どうも何かが物足りない。
そう感じているのは、おそらく岳人だけではないのだろう。
その証拠につい数時間ほど前に行われた朝練の時に比べて、明らかに部内に活気がない。
といっても練習をしていないわけではなく、コート内には大会へ向けての最終調整に余念がない正レギュラーの姿もあるし、これからの練習メニューを考えている鬼部長の姿もある。
ギャラリーの数も相変わらずフェンスを覆い尽くさんばかりに連なっており、それこそ多少の会話などかき消されてしまうほどの黄色い声援にも十分すぎるほどに恵まれている。
だが、それでも張り合いがないのだから仕方ない。
原因はわかっている。
つい先日入部したマネージャーの不在だ。
その卓越した能力を見込んで、半ば強引にマネージャーにした少女。
小柄な自分よりも更に小さく、黒目がちの大きな目で見つめる姿はまるでどこかのCMに出ている子犬のようで、だがマネージャーとしての業務は完璧にこなす少女は、今や氷帝学園テニス部にとってなくてはならない存在になっている。
すべてにおいて完璧を求める跡部ですら文句のない仕事ぶり、部員たちの些細な表情の変化すら気がつく細やかな神経。
だが、自分に向けられる好意や熱い視線には呆れるほどに鈍感な少女、。
恋愛感情なのかは自分でもよくわからないが、がコートにいると嬉しいのだ。
大勢のギャラリーの声援よりもの声援のほうが俄然やる気になる。
そんなの姿が今はない。
毎週月曜日の放課後だけは、料理部の活動があるために練習に姿を見せることはない。
それ以外にも料理部の用事が重なれば、はそちらを優先することになっている。
元々先に加入していたのは料理部のほうだし、マネージャー業はほとんど詐欺に近いような形で押し付けたようなものだから、岳人としてもそれを反対するつもりはない。
言えばが困るのはわかっているし、何よりも負い目はこちらにあるのだから。
それに料理部の活動が終われば、は差し入れと称して沢山のお菓子や食べ物を持ってきてくれるのだ。
その完成度はすでに中学生レベルではなく、今ではそれが楽しみでもある。
だが…。
「つまんねえ…」
コートに入る気にもなれずベンチに座り込んだまま、ぼそりと呟く。
いつもなら今頃お手製のドリンクが用意されている頃だと思うと、むさくるしい下級生(本日の当番は日吉である)の用意した味気ないスポーツドリンクに手を伸ばす気にもならない。
「いい加減にしや、岳人。がおらへんからって毎回毎回拗ねてても仕方あらへんやろ」
「別に拗ねてないし」
「それやったら起きるくらいせえよ」
「今休憩中」
ベンチにごろんと寝転んだ岳人に説得も諦めたのか、忍足のため息が頭上で聞こえる。
ある意味自分よりものことを気に入っている忍足ではあるが、の不在に特に気にした様子もないのはポーカーフェイスなのだろうか。
「なあなあ侑士」
「何や」
「お前はさ、つまんなくねえの?いないんだぜ」
「仕方あらへんやろ。最初からそういう約束やし」
「…あっそ」
あっさり言われてしまえば反論する言葉はない。
子供じみた独占欲と言われてしまえばそれまでだが、岳人は気に入ったものは常に傍においておきたいという感情が強い。
それがに対してなのか、の作った料理に対してなのかは判断に困るところではあるが、岳人が今一番気に入っているのはであり、その彼女が自分の目の届かない場所にいるのが気に入らないのだろう。
時計を見れば、間もなく16時。
料理部の活動が終了する時間である。
「そない気になるんやったら、迎えに行ってくればええやろ。跡部には上手く言っておくさかいに、の荷物持ちでもしてきたらええ」
「……そうかっ!!」
あまりの凹み具合に仏心が出てしまったのが悪かった。
思わず口にした言葉を聞きつけるが早いか、一転して明るい表情になった岳人はその俊敏なフットワークを活かして、あっという間にコートから姿を消してしまった。
「…やれやれ、まだまだお子様やんなぁ」
この後に起こる騒動を、忍足は想像していなかった。
◇◆◇◇◆◇
ふわふわの土台は、の手によって綺麗に装飾が施されていく。
直径20センチほどのスポンジだったそれはわずかな間に生クリームや沢山のフルーツでデコレーションされ、ショーケースに並んでいてもおかしくないほどのできばえであった。
ショートケーキ、シフォンケーキ、タルト。
和洋中何でもこなすではあるが、実は彼女が最も得意とするのがお菓子作りである。
特に彼女の作るケーキは絶品で、母親であり高名な料理研究家である弥生が商品になると太鼓判を押すほどの腕前なのだ。
その実力を如何なく発揮するように、今は全神経を集中してスポンジに向かっている。
果物を飾り、その周囲に生クリームでデコレーションをする。
真剣な表情のを邪魔しないように、広い調理室には物音一つしない。
「これで…完、成!」
最後の薔薇を作り上げて、は大きく息をついた。
その顔には満足そうな笑みが浮かんでおり、どうやら満足のいくものが作れたようである。
「相変わらずってばすごいよね。こんなに細かいなデコレーション、お店でもあまり見ないよ」
「そりゃ、頑張りましたから」
「本当見た目も味も完璧だし、将来絶対お店開くべきだって。絶対売れるから」
目の前に広がる完成品の数々に向けられる友人の賛美に、は嬉しそうに笑う。
楽しんで作ったものだから、やはり褒められれば嬉しい。
「で、どれをテニス部に差し入れするの?」
「やっぱりこれでしょ。一番大きいし、手間かかってるし」
朱夏に訊ねられてが示したのは、縦30センチ横40センチの巨大サイズのケーキ。
ウェディングケーキなどに用いられる長方形サイズの大きなケーキであるが、勿論学校にそんな型が置いてあるはずはない。
ましてやそんな大きさのケーキを作るサイズのオーブンでもないために、スポンジを合体させて作った力作である。
ふんだんに使用されたフルーツは、が持参したアイベリーの他にたくさんの種類の果物が飾られていて見た目も豪華だ。
意外に甘いもの好きが多いテニス部だから、多分喜んでくれるだろう。
「でも、どうやって運ぼうか。ここで切っちゃったら勿体ないよね」
「やっぱりこれは皆に見せびらかさないとでしょ。とりあえず冷蔵庫に入れておいて、チョタにでも運んでもらおうよ。うちらじゃコートまで運べないって」
「そうかなぁ。何とかなる気がするけど」
「じゃもっと駄目だね。廊下に出るまでに確実に転ぶから」
「そんなことないもんっ」
「はいはい、じゃあこれを一旦冷蔵庫に入れておきましょう。、手伝って」
否定の言葉をあっさりと流されて面白くないわけではないが、口でこの親友に勝てたことがないので反論をしようとは思わなかった。
むしろ反論しようものならぐうの音も出ないほどに言いくるめられると分っているのだから、無駄なことはしないほうがいいのだ。
「ほら、。はーやーくー」
「あ、うん」
綺麗に飾り付けられたトレイの端を持ったまま促されて、は慌てて手を伸ばす。
銀のトレイに飾り付けられた大きなケーキ。
そのデコレーションの一つ、飾りつけられたフルーツのカットにもこだわって作ったそれは、おそらくが今までに作ってきたものの中でも最高の部類に入るだろう。
テニス部の皆は喜んでくれるだろうか。
味にも外見にもこだわる部長はどんな反応を見せるだろうか。
そんなことを考えれば自然と口元がほころんできて。
知らず笑みを浮かべながら2人でトレイを持ち上げたその矢先。
「〜〜〜っ!!」
聞きなれた明るい声が聞こえた。
調理室の扉を開けて乱入してきたのはテニス部一身軽な岳人で。
入ってきた勢いそのままにに突進してきた。
「、早く部活行こうぜ!」
ドン!
「あっ…」
グシャッ!
「…………………………………………」
そのとき確かに時間が止まった。
その後、放課後のテニスコートでは親友の胸の中で泣き崩れると、悪鬼の形相でおかっぱの少年を睨みつけている朱夏。
そして馬車馬のように雑用をこなしている岳人の姿があった。
- 07.02.07