躊躇われるも事実。
普段ならジャージに着替えているはずのだが、運が悪いことに今日は制服姿。
滅多に忘れ物をしない彼女だが、今日に限って玄関先に忘れてきてしまったのだ。
取りに帰る時間もなく、に肉体労働が課せられることもほとんどないために、今日ぐらいは大丈夫だろうとタカをくくったのが悪かった。
豪快に転んだために泥跳ねは全身に飛んでおり、制服は勿論まとめていた長い髪もほどけてひどい状態だ。
今時珍しく何の化粧も施していない白い肌に跳ねた汚れは、水道で洗ったくらいで落ちるようなものではない。
跡部はため息をついた。
「ついてこい」
起き上がる気力もないのか呆然と座り込んだままのマネージャーの腕を掴むと、跡部は部室へと足を向けた。
◇◆◇ ◇◆◇
マネージャーとして日々使用している部室ではあるが、当然の私物などほとんど置いておらず、ましてや着替えなどもってのほかだ。
だからと言って見事に泥だらけのを前に放っておくほど跡部は薄情ではない。
幸い働き者のマネージャーのお陰でタオルには事欠かない。
跡部は自分よりも頭一つ小さいの姿を確認し、自分のロッカーからシャツを取り出した。
手渡そうとして両手も泥だらけだという事実に気付き、取りやすいようにタオルと一緒にテーブルの上に置く。
「使え」
「え? あの…」
「安心しろ。未使用だ」
政財界との縁が深い跡部家の長子という立場上、いつ何時予定が入るかわからないためにと用意しておいた私服が役に立った。
もっともこういう形で役立つとは自分でも思っていなかったが。
「男物しかないが、大きすぎて困ることはないだろう」
「あ、はい…」
「シャワー室は向こうの扉だ。備品は好きに使っていい」
「えと、でも…」
「その状態のままでいるつもりか。早く汚れを落とせ。その制服だってクリーニングに出さなけりゃ落ちるものも落ちねえだろうが」
今だ躊躇するを強引にシャワールームに放り込んで、跡部はため息をついた。
元々跡部は面倒見の良い人間ではないし、むしろ足手まといは即刻切り捨てる性分だ。
それなのに相手がだとどうも調子が狂う。
しっかりしているくせにうっかり者で時々とんでもなく鈍い。
彼女のドジには相当呆れているのだが、それでもどうしてか手を貸してしまう自分が不思議だった。
これはあれだ。
出来の悪いペットを持つ飼い主の気分というやつに近いかもしれない。
やがて聞こえてきたシャワーの音に、思わずため息をついた。
「跡部、彼女大丈夫やったん?」
「今シャワールームだ。お前は近づくな」
「何や、えらい失礼やな。いくら俺かてレディーの入浴を覗くような真似はせえへんよ」
「どうかな」
「ていうかさ、彼女着替え持ってきてないじゃないか。どうしたんだい?」
「俺様の私服を提供した」
「それならいいけど。今日は天気いいから今洗っておけば帰るまでには乾きそうだしね」
忍足に次いで部室に入ってきた部員達の姿に跡部はかすかに眉を顰めるが、今は休憩中のためあまり強くも出られない。
おそらくの様子が心配だったのだろう。
あれだけ見事なダイビングを見せられては心配するなというほうが無理だが。
「怪我とかなかったの?」
「それはまだ見てないが、多分大丈夫だろう。膝くらいならすりむいてそうだけどな」
「まあ汚れ落とさないと手当てできないしね」
「で、跡部がここにいるのはシャワー浴びたちゃんの手当てをしようと企んでるからなのかな?」
「馬鹿言うな。お前らと一緒にするんじゃねえよ」
「あれ、皆さんも来てたんですか?」
カチャリ、という音とともにシャワーを済ませたが扉から顔を覗かせた。
話し声に気付いて慌てて出てきたのか随分と早く感じられたが、時計を見れば十分な時間が経過していた。
扉から出てきたの姿を見て、一同は凍りついた。
洗い立ての髪はしっとりと濡れており、乾ききっていない毛先からは拭いきれない水滴が頬を伝っている。
湯上りの女性が色っぽいという言葉を間近で体験した一同は、咄嗟に声も出ない。
更には跡部が用意したのは男物のシャツ1枚。
非常時だったので仕方ないと言えば仕方ないのだが、小柄な身体を覆うのはそれ1枚のみで、シャツの下から覗く足は当然下にはスカートもジャージも短パンもはいていない。
幸か不幸かにとっては相当大きいサイズだったので、特別露出が高いわけではない。
意図したわけではないがこれは少々やばいのではないかという思考が健全な青少年の頭をぐるぐると駆け巡る。
非常事態なのだから仕方がないが、ジャージを貸し与えた方が男子部員の精神安定上よかったのではないだろうか。
特に持ち主の跡部はのその姿に予想外の衝撃を受けたようである。
「跡部先輩、ありがとうございます。後で洗って返しますね」
「あ、あぁ…」
汚れを洗い流してすっきりと上機嫌になっているに、今になってそれを脱げとは到底言えず(間違いなく痴漢扱いされてしまう)、跡部は気の抜けた返事をすることしかできなかった。
「男のロマン…」
背後からそんな台詞が聞こえたが、もはや何も言う気にはなれなかった。
その日の制服が乾くまで、は部室から一歩も出ることは許されなかった。
- 07.08.11